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ウサギの校舎 7話

 全てが不思議だった。彼女は自分の事を「良い人間」だとは思っていなかったが、「悪い人間」だとも思っていなかった。では彼女を今の悲愴に導いた要素は、いったい何なのか。女性でありながら、女性を愛したことだろうか。村民でありながら、それを疎み彼のような「余所者」に惹かれたこと。それが、分を弁えない罪だったのだろうか。
つらつらと考えるうちに広場に着いた。今朝の争いはおさまり、嘘のように静かになっていた。彼女はカレンとトンを探して、役場の事務室に入った。トンと、村長や工場の責任者など、主だった者たちが、まるでお通夜のように沈み込んでいる。彼女が来たことに気づき、トンとその父親でもある村長は顔を上げて、その視線は鋭く尖っていたが、彼女の全身を認識すると同時に、瞠若して息をのんだ。
「カレンは?」
彼女は言った。
「お前こそ、あの男はどうした」
トンが詰問した。
「死んだ」
「なんだって?お前が殺したのか?彼女に何を言った?」
彼女は首を傾げた。
「とぼけやがって。お前はとんだ厄病神だ。公安の連中は、西に配した部下から連絡がない、彼女があの男を庇って逃がしたと疑って、連行されたんだぞ」
今度は彼女が目を丸くする番だった。
「どうしてカレンが疑われるんだ?」
「お前ら、コード番号じゃない変な個人名を付けて呼び合っていただろう。それが、反抗勢力の証拠だ、と!」
彼女の脳裏に、「この世でいちばん美しい音楽は、人の名前だ」という彼のことばが、鮮やかに蘇った。そして、広場で彼女の名前を呼ぶ姿も。あの時、彼女は振り返らなかったから、カレンの姿を見ていないけれど、彼女は樺色の眉をひそめて、心配そうな表情をしていた。
「彼女はどこに連れて行かれた?」
「護送車を呼び、監視と尋問を理由に、工場を貸せと言われた。仕事も滞るが、拳銃のおかげで文句も言えない。お前の―」
責任だ、とトンが言い終わる前に、彼女は部屋を飛び出した。
彼女は近接戦闘について天性の才能がありながら、狩り以外の実践が無いため、手加減できない。そのため、工場で見つけた、男の「取り調べ室」に付いていた見張り役も、やはり殺した。次いで、元凶の男も殺した。後で知ったことだが、この時カレンを連れて行った男というのが、実績を上げるための罪の捏造、取り調べと称し強姦、処分されそうになると、他者に否を擦り付けるという、彼女の知る限りで最低の畜生だった。
工場で彼とカレンを見付けたときには、カレンは犯されている最中で、それで彼女の多少なり冷静だったはずの心がぷつりと切れた。見張りがいるからと油断していたのか、彼は鍵をかけていなかった。
 男がカレンに何をしているか知った彼女は、細く高い悲鳴を上げた。彼に気付かれ、危うく撃たれるところだった。男の前に、三人を刺していたナイフは切れが悪くなっていて、その上、それまでに刺した誰より男は頑強だった。最初に首を刺せたのは良かったが、彼は太い血管や喉仏を避け、刃を手で止めた。男は尚も体重をかけて深く突こうとする彼女を蹴り上げた。拳銃を弾く音とは違う。内部で何かにヒビが入る鈍い音がして、彼女は床を転がった。
「ふざけやがって」
彼は懐から拳銃を取り出し、ハンマーを起こした。
体を丸めて痛みに耐えながら、彼女は不思議な高揚を覚えた。死ぬことも殺すことも、こんなこと、今朝まで、彼女は望んでいなかったはず。誰かを疎んじても嫌っても、誰にも、殺意なんて抱いていなかった。それなのに。
「死ね」
と、彼女は見張りから盗み、ズボンのウエストに引っ掛けていた拳銃を撃った。セミオートの拳銃からは次々と弾丸が飛び出し、彼を穴だらけにした。男も引き金を引いたが、狙いは定まっておらず、彼女の足元を抉っただけだった。
彼は自らの出した血だまりに倒れ込んだ。彼女は、痛む脇腹を押さえて、ぐったりとしているカレンの傍に歩みよった。
「カレン?」
カレンは向精神薬を無理やり飲まされたらしく、口からあぶくを吐いて、こと切れていた。
 こいつ・・・死体を抱いていたのか?
