ウサギの校舎 6話
「世界線第一と第二の違いを一言で表すなら、それは「宗教の有無」だろう。
その本は、こう始まる。それは主に世界線第一と第二の歴史を比較する。政治的偏向が無く読みやすい、町でも評判の図書だと、彼は言った。
彼のことばには、今でも分かるところと分からないところがあって、彼女は、秘蔵のコレクションを思い出しては愛でるように、彼のことばを反芻する。
彼と出会ってからもう何年が過ぎたか分からない。彼女の粗暴は少しずつ改善されているように感じる。当時、十五歳頃の自分を表現するようなことばを、いつだったか、彼女は辞書の中から見つけ出し、腑に落ちていた。
「思春期」
こころの発達と問題行動の理解。仲間との関係で変わる、不安定でアンビバレントな自分。
カレンに思いを伝える事ができなかったとしばらく悔いていたものの、思えば彼女はキチンと自分の気持ちを示していた。
美人で人当たりの良い彼女は、思えば幼少の頃から村で浮いていた彼女に、気さくに接してくれた。
「私、心配だわ。あなたを置いて、お嫁に行くの」
彼女はよく、冗談めかしてそう言った。
「じゃあ行かないで。僕と結婚してよ」
「それは無理よ」
そう言ってじゃれあうまでが、彼女らの間でひとつのパフォーマンスのように当たり前のものとなった。唇に軽くキスする程度なら、カレンは拒まなかった。いつだったか、どこまで許されるか、試したくなった。
けれど許される程度はそこから先になく、カレンが彼女を拒むようになった。ふざけ合いながらも、拒絶の意思を感じた。
「女同士でオカシイってよ」
カレンの嫁入りが決まっている村長の息子・トンに、いつだったかそう言われた。
彼女はカッとなって言い返そうとした。けれど、そのときはことばが出なかった。
トンは、女同士のカレンとの仲に嫉妬しているだけ。けれど、そこから先、未来のない彼女は、トンに嫉妬していた。いつもは彼女の味方をしてくれるはずのカレンが、その時ばかりは、困惑と安堵の表情で彼女を見ていた。
その目が切に「分かってくれ」と言っていた。カレンの潤んだ瞳と、彼女が亡くなってすぐの虚空を映すガラス玉のような瞳が、交互に明滅する。
彼女は、今でも叫びだしたくなるような孤独に苦しみながら、それでも生きてその先を知る欲に抗えない。
彼女が産まれた村は貧しかった。
南、東、西の三方は山に囲まれているが、そこにめぼしい資源はなく、二代ほど前の村民が建てた工場が、村の収入の支えだった。大人は、当然のようにそこで働いていたから、彼女も漠然とそう考えていた。けれど、思春期になって、工場があるから「ダメ」なのかも知れないと、そうも考えるようになった。製造用の水を地下から引いてはいたけれど、下流の川の水質は安定せず、製品の出来にもムラがある。町の暮らしが影響しているらしく、先読みがしにくい。さりとて、村長が町長にモノ申して、大規模な調査や改善に協力してもらえるのなら、初めから貧乏に甘んじる必要がない。
けれど彼女は、村を自分の意思に沿わない不満として抱くほど、貧困に嫌悪を感じていなかった。着るものや食べるものが常に不足していて、節約するのも修繕するのも当たり前だった。
ただ、なぜだろうか。彼女は時折、酷い癇癪を起こした。
カレンのこと、工場のこと。それは村民が恐れるほどの激しいもので、手近な人間を殴りつけるという、質の悪いものだった。その時々で動機らしいものはあるのだけど、癇癪玉を爆発させた後で振り返ってみると、何が彼女を怒らせたのは、彼女自身にも分からない。「いつも通り」がトリガーなのである。
彼女の幸いにして不幸は、道具を武器として使い、動物のどこを痛めつけるのが効果的か、相手の反応によって鋭敏に感じ取れる才能があったことだ。冬に備えての狩り、乾物を作る器用さもあった彼女は、ある面で貴重な戦力だった。と、同時に、男衆では制御しきれない攻撃的な部分を、疎まれてもいた。肉体の痛みに敏感ながら、心の痛みに鈍感な彼女は、他人が自分の事をどう思っているか、深く気に留めたことがなかった。ただ、心のままに傷付けた後は必ず何か苦いものが胸に残ること、それが良心の呵責とは気付かず、それが新たな不満となり大きくなっていくことを、それがそのまま彼女の弱点になっていることを、本能が危険と告げていた。
ある時、ふと自分の中にある不満の正体が気になり、彼女は出来事をどこかに書きつけることにした。紙やペンは貴重品で、彼女は手に入れる事ができなかったから、物置の隅に、白墨で記録した。
「友人」「仕事」「女」「男」「町」「村」「貧乏」「富裕」「名前」「世界線第一」「世界線第二」「赤」「青」
意味の無いことばの羅列にも感じられたが、彼女にはおぼろげながら、癇癪の輪郭を感じ取れるような気がした。村には同世代の女の子がいる。その子・・・出生届を提出すると与えられるIDコードは、重要ながら複雑なので、仮にBとする―
