僕とあいつの奇妙な教員生活 第二話 「完璧」
仏の顔も三度までだろ。
僕は、イラついていた。
第二話 「完璧」
「これ…… 何回目?」
教室の教師用の机にすわって頬杖をついている僕は、目の前の男の子に冷たい視線を送っていた。
彼はうつむき、目の前に広げられた計算問題集をじっと見つめていた。
その表情は暗く、目は死んだ魚のように曇っている。
彼は、野田さん。我がクラスの忘れ物常習犯だ。
「昨日も帰りの会で宿題の確認をして、 『忘れた計算の宿題を明日持ってきます』 って、自分で言ってたよな? 先生、その言葉、忘れてないけど」
僕は彼の顔から片時も視線をずらさず、見つめる。
彼はピクリとも動かない。
視線だけ一度こちらに向けたが、僕がずっと瞬きもせずにらんでいるとわかったら、すぐに問題集に視線を戻して、また固まった。
彼は、勉強が苦手だ。それはどんな教師が見ても分かるだろう。
もちろん、宿題をやる気もないのだ。
「仏の顔も三度までだからな」
僕は先日みんなにも聞こえるようにそう宣言していた。今日がその三日目というわけだ。
しかし、残念ながら仏の顔問題もこれが初めてではない。
日々、色々なものを忘れてくるのだ。
提出書類。 リコーダー。 体操服。 筆箱。 これだけではない。
うんともすんとも言わない彼に、僕の怒りはふつふつと沸騰しはじめ、噴火までのゲージがたまってきた。
「これに対して、何か言うことは?」
問題集をとんとんと指さしながら、語気を強めて言う。
僕のイライラメーターに合わせて自分の言葉がより鋭くとがってくるのを感じる。そのイライラに身を任せて、どうにもならない彼に、どうにかなれと怒りを込めて、僕は鋭い刃で切りつけた。
「いつなったらできるの? もう何っ……回も言ってるけど! 毎回同じじゃん。 あなたの言葉を、もう先生は信用できません! 何度も忘れるってことが先生は許せない!」
一呼吸おいて、さらに低く強く、鋭く、言葉をぶつけた。
「先生は今、あなたはどうにもならない嘘つきだと、そう思ってます」
彼は、一瞬こちらを見たが、肩を小さくすぼめ、うつむいた。
僕の言葉は、響いているかどうかはわからない。
これだけ言っても何も変わらないか……
僕は、あきれ果ててため息交じりに冷たい声で言った。
「……もういいわ。 休み時間全部使ってやること。 遊びに行くなよ。 行けるのは全部終わってから」
付箋のたくさんついた問題集を手に取り、彼に乱暴に差し出す。
「はい、どーーぞ」
彼はそれを無言で受け取って、自分の席に引き返した。
周りの子ども達が、その様子を横目で追う。
彼はガラリと椅子を引き、不機嫌そうに座って問題集を開いた。
その様子を確認した僕は、教室内の重苦しい空気から逃げるように職員室へ戻った。
「はぁ……」
「どうしたー。 でかいため息ついちゃって」
目の前の席にすわっている養護教諭、いわゆる保健の先生の田代先生が不思議そうにたずねてきた。
彼女は、長い髪を一つくくりにした三十代後半の比較的おだやかな女性だ。さっぱりとした性格で話しやすいのだが、話を聞いていないのかなと思ったらいきなり芯を食ったことをズバッと言う不思議な人だ。
「いやぁ…… 野田さんですよ。 宿題全く持ってこない、やってこないでして……」腰に手を当てて突っ立っている僕は、苦笑いしながら頭をかいた。
「さっきも叱ったんすよ。 それでもうんともすんとも言わない。 暖簾に腕押し的な? 感じですねー」僕はたまったイライラを腹の底からゆっくりと吐き出すようにけだるい声を出す。
「そうねぇ。 彼はずっとそうよね。 何年も前から。 なかなかすぐに変わるってのは難しいんじゃないの?」と田代先生はパソコンに何かを打ち込みながら、自分から聞いたのにさほど興味なさそうに答えた。
「いやでもこのままじゃやばくないですか? 社会に出たらやっていけないですよ。 その前に中学校ですでに終わっちゃいます。 将来のこと考えて言ってんだけどなぁ。 これがまた伝わらないったらありゃしない」
田代先生はパソコンから顔をあげ、右手で頬杖をつき、宙を見つめながら鼻息をフンスと出して憤っている僕に語り掛けた。
「したいと、できるって、違うからねえ。 やりたくてもできないことってあるじゃん?」
「忘れたくないのか、もうやる気すらないのか。 聞いてみればいいじゃん。 聞いたことある?」
「まぁ、聞いたことはないですね」
その言葉になんだか僕は納得いかなかったけれど、そこで3時間目の予鈴が鳴った。
「いくかぁ……」
うんと伸びをしてから、重たい足を無理やり動かし教室へ上がる。
3時間目は算数だ。
しかし本鈴のチャイムはなっているのに、一人だけまだ座っていない子がいる。
「はぁ……」とため息をつきながらそれを眺める。