それを認識するやいなや、膝をついて、嘔吐した。ついに彼女は精も魂も尽き果てた。
日が傾く頃やってきた警察に連行されるときも、彼女は無抵抗だった。石膏ボードで塗り込められただけの無骨な部屋に押し込められ、手足を拘束されたまま、取り調べを受けた。担当だったのは、最初に村に来た連中よりはマシに見える、八の字の眉とまっすぐに切りそろえられた前髪が印象的な、女性だった。
「あの小隊を貴女が一人で全滅させたというのが、私には信じられないわね」と、彼女は言った。信じられないなら、どうせよと言うのか?独り言なら壁に向かって話していろ、と、爪(ソウ)は内心で毒づいた。
「本来なら死刑が妥当。けれど、あの小隊はいよいよ命令無視がひどくてね。上層部で評判がとっても悪かったから、ひょっとすると貴女、死なずに済むかもしれないわね」
彼女は眉をひそめた。女は話を続けた。
「貴女は赤い血のようだけど、変わった色だし、見た目も良い。貴女のような子が好きな子に心当たりがあるわ。仕事をする気はある?これによると―」
そう言って女はメモを開いた。
「貴女は町に行きたがっていたんでしょう?良かったじゃない。凶行に及んだにも関わらず、仕事がもらえるなんて。こんなグッドラック、そう無いわよ?」
益体もない事を、ペラペラと。
「うるせぇ、ババア」
彼女は言った。
「ババアですって?」
女はムッとして、彼女の頬を何度も殴った。
「口が悪い。所詮下賤な田舎育ちね。教養が無い」
頬を打たれながら、違和感を覚えた。激昂しているはずの女が手加減をしている。
「?」
女は彼女を見下ろし、ニヤニヤと笑っていた。
「貴女は何も分かっていない。自分一人が、地獄を見てきたみたいな顔をして。ここに連れて来られる奴は、そういう顔をしている事が多いのよ。一人前なの、は反抗的な目つきだけ。でも、結局はあの男のように、勝手に絶望し、大して何にもできずに死んでいくわ!」
「あの男」が誰を指しているか察して、彼女はいきり立った。けれど、背もたれの後ろで手を縛られているため、女に掴みかかる事は叶わなかった。
「お前らが殺した。人を殺せるのが、そんなに偉いのか」
「偉さの多寡でないわ。手段として、都合の悪い人間を殺すのは、究極にシンプルというだけ。だって、貴女のような田舎者でも使えて、有効に機能したでしょう。それが出来なければ、貴女はとっくの昔に死んでいる。自分の弱さを呪いながら、ね」
「・・・・・・」
「あなたが殺した男。あの下劣な男のことよ。あの男と私は同期なんだけど、彼、学校にいるころはもっとロマンチストで、いい奴だったのよ?いろいろなモノに絶望して、次第に割り切って、楽しむようになったわ。―少し目に余る、割り切り方だったけど。案外、上層部はあの村の反撃を期待して、彼をあそこへ向かわせたのかもね」
「おい、ババア。何が言いたい」
「簡単よ。あの男も貴女も行き着く先は、似たようなモノだって言ってるのよ。」
頭に血が上っていたが、ことばは出てこなかった。
「彼との違いを残り少ない生き様で見せつけたいと言うのなら、せいぜい手足を投げ出し無気力に過ごすと良いわ。労働に向いていないと分かったら、貴女の『価値』は、そうね、体くらいでしょうね。けれど、貴女って、顔は奇麗だけど、体つきは発展途上、まるで鶏ガラみたいに貧相だし、一部のマニアしか好まないわ。ふふ。それでも死ぬよりマシなのかしら。自尊心を粉々に打ち砕かれて、廃人みたいにはなると思うけど。貴女って分に合わず、プライドが高いみたいだから。さぁ、もっと憎まれ口を叩いてごらんなさいよ」