Bは彼女と違って、たおやかで、物腰も体の稜線も柔らかい、悪い言い方をすると男好きのする女性だ。彼女もBが好きだった。彼女は、世界線第一でも珍しいアルビノだったが、村民が彼女の扱いに戸惑ったのは、彼女の容姿よりも、ユニセックスな雰囲気だったのかも知れない。彼女自身、自分の性のことをよく分かっていない。性別的に女なのは間違いないが、村民の言うように、で、あるから男性と結婚して子どもを産むだとか、男が外で燃料や食料を調達する間、女は家で煮炊きをするのだとか、そういった「常識」が、頭では分かっていても、どうしても心に浸透しない。その理由の一つは、彼女が男顔負けに狩りが得意だから、である。村にいる頃は、それで納得してしまい、深く考えたことはない。そもそも狩りだろうがなんだろうが、能力がある者が、その仕事をした方が効率的のはずだ。にも関わらず、男の中に交わると、彼女は「女らしさ」を求められるのだ。それが不満だ。男の仕事なのだから、と、手柄を譲るように命令される。口論の末、相手を腕力でねじ伏せる。
Bは、彼女と相手の仲裁役だった。
不思議なことに、Bには、殴った彼女の気持ちも、殴られた男の気持ちも、よく分かるようだった。彼女もまた、Bの包容力に包まれて、とげとげしい気持ちを抜かれてしまう男の気持ちがよく分かったし、Bに「暴力はよくない」と説かれると、自分の否を、素直に認めることができるのだった。
「私は女だけど、女らしさを求められると、どうもイライラしてしまうみたい。あなたはどう思う?」
そう、Bに聞いてみた。
「そうね、そんな感じがするわ」
「どうしたらいい?」
Bは首を傾げた
「あなたは、どうしたいの?」
「よく分からない。いや、村を出たい。町で傭兵の仕事とか、自分を活かした仕事が見つかれば」
「そうね」
首肯したBの表情は、暗かった。村で生まれ育った者が、町に出て職を見つける事の難しさを知っているからだ。赤い血の人間となれば、尚更。いつの時代の話かも分からない、富裕層に運よく見初められ、お抱えのアーティストとして成りあがった者の伝説が語り継がれている。町に出る者だけは引も切らないが、その多くが野垂れ死にしているのではないか、消息が知れない。
彼女にとっての転機が訪れたのは、ある春のこと。食べ物の心配は減るものの、仕事が増え、雪解け水が靴を湿らすのが不快な季節だ。ひとりの行商人が町からやってきた。蓬髪で見栄えは良くないが、たくさんの本と珍しい道具を持っていた。村の人間は慎重である。町からの人間は、興味が無いように装いながらも、その一挙手一投足を目敏く見張っている。その心理は、金目のモノを持っているか、そして、自分たちが逆にカモにされる事はないか?
この二点だ。世界線第二のことば「都落ち」の定義は、世界線第一でも同じ。やむを得ず村に来たのならば脅威にはならないが、何か意図があって来たのなら、警戒しなければならない。
「どこか住む場所を貸してほしい」
役所にそう申し出たとあって、行商人ではなく移住者なのか、と、みんな警戒しながらも、浮足だった。と、いうのは、彼は町の使者と分かる書類や推薦状を、一切持っていなかったからである。私物は持っていても「身一つ」で来たということだ。しがない村ながら、一時逗留や稀に観光目的で、町から来る人間も稀にある。けれど、どうであれ、町の威光を振りかざす者は歓迎されない。丁重に扱えばそれなりの利益は確かにもたらしてはくれるが、与えた以上のモノを決して返そうとはしない町民を、村民は「ケチ」だと感じている。ケチな人間の事を思い何かを与えるのは、時間と労力の無駄である。けれど、「思うところ」があって、町から出てきた人間は別だ。帰るところがない人間に、生きる場所を与えるのは、この上なく有意義だ。「村に来てよかった」と思わせねばならない。人一人が持てる物は大した量ではないが、町からの「巧」があるのなら。今、村を支えている工場も、もとは町民がもたらした技術だという。村民は、工場の近くの空き家を貸した。しばらくは客人として扱うが、住むのなら仕事をするという書類に、サインを書かせた。
村民は、彼が村にとって果たして有意義な人間かどうか、目を光らせていた。
その行商人は、学者・職人気質ながら、それそのものとして見ると、人当たりは良い、という、極めて微妙な人柄だった。
村民にとっても、ハズレでは無いが大当たりでもない・・・という微妙なところで、男の一人暮らしを気にして、女衆が食事を差し入れると、礼として家の修繕などを朗らかに申し出る。
日中のほとんどを部屋の中で過ごし、たまに役所に出ては、何かを送り、そして、何かを受け取っている。
それが、どうやら金であるらしい、と、噂がまことしやかに流れた。彼女も、町から突然やってきたも者が、週に一回あるやなしやの差し入れだけでやっていけるはずはなく、どうやって生活しているか分からなかったから、興味がわいた。村民のように、村の繁栄を大義名分にした野心は無い。それが彼女にとって、良いか悪いかは別にして。
