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【高校生継承語クラス】AIに意見文を書かせるためのプロンプト(指示)

高校生クラスでは今年度から東京書籍「新編現代の国語」をテキストに指定している。
しかし、私はあまり「教科書」の勉強を面白いと思わないので、まだほとんど使っていなかった。
(ペアの先生はそれなりにお使いだが、3年間使うので、ハイペースで使うと後々重複してしまうという問題もある)

半期に1度くらい「国語」っぽいことをやるかと重い腰を上げた。
今回取り上げたのは、山崎正和氏の「水の東西」である。
「鹿威し」と「噴水」という水にまつわる東西の文化から、その考え、感覚の差を考えるという評論であった。

この文章を読む前に「評論の読み方」という教科書のコラムを読んだ。
構成を捉え、接続語に留意し、具体例と筆者の意見を区別して読めという内容だ。
また、「文章の要旨をまとめてみよう」というコラムも読み、「水の東西」も形式段落ごと、意味段落ごと、文章全体を1文に要約した。

さらに、「集めた情報の内容を検討して意見文を書こう」という単元にも触れ、「水の東西」のインスパイア意見文を書かせることにした。
通常は宿題は出さないが、もうすぐ秋休みなのだ!
とはいえ、秋休みに旅行に出かける人もいるので、労力をあまりかけるものを出すのは心苦しい。
そこで、書くという面倒くさい作業はAIにやらせよう!という発想に至った。

すでにAIは世の中にこれだけ流布している。
高校生が社会人になるとき、「普通の人間」の必要性はもっと減っているかもしれない。
では、我々人間がAIより優れてできることとは何だろうか。
それは、「思考」であろう。
深く考える、広く考える、思わぬ2点を結び付けて考えるといった「考える力」を伸ばすべきだ。

そこで、宿題としてはテーマ「東西文化比較」の元、「鹿威し」と「噴水」のように日本とドイツ(他国でも可)またはアジアとヨーロッパ、東洋と西洋で異なる物事のアイディアを集め(これもAI利用可)、そこから見える東西文化圏の考え方の差を見つけることとした。

自分の考えた構成とその内容、具体例と結論(東西文化圏の考え方の差)と、文字数600~800字の指定をして、AIに指示するプロンプトを考える。
文章が希望の形にならない場合は、プロンプト自体を書き直して対応させることとした。
しかし、最後に自分の知らない言葉や、普段使わない言葉などを自分らしい言葉に書き換えて推敲する。

「自分で書いてもいいか」という質問もあったが、AIを使うというのは、人を動かすリーダー教育にも通じるものがあるので、却下とする。

プロンプトを含めて文集としてまとめようと思っている。
他の人のプロンプトを読むことで、どのように書けば、どういうアウトプットが得られるかというのも見えるだろう。

もちろん、自分でも試してみた。

東西文化の比較:柔軟性に富んだ日本文化
 以前、友人の家で開かれた食事会に参加したときのことだ。洋食のコース料理で、前菜にはスプーン、メインにはフォークとナイフ、デザートにはまた別のスプーンが並び、使い方を間違えないように少し緊張した。一方で、和食の場では、箸一本で刺す・つまむ・割く・すくうなど多様な動作が可能だ。お椀の味噌汁から細かい煮物、焼き魚まで、同じ道具で食べられるというのは、改めて考えると非常に効率的で柔軟性が高い。
 このように、日本の箸は「何にでも対応できる」万能な道具であり、その使い方には洗練された技術と美意識がある。箸の使い方一つにも、東西の文化の違い、特に「形式」と「柔軟性」の対比が現れているように感じる。西洋では用途に応じた道具を使い分けるのに対し、日本では一つの道具を工夫して使いこなす文化が根付いている。
 この差は、衣服の文化にも見られる。例えば、着物は体型に合わせて紐で調整するため、サイズが多少異なっても着ることができる。それに対して、洋服は体型に合わなければ直す必要があり、柔軟性に欠ける部分がある。着物のこの「合わせやすさ」もまた、日本文化の特性を象徴しているといえるだろう。
 さらに、住空間においても同様の傾向が見られる。和室は、布団を敷けば寝室に、座卓を置けば食事や作業をする空間になる。椅子が不要で、座る人数に制限がない点も特徴的だ。対して洋室は、ベッドや椅子、テーブルが固定されており、それぞれの機能が限定されている。和室のような空間の柔軟性は、日常生活の中で自然と工夫や調和を大切にする日本人の価値観を反映している。
 このように、日本文化には「合わせやすさ」や「柔軟性」が随所に見られる。道具、衣服、住まいに至るまで、一つのものを多用途に活用する姿勢は、日本人の創意工夫や相手に合わせる思いやりを表している。東西の文化にはそれぞれの魅力があるが、日本の文化に見られるこの柔軟性こそ、これからの多様な社会においても大切にすべき価値なのではないだろうか。
(750字/ChatGPT使用)

これは1発で出した「素」のままのもので、いくつか言葉は直したいところだが、まあ多いに「アリ」だと言える。
導入は私の指示通りに、具体的なイメージを彷彿させる。
特にカトラリーを間違えて使わないように「緊張した」というのもいい!
(しかし、そんな大層な食事会を開く友だちがいるだろうか。
ここは、海外での体験の方がよさそうだ)
特にまとめの「東西の文化にはそれぞれの魅力があるが、日本の文化に見られるこの柔軟性こそ、これからの多様な社会においても大切にすべき価値なのではないだろうか」あたりは小憎い!