「……ランドセルの中は?」などと友達に心配そうに言われながら、一生懸命ランドセルやロッカー、机の中を探っているのは、野田さんだ。
またか……
もうあきれて叱ろうとも思わない。
「ノートないなら、それを言って、後ろの棚のノートのコピーを使う」と僕は教卓の前に立って、教科書を開きながら視線もよこさずに言った。
彼は机の中を探し終わったら、ゆっくりとこちらに来る。
教卓の前まで来た。
しかし、何もしゃべらない。
僕はわざとらしく 「え?」 と言った。
彼は目をきょろきょろしながら突っ立っている。
「いや、だから 『忘れました。 貸してください』 って、言うの」
僕は、当たり前だろ、話聞いてたか?と言いたかったが、何とかこらえた。
すると彼は「ノートを忘れたので貸してください……」と小さく消え入りそうな声で言った。
「はぁ」僕はあからさまにため息をついて「どーぞ」と手に持った教科書で教室後ろの棚を指した。
なんとかならんものか。そう思ったが、もう考えるのもめんどくさくなって授業に入った。
彼は忘れ物はするし、勉強も苦手だが、だからと言って授業を妨害するような子ではない。
授業が終わりかけた時、おもむろに彼がしゃべった。
「先生。 『め』が抜けています」
「は?」と言って指さす場所を見ると、ついさっき黒板に「求めればよい」と書いたはずの場所に『求ればよい』と書かれていた。
そのミスが僕の心臓を早鐘のように打ち鳴らした。いっきに顔中に血が上り、カーッと熱くなる。
僕は、すぐさまその文を消して、書き直した。
「え?」 「なになに?」 とそのミスを見ていなかった子ども達が騒ぎ出す。
彼は歯を見せてにこやかに笑っている。その顔があまりに憎たらしくて、僕は火を噴きそうになっていた。握りしめた手と首筋に汗がにじむ。
「なんでもない。 すぐまとめを書きましょう」と僕は冷めた声でその場を切った。
教室はまたシンと静まりかえった。
僕は、吹き出しそうになる心の中のマグマを鼻から吐き出すように深呼吸をした。
4時間目は空き時間だった。
職員室に戻って、自分の椅子に座るが、どうにも落ち着かず席を立った。
あのあと子ども達は、僕のミスを笑いものにしていたかもしれない。そう思うと、僕はまた顔に血が上る。あのときも僕は顔が真っ赤だったかもしれない。無性に恥ずかしくて、悔しい。
「あの野郎……」
ふつふつとたぎる野田への怒りを噛み殺しながら、旧校舎へ向かった。
この学校には現在は使われていない木造二階建ての旧校舎がある。今は行事に使う立て看板や、古い教材、使われなくなった机や棚などをしまっておく物置小屋のような使い方をされている。新校舎とは離れていて、その間には体育館があるので、ほとんど誰も近寄らない。ここは僕のお気に入りの憩いの場だった。
廊下に入ってすぐのところに、革張りのソファが置いてある。新調された校長室のソファのかわりにお役御免となったが、廃棄するのも面倒だし、奥にしまうのも面倒だと入り口近くに置かれている。そこにすわると廊下の窓の外に校庭の桜の木が見えるのだ。花見の時期は、ここで一人で弁当を食べたりすることもある。よくこのソファにはお世話になっている。
今日も、外には残暑のまだまだ強い日差しを受け青々とした桜の葉が輝いていた。
この場所の一番良い点は、廊下の窓を開ければ、夏でも風が良く通り、かなり涼しいという点だ。窓を開け、少しこもった暑苦しい空気を逃がした。
ソファに座ろうとすると、その下から体長10cmほどのアシダカ軍曹が飛び出し、ソファの隣に置かれた埃をかぶったスチール棚と壁のすき間に消えていった。思わずビクッと体が硬直したが、幸い彼らには慣れている。周辺に黒光りするやつらの存在がないか一応確かめて、ソファにバフッと座った。少し埃が舞ってキラキラと光った。
先ほど職員室で補充してきた水筒の蓋を開け、麦茶をゴクリと飲む。
予定通り、爽やかな風が流れてきた。
最近の職員室は冷えすぎている。空調がバカになっているのか、管理職の肌感がバカになっているのか分からないが、自然の風くらいがちょうどよい時もある。
「ふー……」
ソファに深く身体を預け、手の甲を額に当て、目を閉じた。
いまだ燻っているイライラをできるだけ吐き出すように深呼吸をした。
この場所は、この学校で僕が一番落ち着く場所かもしれない。
窓の外から風で葉が擦れ合うさわやかな音が聞こえる。
静かな時間が過ぎていく。
「あー、恥ずかし……」
その声は僕の口から発せられたものではなかった。
あの ぞわっ とする嫌な感じが背筋を上ってきたのだ。
目を開けなくても誰の声かは分かる。
「クソ…… おでましか……」
手を下ろしゆっくりと目を開ける。