あの人の家に遊びに行ってみよう、とBを誘うと、「女だけで行かないほうが良い」と戒められた。
「なぜ?」
彼女は、不機嫌に問い返した。
そして、付け加えた。
「何かあっても、僕がBを守るから平気」
「そんなこと心配してないわ。あの町から来た人、どうも朴念仁のようだし。何もなくても、あらぬ噂を立てられるかもしれない。それが嫌」
Bの誘いで、何人かの男の子と連れ立って、彼の家に行くことになった。
それが始まりだった。彼は、十五歳かそこらの男女がゾロゾロと借家にやってきたと知っても、邪険にはしなかった。
「やあ、よく来たね」
と、普段飲むことのない味の茶を出してくれた。
そして、彼は子どもたちに教え始めた。積極的なのは彼女の方だった。彼が寛容なのを良いことに、部屋の中にあって興味深い、と感じたものは、すぐに手にとって
「これ、何?」
と、質問をぶつけた。彼は、その一つ一つに丁寧に答えた。
「この村に学校は無いの?」
それが、彼から彼女への、最初の質問だった。珍しい質問だと思ったので、彼女はいつまでもそれを覚えていた。
「無い」
「そうか、勉強したいとは思わないの?」
「役に立つ事なら、学校じゃなくても勉強できる」
「勿体ないな。そんなに若いのに、知識の役に立つ・立たないを、自分で決めてしまうなんて」
それが批判めいていたので、彼女はムッとして彼を見た。彼は、穏やかに彼女を見つめて微笑んでいた。その瞬間、なぜか彼女に生まれてこのかた感じたことのないような羞恥心が芽生え、思わず、目を逸らした。それは彼女にとって、屈辱だった。
「この村が貧乏だから、だから学校なんて無い」
彼女はことばを探して、やっとそれだけ言った。今更ながら、彼女は貧乏を嫌う村民の気持ちが少し、わかるような気がした。
「ごめんね、君の気持ちも考えずに」
僕の気持ち、私の気持ちとはなんだろうか。彼女は不機嫌に席を立ち、彼の私物から勝手に拝借していた地図を、机の上に放り投げた。怒っていたわけではない。ただ、何かが恥ずかしかった。
「帰る」
彼の気遣わしげな視線を背後に感じながら、彼女は屹然とドアに向かった。
「何か知りたいことがあるのなら、何でも教えてあげるよ」
それからしばらくして、仕事の片付いた午後、都合のつく子どもら何人かが彼の集まるのが習慣になった。
彼女は彼の家にある事歴の本に興味を示したが、Bは「何が面白いのか、全くわからない」と、彼女が勧めても手に取ろうとしなかった。その代わり、町で出版されているという刺繍やクラフトの本に興味を示し、それを頼りに、村で代替できそうな材料を調達し、真似し始めた。
「学校って、こんな感じ?」
彼女は、彼に聞いた
「そうだね、もう少し階層に分かれているかな」
「階層」
彼女は眉をひそめた。
「なんだ。町はどれだけ進歩的かと思ったら、やっぱり学校って、体制が理由を付けて差別するところなのか」
「痛いところを突く。ただ、町は子どもの数も多いから、年齢ごとに分けたほうが、都合良いということもあるんだよ」
「ふうん」
「ところで、この村はスゴイね。学校は無いのに、ほとんど全員が文字を読める。誰に教わった?」
「大人が教える。工場があるでしょう?道具の使い方は文章でまとめられている。仕事を覚えるとき必要だし、紙が劣化したら、新しいのに写さなくちゃいけない。必要なことだから覚える」
「なるほど」
「あなたは?」
「うん?」
「誰に教わったの?わざわざ町からこんな不便なところへ引っ越して、なぜ、まだ、勉強するの?」
「一言では答えられない質問だな。君はどう思う?」
「あなたに聞いているのに」
「そうかな。確かに君は必要なことなら学ぶと言っていたけど、今読んでいる本には、この村で役に立ちそうな知識が書いてあるのか?」
彼女は視線を本に落とした。町と村の出生率を比べ、そのデータを元にした著者の考察が書かれている。これが、なんの役に立つのか?と聞かれても。少なくとも、この村では無用の知識だろう。
「なんだか意地悪された気がする」
「ははは」
「ねえ、これはどういうこと?」
傍らで、珍しく小説を読んでいたBが呟いた。
「ここに書かれている人たちは、別に差別化が必要とも思えない凡庸な人たちなのに、IDコードではなくて、個別の名前があるみたいだわ。私、はじめは花も鳥も人語を喋る、ファンタジーな世界観なのかと思ったけど、そうではなくて、これ、みんな人のことらしいの。どういうこと?」
「ああ。その本は世界線第ニの小説を翻訳したもので、世界線第ニではそうなんだ。すべての人に名前があるんだよ」
「名前ならある」
彼女は反駁した。
「人、赤、青。出生年数か、あるいは、仕事の担当日が決まれば、それで区別できる。それ以上に細分化する意味は?」
「うーん、親近感が湧くんじゃないかな」
「シンキンカン?」
彼女とBは、目を丸くして、思わずお互いの顔を眺めた。彼は、何を言っているかわかる?
