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「その歌声、内緒につき。」③ -告白-

【主な登場人物】

  • 虹咲音羽(にじさきおとは):主人公。ロックシンガーを目指す高校1年生。夜になり外が暗くなっていることに気づかないほど、ギターの練習に熱中できる。好きなアーティストはブルーハーツとado

  • 桜井玲奈(さくらいれいな):音羽のクラスメイト。長めの髪に赤のインナーカラーを入れたギャルで流行りに敏感。好きなアーティストはちゃんみなとMrs. GREEN APPLE

  • 倉嘉リュウ(くらかりゅう):元音楽プロデューサー。男性にしては高めのいい声質で歌えるため、音羽に羨ましがられている。好きなアーティストはスピッツとBUMP OF CHICKEN


朝の教室には、まだ一時間目が始まる前の、どこか緩んだざわめきが漂っていた。
窓際では女子たちが笑い合い、前の方では男子がスマホの画面を覗き込みながら騒いでいる。いつもなら、その空気の輪郭をぼんやり眺めるだけで終わる時間だった。

けれどその日、音羽の知らないところで、別の空気がひそやかに生まれていた。

玲奈を含む数人のクラスメイトが、教室の後ろで小さな輪を作っていた。話題の中心にいたのは、まだ登校してきていない音羽だった。

「……でもさ、正直ちょっと思わない?」
ひとりが声を潜めるように言った。
「虹咲さんって、話しててもなんかずっと苦笑いしてる感じしない?」

「あー、分かる」
別の子がうなずく。
「なんか、無理して合わせてるっていうか。こっちが話しかけても、心ここにあらずみたいな時あるし」

「放課後も毎回断るじゃん」
さらに別の子が続けた。
「一回とか二回じゃないし。誘うたびに、なんか申し訳なさそうな顔して帰るしさ……あれ、私たちのこと嫌なんじゃないのって思っちゃう」

その言葉に、輪の中の空気がわずかに重くなった。

「付き合い悪いよね、さすがに」
「冷めてるように見えるっていうか」
「いっそ、もう無理にグループに入れない方がいいんじゃない?」

そう言われた瞬間、玲奈の眉がぴくりと動いた。

「それは違うでしょ」

彼女の声は強くはなかったが、はっきりしていた。
輪の中が静まる。

「勝手な憶測で人のこと決めつけるの、わたし嫌い」
玲奈はひとりひとりの顔を見るように言った。
「それに、本人いないとこでコソコソ言うの、もっと嫌。そんなに気になるなら、本人に聞けばいいじゃん」

玲奈の言葉に、誰もすぐには返せなかった。
彼女は普段明るくて社交的で、空気を和ませるのがうまい。けれど、こういう時だけは妙にまっすぐで、相手が誰でも引かなかった。

    *
その頃、音羽はまだ通学路を歩いていた。

昨夜、リュウさんと交わした言葉を、何度も頭の中で反芻しながら。

——自分を隠しているうちは、本当の意味で友だちと言える人はできないと思う
——音羽ちゃんに今必要なのは、自分の気持ちや考えを、しっかり口にすることかも
——クラスの子も、音羽ちゃんと話したいと思ってるはずだよ。たぶん、いま見えてる以上に

