春の匂い(著/桜井真琴)
「ねえ、ねえ、あなたは浮気なんかしないわよね」
組み敷いた女が、切れ長の目をさらに細めて見つめてくる。
(まずいな)
僕は既婚者であった。しかし、それを隠して女との一夜の火遊びを選んだのだ。
「もろちんです。僕は浮気なんかしたことないです。フリーですから」
当然ながらウソをつく。
間髪入れずにウソをつく。
女はホッとしたような顔をしてから、ギュッと抱きついて舌をからめてきた。
まるで僕のすべてをむさぼるように激しく……。
その日。
僕は妻と伊豆の温泉に旅行に来たのだが、次の日の観光スポットを巡り、行く行かないの口論がエスカレートし、妻が怒って帰ってしまった。
(まいったな……)
寂しい思いでひとり食事をして、飲み足りないなと温泉街の裏通りの小さな小料理屋を見つけてドアを開けた。
女将さんがひとりで切り盛りしていたが、それがまたいい女で、僕は妻が帰ってくれてラッキーだとさえ思った。
客はひとりだけだった。
その女将さんとは話が合い、女将さんも飲みはじめてしばらくしてから、いい雰囲気になったとき、
「酔っちゃった。ねえ、上まで連れていってくれない?」
と誘うような目つきをされたのだ。
(こんなにうまくいくとはな……)
女将さんは少し陰がある薄幸そうな美人だった。身体つきもいやらしくて、この身体を抱けると思うと、僕は震えた。
店の二階は生活スペースで小さなリビングと畳の和室があった。
和室には布団が敷かれていて、やけにアロマの匂いがきつく漂っている。
すぐに女将さんから手を引かれ、僕は布団の上で彼女を抱きしめた。
妻とはセックスレスだった。久しぶりに味わう女の身体だ。女将さんは反応がよく、僕のつたない愛撫でも感じまくってくれた。
いい女だった。僕は女将さんの肉体に溺れた。
「ねえ、ねえ、あなたは浮気なんかしないわよね」
情事の途中、ふいに真顔になった彼女が訊いてきた。僕は「浮気なんかしたことない」と既婚であることを隠して抱いた。女将さんは「私は彼氏に浮気されたばかりなの」と寂しそうに言った。
「僕がその寂しさを埋めてあげます」
歯の浮くような台詞を吐き、僕は彼女を何度も抱いた。
次の日の朝。
朝起きると、女将さんの態度はつれないものだった。昨日の情熱は消えて、やけに他人行儀だった。
特に僕に執着することも、詮索することもなく、あっさりと別れた。
彼女にとっては一晩の寂しさを紛らわせるちょうどいい相手だったのだろう。
だが、僕は違った。
日に日に彼女の肉体が恋しくなった。
彼女は連絡先を教えてくれなかったので、今週末にも時間をつくり、彼女に会いに行くつもりになっていた。
そんな矢先だ。
会社からコンビニに向かう途中、僕は見知らぬ男に肩を叩かれた。
いかつい顔の男と、無表情の男のふたり組。
無表情の男が「静岡署の刑事」だと名乗り、警察手帳を見せてきた。
動揺した。頭の中でぐるぐるとここ最近の出来事を思い出したが、警察沙汰になるようなことはしてなかったと思う。
何よりも本当に刑事なのかと訝しんだ。怪しい男にからまれたのではと思ったら、いかつい男は、
「そんなに警戒しなくても大丈夫ですわ。あなたを捕まえるわけではないので。お話だけ。先週の伊豆での出来事についてです。〇〇温泉に奥さんと行かれましたよね。奥さんは先に帰ってしまったけど」
ずばり当てられて僕はハッとした。どうやら本当に警察らしい。
近くの公園まで行くと、無表情の男が話しはじめた。
「この女性を知ってますよね」
写真を見せられた。あの女将さんだ。ドキッとした。
「調べはついてますから。ああ、奥さんにはお話はしませんので。訊きたいのはそのときの状況なんです」
無表情の男は早口で言う。
「状況?」
僕が尋ねると、男たちは顔を見合わせた。
いかつい顔の男が口を開く。
「これは黙っといてくださいね。この女将さん、旦那を殺害したんです」
「えええ?」
思わず公園で叫んでしまった。
「ホントに?」
「本当です。旦那の浮気が原因ですわ。この女将さん、あなたに乾き物しか出さなかったでしょ?」いかつい男が言った。
そのとおりだった。客がいなくて店じまいしようとしていたから、乾き物しかないと言われたのだ。
「料理は旦那の担当だから、出せなかったんです。それと、和室はお香だかアロマの香りがすごかったでしょ」無表情の男が言う。
「は、はい」
確かに。やけに香りがきついなと思っていたのだが……。
「……あれね、死体の臭いを消そうとしてたんですわ。和室の押し入れに旦那の死体を隠していたから」いかつい男が言った。
声が出なかった。
あのとき。
僕が彼女を抱いたとき。
すぐ脇の押し入れの中には、旦那の死体が……。
ふたりの刑事が、初めて笑みを見せた。
「あなた、この女将さんに『浮気なんかしない』って言ったでしょ? よかったねえ。少しでも返答に躊躇してたら、あなたもやられてましたよ。いやあ、ウソも方便やね」
了