「そんなものが、何の役に立つの?」
「世界線第ニは、第一よりもずっと情緒を大事にするようだ。こういうことばがある。この世で最も美しい音楽は、人の名前だ、と。親はまず、愛を込めて子どもに名前を送る。家族、友人、恋人。名前を呼ばれるごとに、愛は深まる」
彼はウットリと虚空を見つめた。それが気持ち悪いと感じると同時に、なんだか無性に悔しくなった。
「バカバカしい」
と、貶したくなったけれど、確かにこの男と話すと、彼女の中に、今までに無かった感情が湧く。
その日、Bも彼女も、彼にことばを返すことは無かったけれど、彼の話に、わずかながら感銘を受けたのは同じだった。
お互いに名前を付けよう、ということになって、彼女はBに「可憐」という意味の名を付けた。
Bは彼女に、なんという名前を付けただろうか。彼女はそれを忘れてしまったことが、今でも悲しくて仕方がない。
彼が村に来てから数ヶ月が過ぎた。季節は、粘りつくような暑気がようやく和らいだ頃だった。カレンに結婚の話が持ち上がった。村長の息子、彼女がトンと呼ぶ男である。カレンは「情に厚い」という意味を込めて、彼を「トン」と呼ぶと言った。けれど、彼女は、彼を「鈍い」という意味を込めて「トン」と呼んだ。カレンは結婚の準備に忙しくなり、浮世離れした博識の男の家に通うことはなくなった。カレンがいないと、同世代の子らみんなが、彼の家から足が遠のいた。
彼女だけが、相変わらず足繁く通っていた。むしろ、村の子らと反比例するかのように。彼女は、天邪鬼だった。
「ここでは、どんな結婚式をするんだ?」
「みんなで集まって祝う。それだけだよ」
「友達が結婚するのは寂しい?」
「どうして?」
「よく来ているのに、最近、質問が少ない」
「寂しい、というより」
彼女は言った。
「焦っている。村の連中が僕に含むところがありながら、放っておいてくれたのは、カレンがいるからだ。彼女は女として、村に影響力がある。彼女が結婚して、男を支えることに徹すれば、僕はこの村で緩衝材を失う。だから、身の振り方を考えなくちゃいけない」
「君の親は?」
彼女は首を振った。
「じゃあ、君に縁談は無いのか?」
彼女は肩をすくめた。
「なるほど」
「ねえ、あなたは町から来たんでしょう。僕でも出来る仕事があるか、知らない?」
「そうだなあ・・・」
彼は黙ってしまった。彼女は、ため息をついた。
「ぼくには、君の考えがよく分からないな。お世辞抜きに、君はなかなか賢い。けれど保守的だ。野心を感じない。村を嫌っているようだけど、自ら外に出ようとしないのは何でだ?」
「なぜって」
彼女はここ以外を知らない。それであるなら、嫌うのも好くのも「ここ」ながら、他が良い根拠なんて何もない。彼に何を言われても、自分の居場所を村以外で求めるのは、夜郎自大というものだ。
「いや、別に良いんだ。君の不安はよくわかる。それに、ぼくは理由あって町を出てきた身で、簡単なガイドはできても君に随伴することはできない。けれどハッキリ言って、君が一人で町へ行くのは、この村で生活するのと比較にならないほど危険だと、言わざるを得ない。そうと知りながら、君の気持ちを煽るようなことを言うのは無責任というものだ。ただ、君は逡巡するには・・・ある選択肢を、あまりにも無視しすぎている。なぜ、女性らしく振る舞おうとしない?」
「なぜって、僕は、僕は」
「うん?」
「・・・この村でいちばんカレンが好きだから」
彼女は頬を染めた。彼は、目を丸くした。
「え、それが理由?」
「そう、それだけ。・・・あーあぁ。なんで女に産まれたんだろう」
「でも彼女は、別の男と結婚するんだろう」
「そう、あなたならどうする?今、僕は人生で初めて底が見えないほどの、憂鬱な気分に晒されている」
「一般的な意見に留まるけど、失恋のいちばんの薬は、新しい恋と言うね。他の子はどうなんだ?君の恋愛対象は、女の子だけ?」
「女とか男とか、僕は考えたことがない。ただ、カレンが好きなのは男だから」
「君は・・・」
「いや、でも僕は」
彼女はふと顔を上げた。
「今、気づいた。僕はこの村で二番目にあなたが好きだ。僕をお嫁さんにしてくれる?」
「ちょっと待ってくれ、話が急すぎる」
彼は赤面していた。
「そうだね。第一、村長の推薦が無いと。あなたはまだ、客人から移住民になる手続きを済ませていないみたいだし。村民じゃない人間と結婚しても、仕方ない」
「そういう問題じゃない。君は、君たちは」
「僕を村の人間としていっしょくたにするのは、やめてくれ」
「そうか、悪かった・・・やっぱり君は、町に行くべきかもしれない・・・」
「本当?」
彼女は目を輝かせた。