彼女は俯いた。
「降参?手も足も出なくて、口しかないのに?早い、早すぎるわ」
女が腰をかがめて彼女の顔を覗き込もうとした。本当は首に噛みつくつもりだったが、女が素早く飛び退いたので、女の手首を噛むことしか出来なかった。
手首では、薄く肉を噛みちぎったところで死にはしない。女は驚きの悲鳴を上げたが、胆が座っていた。女に目を抉られそうになり、彼女は慌てて口を離した。女の手首に、深い歯形がついた。彼女は、口に溜まった血を痰と共に床に吐いた。
「ちぇ。おい、口を縛っとくべきだったな。ババア。それじゃあ、取り調べの体裁もつかないか」
「ババア」呼ばわりには怒った女だが、手首のしびれるような痛みに顔をしかめながらも落ち着いた声で言った。
「あなたの気持ちは分からなくも無いわ。実際、ココにも彼の講釈にほだされていた者が、たくさんいた。だからこそ、彼は明らかな違反が無いにも関わらず、逮捕状が出されたのよ。彼は言っていた。ウサギは分かっていても、知的好奇心を抑えられず、罠にかかって死ぬものがあるのだ、と。知への欲求は、功名心や権力への欲求とは違う魅惑的なもの。だから、革命などという過激思想が芽吹いたのよ。彼は、思想犯で、それに影響を受けている貴女も、生かしておけば、脅威と成り得る。でも、性犯罪者より思想犯の方が、個人的には好みだわ。慈悲をあげましょうか?今、殺してあげてもいいわよ」
彼女は、顔を上げた。
「絶対に死ぬ選択肢というのは、ベストでは無いはずね。それなら、貴女には何度も『自分で選べる瞬間』があったはずだから。生き残る可能性を探るには、生きるしか無いけど、貴女、言っている意味分かるかしら。どうする?」
「・・・名前」
「なんですって」
「名前は書いてない?そのノートには?」
しゃべると唇に女の皮膚が残っていることが分かったので、彼女は肩でそれを拭った。それを見て、女は心底嫌そうにした。だが、ノートを一瞥し、
「書いてないわ」
彼女は落胆した。
「付けても良いわ」
「反逆者の証拠だと」
「庶民や学生とは違う。私たちは仕事で個別の名前が必要な事もあるし、その権利がある」
彼女は顔を上げた。
「ああ、素直な反応。可愛いけど、子どもっぽいわ。まず躾と教育が必要よ。それから体制に逆らわないという書類に、拇印を押してもらう」
女は、手首の血を拭い、薬を塗りながら言った。
「アンタに名前をもらうのは・・・嫌だな」
「生意気ね」
 
爪を見送ったあと、静はまた、考えた。
最も平和な未来。運命なら仕方がない。上に虐げられるのも仕方ない。そう考えていたのは、静はトップでなくとも・・・自分は「上の立場」だと思っていたからだ。
いつから、そう思っていた?爪は一体なんだ?清掃員なのに、愚かさも卑屈さも感じさせない。ある種の厭世観は感じたけれど、一体どういう立場の人間だ?
犯人も、そうだ。どういう立場の人間で、花を殺そうとした?
爪の話を鵜呑みにしていいかは分からないけど、きっと静がこのまま思いに任せて行動すれば、教師から排除されるだろうというのは、本当だろう。
清掃員のような劣等者の言うことに、本来なら耳を傾けるべきではない。過去を持たないこの学校の生徒らは、「清掃員と口を聞くべきではない。彼らは賤しい人間なのだ」
それを、一体誰から教わった?