ということで、例えば、第一段落の経験は海外での経験にしてほしいとか、3,4段落で「見られる」を2回続けて使うなとか、もう少し指示を変えればよいだろう。


素材だけぶち込めば、料理を完成してくれる「魔法の鍋」的なAI。
すでにAIは、文章を書くという行為においては及第点以上を取れるレベルだろう。
しかし、「魔法の鍋」があったとしても、私は料理をするだろう。
作ること自体が楽しみでもあるからだ。
チンすればできるインスタント食品をあまり使わないように。

しかも、インスタント食品や、セントラルキッチンを使うファミリーレストランやファーストフードは及第点は取れたとしても、「すごくおいしい!」とはならない。
やはり、家庭料理やちゃんとした料理人のいるレストランにはかなわないと思う。

以前うどん職人が、うどんを製麺機ではなく、包丁を使って自分で切ることによって、何ミリ(何ミクロン?)の差異ができることでおいしさが生まれると言っていた。
全部同じ太さでは食べている間に変化がなく、単調になってしまうのだそうだ。

インスタント食品やファミリーレストランなどは、いつ食べても同じ味だ。
それはよさであると同時に、欠点でもある。
つまらないのだ。
いつか飽きがきてしまう。

料理人は素材の味を確認して、野菜や肉の切り方や大きさを変えたりするようだが、家庭料理はそこまでしないだろう。
だから、おいしい日と普通の日があったりする。

年金暮らしの人は平日と週末の区別がつかないようだが、実際には「オン」があるから「オフ」が際立つのだ。
「普通の日」があるから、「今日のこれ、おいしいね!」という日もある。
お母さんの〇〇もおいしいけど、お父さんが作ると、こうなんだよね!
おばあちゃんの料理はこうでね~、ということにもなる。
作り手によって、違うのが料理の良さの1つでもあろう。

同じように、noteの面白さは書き手の個性にある。
AIが書いたような文章は実用的だとしても、面白みはない。
今はまだ。

しかし、自分の文体を学習させてから、書かせたらどうであろうかと思いついたので、引用したChatGPTくんの文章以降の私の文(「これは1発で出した「素」のままのもので」~「今はまだ」)を読ませてから、書いてもらった。

まず、褒めてくれたよw ういやつじゃ。「小憎い」まとめは活かしつつとかもいいねえ!

東西文化の比較 〜「合わせる」ことの文化〜
 ヨーロッパ旅行中、レストランでコース料理をいただいたときのこと。テーブルの左右にずらりと並ぶナイフとフォーク、奥にはデザート用のカトラリー。順番や使い方を間違えないようにと、それはもう緊張した。おしゃれな空間、流れるクラシック、目の前には見慣れない料理。楽しいはずの食事が、少し試験のようにも感じられたのを覚えている。
 その点、日本の食卓はどうだろう。箸一本あれば、味噌汁も焼き魚も、煮物もお刺身もいける。つまんでよし、すくってよし、切ってもよし。まさに万能ツール。ナイフやフォークのように役割分担するのではなく、使い手の工夫でどんな料理にも“合わせて”くれるのが、箸のすごさだ。
 この「合わせる」感覚は、食事だけに限らない。たとえば、着物。あれも不思議な衣服だ。ボタンもジッパーもないのに、紐で締めるだけで誰でも着られる。多少体型が違ってもなんとかなるし、そもそも着付けの時点で調整ができる。「ぴったりサイズ」という概念からちょっと外れた、融通のきくスタイルだ。一方の洋服は、MとかLとか、サイズが合わないと着られない。そう考えると、着物には余白があるというか、受け入れる幅があるというか。
 和室も似ている。昼は座卓を出してお茶を飲む場所、夜は布団を敷いて寝室に。家具は最小限、椅子も要らないから、人数が増えても何とかなってしまう。洋室のようにベッドやソファが固定されているわけじゃない。部屋の「役割」が一つに決まっていないのだ。この「決めすぎない」感じ、なんだか人付き合いにも通じるようで、日本文化の根っこにあるような気がする。
 もちろん、西洋の文化には論理性や専門性という強みがある。どの道具が何のためにあるのかが明確で、それはそれで快適で安心できる。でも、日本の文化には「とりあえず、なんとかする」柔軟さや曖昧さがある。はっきりしないけれど、どこか調和している。そういう雰囲気の中で育ったからこそ、日本人は相手に合わせたり、空気を読んだりするのが得意なのかもしれない。
 東西の文化にはそれぞれの美しさがある。ただ、日本文化の「合わせやすさ」には、単なる道具や形式の話にとどまらない、人との関わり方のヒントが詰まっている気がする。だから私は、たとえ世界中どこでもナイフとフォークで食べる時代が来ても、やっぱり箸で食べるごはんが落ち着くのだ。


脱帽です!
たった千文字ばかしを読ませただけで、スタイルはがらりとかわった。
まあ、私らしくはないけれど、100万文字くらい読ませれば完璧になるかも!w
もう私、note書かなくていいんじゃない?w






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