【短編小説・エッセイ】私の犬





【短編小説・エッセイ】私の犬
特別支援学校の教師が「犬の躾」に喩え、それが不適切だと炎上した。他に穏やかで、前向きに、気分良くなれる情報はたくさんあるはずなのに、不愉快になるような情報をつい引き出しにしまって取り出してしまうのは、どういう心理だろう。
息子の利用する放課後等デイサービスはA川沿いのビルで、上階には電気屋が入っている。酷暑を過ぎて、やっと涼しくなり始めた。先日の豪雨で、コスモスはなぎ倒され、腰を折りながらも、やっと息をついている。浮草に覆われて見え隠れする中洲の土はぬめり光っている。コサギが黄色い足先をフリフリ、慎重に歩を進めながら、時折顔を突っ込み餌を探る。カイツブリ数羽が均等の間隔で並び、毛繕いしている。カラスが悠々と空に吊られるように飛ぶ下で、セキレイが気忙しく飛び立つ。それに呼応するように、橙のシジミチョウが蜜を吸うムクゲの木陰からヒヨドリが飛び立つ。視界の端に煌めく何かがあり、思わず目を向ける川面を鋭い視線で睨み付ける翡翠。
増水に埋もれそうになっている石畳を恐々渡り、視線を上に仰ぐと、土手では、老人が苦悶の表情で、手先だけちまちま動かすような運動をしている。歩くたびに、足元で、イナゴかバッタが内臓みたいな模様をむき出しにして、側の葉叢に飛び込んでゆく。水面に反射してクモの巣が光ると、主の釣果を確かめにゆく。もちろん横取りする気はない。見るだけ。
息子は週に四日もこの近くのデイセンターに通っているが、私と一緒に、こののんびりとしつつも自然らしい音に満たされた場所で遊んだことは無い。川沿いに居を構えているらしい親子が、虫を採っているのを見たことがある。
発達がゆっくりな息子は、いまだにカタコトで会話がおぼつかない事がある。デイセンターでは、スタッフが利用日誌を丁寧に書き寄こ越してくれて、いつも写真が一枚付いている。この界隈で撮られたものも多い。花を潰すのは、情緒の欠陥で冷酷な事だろうか。彼は、潰してもゆっくり起き上がる葉叢を興味津々といった調子で見ている。虫を引きちぎるのは、おかしいだろうか。命を感じるのは難しい。教えるとなると尚更。手のひらで亡くなる事を感じるのに、善悪を断じがたい。
スキンシップが好きな子で、遊んでいる最中も突然に抱きつき、首筋を嗅いでくる。人間の子を犬に喩えるのは倫理に悖ることだとしても、息子の姿やその教育方法をかんがみるに、そう見当違いでは無いような気がする。
発達が遅いといっても、それだけで、彼は心身ともに健康で、ことばが分かるし計算も出来る。それでも「遅い」事は、世間的に何かが無い事と同義のようで、肩身の狭さに泣きたくなることがある。それでもよく考えてみると、自分の子育てにおいて、親子愛や教育の成功のイメージとなるのは、ドラマや小説などの虚像なのである。それもそのはず、自分を含めた実際の親子関係に「終わり」はない。その時々のメッセージにするため切り取られ細分化されたイメージが、事実を元にしていたとしても、結局総合的に成功した親子関係というものは、実態を持たない。存在しない。
私に限らず、親は折々の「成功」をその虚像に頼らざるを得ない。愛の無謬、成功を誇るのなら、失敗を批判しなければならない。そうでなければ、実態を持たない概念は、存在し得ない。
親の業だ。
親は可哀想だ。
子供も可哀想だが。
他所の子供を否定しなければ、自分の子を認められない。そういう呪いのような概念と戦い続ける。時に抗い、時に恭順の意を示しているように見せかけて。
穏やかな場所は、取り留めのない思考に適している。世間の偏見に惑わされないよう、出来るだけ自分の気持ちに集中すると、世間から見て息子は「失敗」というより、やはり成長が遅いというのが適当で、義務教育期間中は特に、どこに属していいのか分からない中途半端な存在のように感じるのだが、成長過程の、大人ではない、中途半端な存在。それは全て「子供」という意味で、同じじゃないか?
親の欲目を抜きにしても、失敗の象徴のように見られるのは、違和感がある。
失敗して可哀想だ、という言葉には、人生の味わいの、半分が籠められる。身も蓋もない。ドラマや小説のようなものに憧れるというのは、子育てや家族の愛にゴールを求めるということだ。輝かしく一片の曇りのない愛を信じるほどに、歪みや裏が生まれる。直線に繋いだ時間軸に「側道」など無いのだ。だから、歪みや裏が生まれることは、必然だ。
コンクリートに縁取られた自然でも、人と情報以外の生態系はいささかの混沌があり、人間社会で生まれた澱を、柔らかく撹拌し、境界を曖昧にしてくれる効果があるらしい。
息子は小さいので、まだまだ、どこかいろいろなところに遊びに行こうと思う。A川のほとり以外で。いかに良い遊び場とはいえ、週に四日も通っていては、彼は厭きるだろうから。