普通。
未来。
世界の当たり前だった事が、何故当たり前なのか、どうして違う事ではダメか、気になり始める。
爪は言った。ここはウサギの校舎。
私は罠が気になって仕方ないウサギ。
この学校自体、静が今まで見聞きしたもの全て、虚飾。
偽りだからこそ、安全で、そして美しい。
静は湖畔を眺めた。どんな道を選ぶにせよ、静は一人で生きていく事はできないだろう。
ここから逃げる事も。
殺されるなんて冗談じゃない。
けれど、ここを生きて卒業することが、彼女には難しくなったのだ・・・。まずそれを受け入れよう、と静は思った。パニックになってはいけない。
静は教室へ戻った。午前の授業はほぼ終わっていたが。午後の授業までサボタージュしなかった。けれど、集中はできなかった。
大脳皮質から奪われた記憶。
今も活発に働く海馬。
感情。
 犯人をどうやって見付けるかが最優先とは分かっていても、その方法が分からない。爪は、逃亡の手引きをする条件として、聞いたことをただミス研に伝えれば良いと言った。だが、考えてみれば、今は「犯人が分かった」という以外に、静がミス研連中に話を聞かせる術はない。爽が死んで、その場に居合わせたのは静だと、そこかしこで噂が広がっている。あたら連中を集めて、劣等民族の清掃員と話したこと、などを伝えても、誰も聞きはしないだろう。
また、爪は「教師のくれたヒントを生かせば、犯人が分かる」と言った。今さら教師の何を信用しろと言うんだろう。もらったモノと言えば指紋採取キットだけ。しかもキレイに指紋が取れない。
 
 午後の授業を終えてから、保を連れて、体育館へ向かった。
 手詰まりの静ができる事と言えば、結局もう一度、現場を検証する事だけだった。
保は、静の方から声をかけてもらった、と、浮かれていた。酔っているのか?と問いたくなるほど、無意味に頭をフラフラさせて付いてきた。光栄です、とか、今日も美しいです、とかなんとか、保のことばを聞き取ったような気がするけど、確認するほどの事でもないので、無視した。
「ミス研の子からで、この間殺された花と、貴方が話していたと聞いたの。どんなことを話していたの?」
「ええ?ぼぼぼくの話していたことが、き、気になる?!そ、そ、それはどういう・・・」
 
「ううん。質問に深い意図は無いの。答えてくれる?悪いけど、貴方、滑舌悪くてどもりぐせがあるみたいだから、無理に文章にしなくてもいいわ。単語を並べるだけでも良い。ともかく簡潔に」
気の毒だが、冷たく突き放したような物言いの方が、彼はトーンダウンするので、わずかに聞き取りやすくなる。
「べ、別に。僕もミス研に入れてほしいって」
「それだけ?それで、花はなんて?」
「無理だって言われました。彼女に嫌われていたみたいで・・・僕は気持ち悪いから、入るなって・・・うっ」
「ふうん?ミス研の部長は私なんだけど、なんで私に言わなかったの?」
「いやあ」
何が「いやあ?」なんだろう。
「入部しても良いけど、やめといた方が良いわよ。今、いろいろうまく行ってなくて、もうすぐ廃部になるかも知れないし」
「い、い、いい良いんです僕は。貴女がいるなら」
「そう、それなら」
と、静は保を振り返った。保は熱い眼差しを静に向けている。
代わりに死んでくれない?と、静は冗談めかして言いたくなった。と、同時に、この人はなんで、こんな風に、ろくに話したこともない静に、好意を向けるんだろう。思えば、七海もそうだ。俊郎のことも。好意を向けられる理由が分からない。自分が可愛いことへの自覚はある。
けれど、流石に自分の状況を理解すれば、大抵の者は離れるだろう。教師に叛逆しても、身の危険があるだけで、生徒には誰一人として得は無いのだから。
ああ、そうか。と静は思った。
だから、あの日記主の年、あんなに生徒が死んだのか。学校にとっての最も排除すべき対象は、感染者ではなく、感染源なのだ。