やっぱり怖くて仕方ない。嫌われたら。面倒なやつだって思われたら。

でも、わたしは変わりたいと思った。

話しかけられるのを待つのではなく、自分から。
愛想笑いでやり過ごすのではなく、思ったことを少しでも伝える。

今日は、それをやってみよう。
せめて最初の一歩だけでも。

そのためにも、まずは挨拶。
語尾を上げると、明るい挨拶に聞こえるらしいから、まずはそれをやってみよう。

そう決意して、音羽は教室の前で小さく息を吸った。
扉に手をかける。

「……お、おはようっ」

意識して語尾を上げた声は、自分でも少し不自然に思えた。
けれど、ちゃんと明るく響いた……はずだった。

しかし、教室に入った瞬間、音羽は肌で違和感を感じ取った。

視線が、止まる。
さっきまで続いていたはずのざわめきが、ほんの一拍ぶんだけ空白になる。
誰かが気まずそうに目をそらし、誰かが困ったように口をつぐむ。

胸の奥が、ひやりと冷えた。

——なにか、あった。

嫌な予感が背骨をなぞる。
自分の知らないところで、なにかがずれてしまったのだと、本能みたいなもので分かった。

その時、桜井さんが席を立った。

「音羽」

いつもよりずっと低い声だった。
彼女はまっすぐ音羽に近づいてくる。

「ちょうどよかった」

明るい笑顔はなかった。
真剣な表情をした桜井さんを見て、音羽の喉がきゅっと縮む。

「……音羽に、聞きたいことがある」

教室の空気が、静かにこちらを向くのが分かった。
逃げたい、と思った。けれど足が動かない。

桜井さんは少しだけ息を吸ってから、はっきりと言った。

「さっきまで、みんなで音羽のこと話してた」
「いつも放課後の誘い断るよね、とか」
「話してる時も、なんか居心地悪そうっていうか……冷めてるように見える時あるよね、とか」

音羽の指先が冷たくなる。

桜井さんは一瞬だけ目を伏せ、それからもう一度、音羽を見る。

「私たちのこと嫌い?もう、話しかけない方がいい?」

その言葉は鋭くはなかった。
けれど、逃げ道をなくすくらい真っ直ぐだった。

ただ事じゃない。
そう思った瞬間、音羽の頭の中に真っ先によぎったのは、恥ずかしさでも気まずさでもなく、恐怖だった。

ここで何かを間違えたら、切れてしまう。
せっかく少しずつ繋がってきたものが、全部ほどけてしまう。

隣の席で声をかけてくれた桜井さん。
みんなで食べた昼食。
ひとりじゃないと思えたあの時間。

あれを失うのは、怖かった。

音羽は唇を結び、震えそうになる息を整えた。
ここでまた曖昧に笑ったら、本当に終わる。
そう分かっていた。

「……居心地、悪いって思ってたのは、本当」

教室が静まり返る。
自分の声が、やけに大きく聞こえた。

「でも……誰かのことが嫌いとか、そういうんじゃない。むしろ、もっとちゃんと話したいって、思ってた」

喉の奥が熱くなる。
それでも、音羽は止まらなかった。止まれなかった。

「ただ、どう話したらいいのか、分からなくて。わたし、中学の時、友だちがいなくて……人と、どう関わればいいのか、ずっと分からないままで……」

言葉にしてしまうと、あまりにもみじめに聞こえる気がした。
でも、もう隠せなかった。

「それに、放課後断ってたのは……音楽をやってるから。ロックシンガーとして活動してて、練習の時間にしたくて……だから帰ってた」

何人かが息を呑む気配がした。

「でも、誘ってくれること自体は、本当にうれしかった。断るたびに、申し訳ないって思ってたし……どうしたら失礼じゃないのかも分からなくて、余計に変な顔になってたと思う」