「ああ、でも見つけるのは仕事じゃない。君はまず、学校へ行ったほうが良い。うまく編入させることができても、最高学年の一年だけかも知れないけど、君はどうにも不安定だ。そのまま自分でどうにかしようとしてしまっているのが・・・逆に、どうにも不安だ。この先、それがそのまま歪みになる気がする」
彼のことばに侮辱めいたものを感じ、不満に思いながらも
「わざわざそんなことしなくても、町へ行く前に、あなたが今ここで教えてくれれば良いのに」
と、反駁した。
「そういうことじゃない。学校は、知らない知識や技術を身に付けるだけのところじゃない。そうではなくて、自分を守りながらも『他人との関わり方』を学ぶところだ。人は一人では生きていけないから」
「そんなこと・・・」
彼が何を言いたいのか分からなかったが、目は真剣だった。彼女は困惑した。
「もしかして、僕がお嫁さんにしてくれ、なんて言ったから、怒ったの?」
彼女は、ふと不安に晒された。男連中には、今日は誰を抱いただとか、あの娘は俺のことが好きなようだ、とか、そういう話を積極的にしたがる者がいる。
彼女は不思議な気持ちを抱えていた。彼女自身は、その中の誰にも抱かれたいとは思わない。ただ、カレンはどう思うのか、気になった。しかし、カレンに性行の話をしても、いつもふいっと顔を背けられてしまう。あの時から、カレンに、ある範囲の話題において、常ならざる拒絶を感じ、彼女はそれ以上、話を続けることができなくなった。
その一件から、彼女は一般的に、男は性の話が好きだが、女は苦手なのだと思いこんでいたけれど、狭い村での、彼女の経験からくる思い込みだ。男で、性を想起させる話が苦手な者がいても、おかしくはない。彼がそうであっても、おかしくはない。ましてや、彼は、彼女が初めて好感を抱いた男なのだ。
けれど、彼はふっと破顔した。
「そうじゃない。ぼくは町で、物を教える立場の人間だった。生徒に恋愛感情を持ってはならないから、君のことをそんなふうには見られないんだ」
「嘘だ。女のほうが寝所で男に何をするかよく分かってないから、年上の男に教わって、そのまま娶られることもよくあるよ。村でさえ、そう。そこの本に、は聖職者のハーレムのことが書いてあった。個人の性癖が、町では学校という後付のシステムがあるからといって、変わるとは思えない」
彼は苦笑した。
「やめないか?この話」
彼女はひょんなことから町で生きていける可能性を彼から提示され、いつになく舞い上がっていた。彼に采配するよう念押しし、家に帰った。
それから改めて、自分と村の関係について考えた。ひいてはこの世界との関係を。
彼女には親がいない。生物学的なことを言うなら、もちろん彼女が誕生する契機になった雌雄は、過去いずれかの時点に存在したのだろう。けれど、村の誰も、彼女自身も知らない人間なので、「いない」という事実と大きな違いはない。
彼女が特別珍しいわけではなく、村にはそうした、誰かの「落とし子」が彼女を含めて三人もいる。一人は村を飛び出したきり消息不明。もうひとりは、彼女よりもずっと村に馴染み、結婚間近の彼女がいる。
彼が詳細な地図を持って村にやってきたため、彼女の中の、漠然としていた相対的な土地勘は、より明確になっていた。彼の言う町とは、ここから北数十キロ先、座標〇〇のことだろう。その他どの地方も、地図を直線で繋げれば、いずれかの町には辿り着くようだけど、現実的ではない。
カレンが結婚してしまえば、いよいよ彼女は村の中で腫れ物として扱われるだろう。最悪、工場での仕事から爪弾きにされることも、あるかも知れない。これもまた漠然とした危惧だが、今までずっと一緒に生活してきた村という生き物の考え方から予想される出来事なので、可能性は高い。
ついさっきの出来事だが、彼に便乗して村を出ることが、彼女にとって正しく、また、自然にも感じられた。実は、村で女性として生きるイメージが沸かないなら、町で暮らす自身のイメージも今まで沸かなかったのだが、やはりネックは「自分が男である」という身体的な特徴と倒錯した認知である。
次に、彼女は自分の容姿のことを思った。村には世界線第二由来と言われる赤い血の人間しかない。都会では、青い血と赤い血の人口比が逆転するという。
水や食べ物など、環境の整っていないところでは双方どちらも短命だが、赤い血の人間がより早く慢性中毒を起こして死ぬ。彼女は世界線第ニでも珍しいとされるアルビノだが、皮膚から透けて見える色で、赤い血の人間だとわかる。青い血の村では、彼女は生きていけない。たとえ赤い血の村でも、ここより酷い忌避・差別の対象にならないとも限らない。
けれど、町なら村と比べ物にならないほどの人がいる。彼女の心配など、そう問題にならないかも知れないし、その逆で、希少性が認められれば保護を名目とした福祉が受けられるかも知れない。