「な、な何か?」
保は忠犬のように、静のことばを待っている。
「ううん、なんでもない。行こう。手伝ってほしいことがあるの」
爽への黙祷は午前中の数分だけ。部活動も始まる前で、校堂は閑散としている。なんの変哲も無い。
湖の方からやってくる空気は、いつも少しだけ湿っているが、それが心地良いか気持ち悪いかで、静は自分の気持ちがどこにあるかを知る事ができた。今はそれが分からない。心は凪いでいたが、拠り所を無くした。
「保くん。貴方は故郷のことや両親のことを覚えている?」
「え?」
保は呆けたような顔をした。世界線第一・この学校の常識では、あり得ない質問だったから、驚いたのだろう。
「じ、実は、あんまりよく覚えていないです・・・けど」
「けど?」
「優しかったと、思います。だ、だけど、もう生きていない。そして僕の幸せを願っていた。僕が覚えているのは、それだけです」
「え、そんなに、覚えてるの?貴方」
「あ、あはははは。そ、そそそんなにおかしいですかね。ああ貴女はもしかして、全く覚えていないんですか?ぼ、僕も今度、みんなに聞いてみようかな」
「やめてよ」
鼻につく、死の匂い。静に刷り込まれた学校側の考え、「お前は死ぬべき人間なのだ」という声がドンドン大きくなり、静は頭が痛くなった。
静は体育館で、花が倒れていた場所、ミステリー小説にあったように、死体のフリをしてみた。保はそれを、不思議そうに眺めている。なんのひらめきも無い。仕方なく起き上がり、科学室に行く。
「ねえ、科学部って科学室の備品を部活で使う代わりに、各クラスの授業の準備もしてたわね。時間割、教えてくれる?」
ミステリー研究部のメンバーが、いつ科学室にいたかを知りたくて、静は保に聞いた。
「ああ、それなら」
と、保の話をまとめると、こうだった。
・ミステリー研究部で課題が出た日 静のいるクラス。
・一日目の午後 三郎のいるクラス
・二日目の午後 爽と美香のいるクラス。
・三日目の午後 七海と俊郎のいるクラス。
花の事件に使われた道具は、ガスボンベとコンプレッサーだけではないはずだ。工具なども、科学準備室から持ち出した可能性が高い。だが、それでなくても科学用具室は雑念としている上に、複数の生徒が使う。日々、少しずつ様相が変わるのが当たり前の用具室である。そのため、保を連れてきたが、事件前後でどう変わったか、聞き取りだけでは分からなかった。
昨日、この辺の指紋は静一人で調べている。
今日は、保に、ガスボンベを扱うとき、どこに指紋が残りやすいか尋ねてみようと考えていた。
「そうですか。レギュレーターは調べましたか?」保は言った。
「レギュレーター?」
「調圧と空気流量を調節する、これです。確認するとき、こう、手をかけますよね」
「なるほど・・・」
指紋も残りやすそうだ。
そこで、静は奇妙な事実を発見した。一昨日は、粉を叩くとそこかしこに浮かびあがり、掠れたり縺れたり、何が何やらサッパリ分からなかった指紋が、今は、キレイさっぱり無くなっているのだ。
「掃除した?」
「いや、他の部員にも聞かないと、わからないけど・・・」
レギュレーターは盲点かと思ったけれど、触れずとも屈めば確認できる。初めから指紋が付いていなかっただけかも知れない。
念のため、再度、ガスボンベのバルブやコンプレッサーに磁気パウダーを付けたが、物の表面に粉が均されるだけで、誰の指紋も浮かび上がらない。
職業・清掃員の爪が掃除したのなら、またはその事実を知っているのなら、それこそ、静は聞かねば分からない。爪や保に嘘を吐かれたら、いよいよ混乱するしかない。
いや、そもそも爪の言う事など、まず信用するのが間違いだったか。
ただ、もし、あるいは、昨日から今日の間に犯人が証拠隠滅のために、指紋を消したのだとしたら?