これ以上、話すのは怖い。でも、ここで逃げるわけにはいかなかった。

「嫌いじゃない。誰のことも。ただ、怖かったの。うまくできない自分を見せるのが」

そこまで言って、音羽は視線を落とした。
教室の床の模様がぼやける。

もうだめかもしれない。
そう思った時だった。

「……なにそれ」

桜井さんがぽつりとそう言った。

怒られる。
反射的に肩がすくむ。

けれど次の瞬間、桜井さんは少し呆れたように、けれどいつもの調子に近い声音で言った。

「音楽やってるなんて、そんなすごいこと、どうして黙ってたの?」

音羽はゆっくり顔を上げた。
桜井さんの表情に、怒りはなかった。
ただ本気で不思議そうにしているだけだった。

「……私みたいなのが、音楽やってるなんて言ったら」
音羽はかすれた声で答えた。
「バカにされるんじゃないかって、怖かった」

その言葉に、一瞬の沈黙が落ちる。

そして、輪の中のひとりが「あ」と声を上げた。

「そういえば……」
彼女は思い出したように音羽を見た。
「音楽の授業の合唱で、わたし虹咲さんの隣だったんだけど。めちゃくちゃ上手かったよ」

「え、そうなの?」

「うん。声が全然ぶれないし、なんか普通に一人だけ完成度高かった」

すると、別の子も手を挙げるようにして言った。

「わたしも思い出した。前に『君が代』歌う時、虹咲さん、めちゃくちゃこぶし入ってた」

「君が代を?」

誰かが吹き出すように言う。
次の瞬間、教室のあちこちからクスクスと笑い声がこぼれた。

それは嘲笑ではなかった。
張り詰めた糸を、そっと緩めるような笑いだった。
面白いことをした人に向ける、どこか親しみのこもった反応。

音羽は目を瞬かせた。
自分が笑われているのに、胸は痛まなかった。
むしろ、空気がほどけていくのを感じた。

桜井さんがぱっと顔を明るくする。

「そんなに上手いなら、音羽の歌、聞いてみたい」

「え」

「そうだ!」
桜井さんは手を打った。
「今日の放課後、みんなでカラオケ行こうよ」

「カラオケ……?」

あまりに突然で、音羽の思考が止まる。
戸惑いがそのまま顔に出たのだろう。桜井さんはすぐに続けた。

「カラオケなら歌の練習にもなるし。ダメ?」

その言葉に、音羽ははっとした。
たしかに、それなら“遊び”だけではない。
自分の中で、放課後の時間を使う理由にもなる。

それに——。

今ここでまた断ったら、きっと同じことを繰り返す。
誤解を生んだまま、また苦笑いで逃げるだけになる。

音羽は少しだけ迷ってから、小さく、でもはっきりとうなずいた。

「……行く。今日は、行きたい」

桜井さんの顔がぱっと輝く。

「よし、決まり!」

「え、ほんとに? 音羽の歌聞けるの?」
「君が代ロックアレンジ期待していい?」
「それはもう国家じゃなくて国歌フェスなんよ」

また笑いが起こる。
さっきまでの険悪さは、もうどこにもなかった。
教室はいつもの賑やかな空気に戻っていて、けれど音羽には、それが前より少しだけやさしく感じられた。

昼休みになっても、その感覚は消えなかった。
桜井さんたちと一緒に机を寄せて弁当を広げても、これまでみたいに胸が詰まることがなかった。
誰かの言葉にどう返せばいいか分からなくなっても、今日は少しだけ、自分の思ったことを口にできた。

「それ、おいしそう」
「その動画、わたしも少し見た」
「カラオケ、全然行ったことないから……緊張する」

たったそれだけの言葉なのに、みんなは自然に受け取ってくれた。
無理に盛り上げようとも、変に気を遣おうともせず、ただ会話の中に音羽の言葉を置いてくれた。

それが、うれしかった。

そして放課後。
窓の外の光がやわらかく傾き始めるころ、音羽は教科書を鞄にしまいながら、ふと思った。

今日は、一度も息苦しくなかった。

朝、教室の扉を開けた瞬間に感じたあの冷たさは、たしかに怖かった。
けれど、その先にあったのは断絶ではなく、言葉を交わすことでようやく見えるものだった。

話しかけられるのを待つだけじゃなくて、自分から。
曖昧に笑って終わらせるんじゃなくて、思ったことを少しでも伝える。

昨夜リュウさんに言われたことが、胸の中で静かに響く。

ーークラスの子も、音羽ちゃんと話したいと思ってるはずだよ。たぶん、いま見えてる以上に。

昨日は信じられなかったけど、本当にそうだったのかもしれない。

そして、授業が終わり、放課後になった。

「音羽、行こ!」

桜井さんが教室の後ろから手を振る。
その声に、音羽は顔を上げた。

「……うん」

今度は、少しだけ自然に笑えた気がした。
苦笑いではなく、ちゃんと自分の気持ちに近い笑い方で。

教室を出るその一歩は、きっと小さい。
でも音羽には、それが昨日までよりずっと自由な一歩に思えた。

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