どうあがいても、並々ならぬ我慢を強いられる村で生きるより、町で生きることのほうが、彼女にとっては部の良い賭けに思われた。
(僕は・・・カレンと一緒に学校へ通ってみたかった)
彼女は今更存在し得ない「もしも」を考え、一人自嘲気味に笑うと、寝た。
翌朝、工場に向かう途中、役所のあたりが何やら騒がしいので、そちらに歩を向けた。役所の扉の前に、怒鳴り声や悲鳴の中心に数人がいて、彼らを取り囲むように人だかりができている。
騒がしく、耳を傾けても経緯はわからない。彼女は当たりを見回し知人を探した。運良くトンとカレンを群勢の外側に見つけ出し、彼らの側へ駆け寄った。
「一体何が?」
「ああ、〇〇・・・」
傍らのトンが怪訝な顔をする。
「大変なの、先生が捕まる。あの人たちは公安で、先生はクーデターを煽動した国家反逆罪の重要参考人だというの」
彼女は思わず失笑した。
確かに、町では劣等民族の矯正を目的とした手術など厳しい管理社会が敷かれている。それを嫌って反抗勢力が各地で抵抗しており、その運動を支持し指名手配犯を庇う村もあるという話は有名ながら、この村はノンポリである。
むしろ、手術を求めて村を飛び出す者が多く、それで過疎が深刻化しているのだ。
「笑い事じゃない、あれを見ろ」
トンが言った。彼女はトンが指差した方を見た。役所の受付の、コード〇〇が血を流して頬を抑えていた。彼を庇うように同僚のコード〇〇が、及び腰ながらも警察と相対している。そして、自分よりも二回りも小さい彼女を厳しく詰問している男は、上腕に「ノンアイロン」を意味する腕章を付けている。
公然と差別主義者であることを示すのは、推奨されないが、違法ではない。腰にはホルスターが巻かれ、不気味に黒光りするクリップが覗いている。
「武器を押収しようとしたら、いきなり殴られたらしい」
トンが言った。
「あの男を引き渡すぞ。おまえ、連れてこい」
「・・・」
「〇〇」
カレンが不安そうに彼女を覗き込んだ。
「ねえ、なんとかならないの?あなたも彼のことを悪く思っていなかったはず。物知りで尊敬できると言っていた。荒事に関われる人じゃないと思うわ」
「そんなこと分からないさ。それに、あの公安を放っておいたら、今にも発砲しそうじゃないか。おい!」
トンに苛立ちながらも彼女は言った。
「こうしよう。先生は、まだ移住民への手続きをしていない。心当たりがあるかどうかは分からないけど、こうなることは予見していたのかも知れない。僕は西側の川から彼を逃がす。公安には、入村は確かに受け付けたけど、いつの間にかいなくなっていて、どこかに逃げたと言うんだ」
「正気か?危険を犯して、彼を助ける義理がどこにある?」
彼女は、トンに返事をせず踵を返した。
「〇〇!」
カレンの声が追いかけてくる。
時間が無い。
トンの言うことが正しい。村に危険が及ぶことを承知で逗留していたのなら、彼女は彼に責任を問うべきなのだろう。
けれど、彼女は彼に情が移っていた。カレンのためにも、優先すべきは村の安全だとも、分かっているのに、彼女は彼への情をこの一瞬で捨てきることは、到底できなかった。焦燥を振り切るように走って、彼の家に着いた頃、すっかり息切れしていた。
逃げろ、と、なんとかそれだけ伝えた。
彼は知っていたようだった。正直、彼女は珍しく焦りに焦っていて、後から振り返るも、状況をうまく説明できたとは思えない。けれど、彼は、拙い説明でも、すぐに身支度をした。
「後の物は、好きにしてくれ。捨てるなり売るなり」
彼女は複雑な気持ちだった。昨日よりもたくさんの疑問が増えた。けれども、昨日まであったはずの時間が、もう無い。
怒っていいはずだ。
彼女は、自発的に悋気を起こそうとした。
彼は、村民に良くしてもらいながら、ありのままを話さなかった。コイツを公安に引き渡せ。自業自得だ。けれども彼女は、何かに阻まれて、彼を艱難辛苦の道に追いやることが出来ない。
「北の正門は使えない・・・西の堰堤の近く、船着き場がある。そこから村の外に出られる。送るよ」
「君も一緒に行くかい?」
「送ると言っている」
「そうじゃなくて、村の外へ。出たがっていただろう」
彼女は、彼の顔を見た。ようやく、怒りが沸いた。
「あなたは酷い嘘つきだ。こうなることを予想しながら、僕に希望を持たせた。あなたに付いていったら、僕はどうなる?お尋ね者なんでしょう」
「どうなるだろう、分からない。すぐに町に行くのは無理だろう。けれど、時間がかかっても、必ず連れて行く。君をここに置いていくのは、心配だ」
彼女は険しい顔で彼を睨み、下唇を噛んだ。彼からはなんの感情も読み取れない。底意があるのか、それともただの善意からの申し出なのか。そもそもこの場合、善意が成立するのか?彼は、道案内が欲しいだけではないか。