彼女はこの三日間を振り返った。
まず、ミステリー研究部で課題が出された当日に、静は俊郎と校堂を調べた。
一日目、静と保は科学の授業。保は、ホームルームの後、静に協力を申し出て、その後のミス研の集まりで、静と俊郎は、青い血を疑い、三郎は赤い血を疑い、亀裂が入った。
二日目、爽と美香は、ミス研の活動に参加しなかった。その日の夜に爽は死んだ。
三日目、つまり、ついさっきだが、七海と俊郎は、科学室での授業があった。
静が明確に調査予定のことを発言しているのは、ミス研での話し合いの時だけだ。そして、保のことは話しそびれている。
知っていることと知らないことを、犯人の立場になって考えると、二日目と三日目の間にわざわざ消しに行くという不自然なことをした怪しい人間が、一人に絞られる。
もちろん、静を引っ掛けようと犯人が画策している可能性だってゼロでは無いが。
どうしてアイツが。と、思うと同時に腹が立った。今まで、騙されていたのだという屈辱。俊郎とセックスしたときだって、こんな屈辱は感じなかったのに。けれど、瞬間的に沸いた怒りは長く保たなかった。やはり知りたい気持ちが勝ったのだ。
彼女も、爪に会ったのか。
「ど、どどどうしましたか?なんだかぼーっとしているけど」
「ううん。なんでも。ありがとうね。いろいろ協力してくれて・・・」
犯人は分かった。そして、静は感じた。情報や知識は、共有する者も間である種の絆を産むものだ、と。事実を追求すればするほど、爪や犯人への、嫌悪感が薄れていくのが分かる。誰も、死にたくはないはずだ。静は目を閉じて、覚悟を決めた。
 
美香は言った。
「静から犯人が分かった、と聞いたので、今日は来たわ。けどその前に先生に確認したい事があるの」
美香は言った。
「爽が死んで《六人一致》は不可能になったわ。そこのところのルールはどうなるの?爽が殺されたことも、課題に入るのかしら」
スピーカーが言った。
「コード:〇〇が亡くなったことは、本課題とは関係ありません。五人一致の正答にて、課題達成ということにしましょう」
円卓の中央から映写機の光が差し、花の顔が映し出された。
顔色は悪い。汗ばんだ額に前髪が張り付いている。画面外の右腕に、点滴を打っているらしく、管が映っていた。
「花、久しぶりね。でも生きていて良かった」
「うん・・・」
返事に覇気がない。
こんな状態の花に採決させたところで、何か意味があるんだろうか。
と、思った途端、なぜか画面が消えた。
ややあって、
「花は、多数派の意見に無条件で賛成するとのことです」
と、スピーカーが言った。
「なるほど」
美香が言った。
静は、画面外で行われたやり取りが気になった。なぜか爪と話してから、存在すらしなかったはずの記憶が、そこにあると知覚できるようになっていた。全ては霞がかっていたが。
教師陣は、私達の記憶を、不当な理由で奪っている・・・。
「楽なことね。私達五人の中に犯人がいて、それを除いた四人の意見が揃えばいいの。私も、疑念の挟む余地がなければ、これから静の話すことに反対するつもりは無いわ。さあ、どうぞ。はじめてちょうだい」
美香は、何も思わないだろうか。
このふざけたルールに。
爽が死んだことに、痛みを感じたりはしないんだろうか。
爽を殺したのは誰か、気にならないのだろうか。
私達の命が教師に凌辱されていること、わからないのだろうか。
もし、私が。
静は思った。
犯人が人を殺したことに対して、苛立ちや、幾ばくかの共感を抱いていたとして、それはもう、世界線第一では生きていけない「異端の思想」になるのだろうか。
殺人事件を捜査するというのは、畢竟、犯人の思想をトレースするということだ。学校側が生徒に望む思想とズレているのなら、それは知るべきではないことだ。
「その前に、ひとつ確認しておきたいことがあるの。俊郎と七海に」
「なんだよ?」
「なあに?」
「科学室を調べておいてほしい、と伝えたわよね。そこに何か発見はあった?」
「ん?特に何も」
「・・・うん」
俊郎は何も調べていないだろう。この調子では、七海が俊郎に伝えたかも怪しい。
では、七海は、どうだろうか。
しかし、静は確信した。
どの道、答えは出ている。
それをこの場で言おうが言うまいが、おそらく結果は同じだ。
静は話し始めた。
「これは呪いじゃなく、殺人です」


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