この男に付いていけば、こちらまであらぬ疑いをかけられる。もっとわからないのは、明らかに非合理的で危険だらけの道を提示されながらなお、この男に付いていきたいと思っている自分である。
彼女は返事をせずに、彼を連れだって走り始めた。問題の結論を繰り延べる時間すら、ほとんど無い。
彼を見限るなら、船着き場で仕事をする老爺、コード:〇〇に渡りを付ける前に、攻撃しなくてはならない。
彼女は一旦部屋に戻り、所持品のなかでいちばんの貴重品、刃渡り20センチほどのナイフを持ってきた。数ミリの厚みがある。獣の皮をはぎ細い骨なら断つこともできる。もちろん、人を刺したことはない。
いや、と、彼女は頭を振った。そもそも彼女は、考えてから人に暴力を振るったことが無いのだ。いつも、カッとなった折に、人に手をあげていた。今、彼女が保身をいちばんに考えるのなら、彼のことは放っておくことだ。公安に突き出す労だって、わざわざ取る必要はない。自分の行動に矛盾があることを知りながら、「こう」と決まっているように、動いている。混乱した頭になんとか整理を付けようとしながら、彼の待つ外へ出た。
彼女たちは、船着き場へと歩きながらも、何も話をしなかった。彼女には、話したいことはたくさんあったが、歩きながら話し合えるような、フランクな問題では無かった。裏道は500メートルほどの雑木林を抜けなければならない。足元に纏わり付く草を払い除けながら進む。すぐに分水嶺の河川敷が見えた。
彼を後ろ手で押さえながら、辺りを確認する。
彼女は広場に来ていた公安の数を、目算はしたものの確認していない。回り込まれているかも知れない、と思ったのだ。
幸い、老爺以外、人の気配を感じない。
向こう岸に渡りを付ける老爺の仕事は、この時期、閑職である。彼は少し偏屈な人柄で、寡婦になってからは村民を避け、船着き場の管理小屋で寝泊まりしている。広場の騒動が、耳に入っていなければ良いけれど、と、思いながら彼女は言った。
「行こう、まず僕が話をつける」
と、二人が歩き出したところ、管理小屋から見知らぬ男が出てきて、目が合った。服が広場の男と同じ。警察である。
(うっ・・・)
「待て、動くな」
若い男二人だった。表情に緊張が表れている。彼女の心臓も、跳ね上がった。小柄で、彼女と体格はそう変わらない。彼らが走り寄ってきたと同時に、先生は彼女の手首をきつく掴んだ。耳元で囁いた。
「ここまでだ。君はぼくに脅されたと言うんだ。良いね?」
「そんな」
彼女は言った。
「僕なら、あの二人を仕留められる・・・」
深呼吸をひとつ。彼が瞠若するのを、彼女が見ることは無かった。彼女が懐からナイフを出すのと、それを見咎めた男が拳銃の撃鉄を起こすのが、ほぼ同時だった。彼は、彼女の前に躍り出て、銃声が響いた。間近で聞くそれは、予想以上に耳をつんざく。
「先生!」
彼は撃たれた腹部を押さえながら、膝から崩れ落ちた。彼女は再び彼の前へと飛び出した。
世界線第一の拳銃は、世界線第二とほぼ同じ構造に収斂していた。一方はスライドを引いて弾薬をセットしている最中で、そういった動作の意味を知っているわけではない彼女だが、銃口の位置を自分に合わせていない状態を目の端で捉えて、こちらは攻撃してくるまでまだ間があると、瞬時に判断した。ナイフを逆手で持ち、先生を撃った男の懐に潜り込んだ。彼女が素早いことにひるんだ男の手を片手でいなしながら、喉笛を真横に切り裂いた。目に返り血を浴びないように、そして、もう一人の「獲物」の急所を目視するため、彼女はゆるやかに投げたボールのような動きで顔を動かした。
赤と青の返り血を浴びた彼女を、悪鬼と見紛い、もう一人の男もひるんでしまった。彼には実践の経験が無かった。もともと上司からはこの任務を、武闘派では無い、さらに単独で行動している被疑者の勾留としか、聞いていなかった。戦闘を想定していない。村に可愛い女の子がいたら・・・と、行楽気分で軽口すら叩いていたのである。
「いやだ、やめて・・・」
彼女は、その命乞いに無意識に失笑しながら、ナイフを順手に持ち替えもう一人の男の首に突き立てた。二人めは体重をかけて一撃で突き殺したが、一人めに、まだ息があった。手が転がり落ちた拳銃を求め地を掻いていたので、彼女はとどめを刺した。
「・・・先生」
彼にも、まだ息があったが、彼女には彼を手当する術がなかった。着ていた衣服を切り裂き、なんとか止血だけはしたものの、村へ連れ帰ることすら、彼女一人の手には余った。男二人を殺すのに、それほど時間はかからなかったはずなのに、船着き場の老爺は、もう姿を消している。他の村民を呼びに行ったか、凄惨な現場を見るに堪えかねて逃げたのだろう。どちらにせよ、救いにはならない。
なぜ、こうなったのか。
村を出る。
望んでいるものがあるかどうかなど、なんの根拠も無いまま、彼にここまで付いてきた。振り返って考えても、彼女は村での生活をそれほど不幸とも感じていなかったはずなのに。やっぱり放っておけば良かった。彼が壊した。いや、彼女が自分で選んだことのはずだった。この期に及んでも、彼女の口からは、彼女が考えていることとは、まるで逆の事しか出てこなかった。
「先生、死なないよね?」
彼女は、血の気の失せていく彼の顔を覗き込みながら言った。その血色を少しでも長く現世に留めるように、彼の頬を両手で包んだ。彼の温みを感じ、彼女は彼に「名前」を付けていなかったことを、後悔した。
「まだ、死ねないはず。さっき彼らを殺して分かった。あなた、公安の言った通り、今僕がしたみたいに、あなた、いろんな誰かの好奇心に、火を付けたんじゃないの?その抑制が効かなくなって人が死んだ。あなたは、それが嫌になって僕らの村みたいな田舎へ来て、隠遁生活を送ろうとしたんだ」
彼は微笑んだ。弱弱しい笑顔だ。彼女はそれが気に入らない。
「立って。僕は大丈夫。あなたの教えてくれることが自分の理想と違っても、あなたを逆恨みしたりしない。夢想に逃げたりしない。さっきみたいに人を殺すことになっても・・・慣れてみせる。事実と、自分の気持ちだけを受け入れるよ。僕はあなたと一緒に行くと決めたんだ。だから、あなたも約束を果たして」
「・・・そうだね。確かにぼくは甘く見ていた。世の中の事を知る。それを促せば、自然と社会が良い方向に向くと、信じていた。それだけの信条が、こんなにも人を苛立たせ、利害の不一致を浮き彫りにし、人が憎しみあうとは、知らなかった・・・。君は」
彼が彼女の方に手を伸ばしたことが、彼女には一筋の光明に感じられた。けれど、そのとたん彼が咽て、吐き出されたほとんど真っ黒い血の塊を見て、光は瞬時に絶たれた。苦しみながら吸っては吐き出される息は、生き物というより、ふいごのようで、彼女には不気味に感じられた。
彼女は彼の腋下に腕を差し込み、彼を立たせようとしたが、駄目だった。彼はまるで力を入れようとしない。彼女は苛立ちながら、叫んだ。
「立って」
彼が最期になんと言ったか、彼女に聞き取ることはできなかった。冷たくなっていく彼の頭を膝に置きながら、ああ死んでしまったと思った。その死を受け入れようとした。
落ち着いて。彼女は自分に言い聞かせようとした。人を殺した。単なる暴力とは違う。明らかに自分は取り返しのつかない事をしてしまったという良心の呵責がある。いや、彼らは僕に、銃を向けた。殺す動機はあった。仕方ない。
仕方ない?けれど、今は無い。仮に必要だから人を殺したとして、今は生きる目的がない。それなら、彼女は何のために人を殺したのか。
遺体となった彼と河川敷から離れ、桑の木に頭を押し付け、食いしばっても留まることのない嗚咽を出るままにした。落ち着け。これは、彼を悼んでいるのはない。ただ思い通りにならなかった事が悔しいだけだ。
それから、彼女は村へ戻った。明確なアイディアがあったわけではない。自棄から来る考えの無い行動だった。木の根に足を取られ、躓いた拍子に、一つの考え、奸計というのが適切かも知れない・・・が、浮かんだ。
あの場にいて生きているのは、偏屈な老人と僕だけ。好きに話を作れる。それなら彼らが勝手に殺しあったことにすれば良い。全身の返り血、右手に握ったままのナイフ、普段の彼女。おまけに彼女は抑揚無く話すのがクセになっていて、人心に訴えるのが最も苦手である。誰一人信じる人間はいないかもしれない。けれど、何か問題だろうか。
村の人間からすれば、彼女の話が公安に通れば、一人、厄介払いができる。通らなれば、「二人」、厄介払いができる。プラスサムゲーム、損がない。公安の方から考えると、殺した二人がどういう立場だったかに依るが、おそらく上役じゃない。しがない村娘に部下が殺されたのなら、面目も潰れようが、被疑者の抵抗の末、殺されたのなら、名誉が残る。
案外、彼女がどんな作り話をしたとして、「彼ら」はアッサリ受け入れてくれるかもしれない。
広場に戻るまで、何人かとすれ違ったが、誰も彼女に話しかけなかった。鏡を持たない彼女は不思議に思ったが、足元を見れば容易に察せられた。そうか、青と赤、両方の返り血を浴びて、死んだ彼のために衣服を裂いてそのままだ。傍目には猟奇殺人機か、良くても奇人にしか見えないだろう。彼女はふらふらと歩を進めながら、手を太陽にかざした。赤い血潮。
僕がアルビノではなく、赤い血の人間として「それらしい」色を持っていたら、思考にも何か違いはあったろうか。思考が違うのなら、こんな事態にもなっていなかったのだろうか。