正面に暑苦しい茶色のスーツの男が、開け放った窓の枠にもたれるように腕を組んで立っている。首を傾け、憐れみを込めた瞳で俺を見下ろしていた。口元はへの字に曲がっている。
「なんだよ。 笑いに来たのか」
僕は、体を起こし、水筒の茶を一口飲んだ。そして膝に肘を置き、足元の木目を見下ろした。
「笑いを通り越して、もう、憐れ」
おっさんはさも当然のように言う。
その声に込められた何とも言えない悲哀。
そんなことは、わかっている。
「どうせ、全部見てたんだろ?」
その問いに、おっさんは答えない。
帰ってこない返事に、またもや苛立ちを覚える。
「どうせ俺のミスを、壁の中で笑ってたんだろ!?」と 顔をあげ睨みつけたが、そこにおっさんの姿はなかった。
「あ、あれ……?」
語気を強めた割に肩透かしを食らってまた恥ずかしくなる。
慌てて周りを確認すると、おっさんは廊下の少し奥、一部屋分ほど離れた場所にいた。
そしてさらに奥に向かって、物置になった教室をのぞきこみながらゆっくりと歩を進めていた。
後ろで手を組んで歩くその姿はまるで校内を巡回をする校長のようだ。
「なぁ、喜多朗」おっさんはときどき立ち止まって教室の中を確認しながら、屋内廊下に響くほどの大きい声で話す。
僕は、とっさに誰かに聞かれないかとソファを立ち上がって窓から校舎の外も確認するが、それも杞憂だということに気付いてまたバフンとソファに座り直した。こいつの声は俺にしか聞こえないんだった。
「教師は、間違ってはいけないのか」
おっさんは立ち止まって、教室の中を覗いている。
僕のミスのことを言っているのだろう。
あの瞬間を思い出すと、はらわたが煮えくり返りそうになる。
「どうせ、なめられるから。とか 考えてるんだろ」
おっさんは、ふふふと鼻で笑いながら、また歩き出した。
その言葉があまりにストレートすぎて、僕は何も言い返せず視線を落とした。
「でもなぁ、喜多朗」
おっさんは遠くから背中越しにゆっくりと僕に語り掛けるようにいった。「人間みんな間違えるぞ。 失敗もする。 そんなの当たり前だろう? いちいち恥ずかしいなんて思う必要ないぞ」
「教師は聖人じゃないといけない…… 教師は完璧じゃないといけない? 教師は人間だぞ! そんなわけあるかよ! ははは!」とおよそ学校の精霊とは思えない言葉を連ねながら、軽快に笑うおっさんの声が廊下に響く。
「でも、子どもも、親も、そう思ってるだろ…… 最近は、教師は肩身が狭いんだ。 弱みを見せたら、すぐつけこまれる…… 揚げ足とられて、立場が悪くなるんだ。 おっさんがいたような 『殴ってでもしつけてくだせぇ!』 みたいな昔の教育現場とは違うんだよ……」
僕は現代の教師を代表した気分で抵抗した。
「昔ねぇ…… どこもかしこも、教育はたいそう変わらんと思うが。 まぁ、それはいい。 問題は、お前のその完璧教師主義だよ」
思わぬ矛先が向いて、怪訝な顔を向ける。
「はぁ? 完璧主義の何が悪いんだよ。 みんな完璧を求めるだろ。 100点満点を目指そう。 パーフェクトだね。 誰もが望むみんなのあこがれ完璧超人だ。 そうなれ、そうなるべきだって教えられてきただろ」
「その完璧超人の教師でなければいけないお前は、現在頭がはげるほどのストレスで、今にも子どもに手を出しそうな勢いだが? 完璧を追い求めるからこそ、お前は苦しんでいるんじゃないのか?」
おっさんは、窓の外を眺めながら、こちらに引き返してきていた。
僕はまたもや、言い返せなかった。体の中が熱くなる。麦茶とさわやかな風ごときでは、僕のこの体の熱を冷ませそうにない。
おっさんは、数メートル先の窓枠にもたれ、風に揺れる桜の木を眺めながら言った。
「喜多朗。 この世に完璧な人間なんかいない。 完璧であれば、何もする必要がなくなるからな…… 少なくとも今行動しているすべての人間は、何か欠けている。 欠けていると思い込んでる。だからこそ、それを埋めようと行動してんだ。 つまり、生きている人間はみんな、不完全なんだよ」
「まぁ、不完全だからこそ、完璧になりたいと願って行動するんだがな。 その気持ちは分からんでもない……」おっさんは、何かを思い出したかのように組んだ手元を見ながら苦笑した。
「不完全だから、間違える。 不完全だから、ミスをする。 不完全だからうっかり忘れ物だってするんだ」
そこまでを言いきったあと、おっさんはこちらに身体を向けた。そして、意味深に僕を見つめてきた。
その言葉が野田少年のことを指しているということに気づくのに、時間はかからなかった。
「だって、あいつはひどいぞ!? このままじゃろくな大人にならないだろ。 人に迷惑ばかりかける。 こんなやつとは一緒にいたくない!って嫌われるさ。 僕は彼のためを思って言ってんだよ……」
「彼のためねぇ……」おっさんはにやりと不敵な笑みを浮かべる。
「じゃあ、お前は誰にも迷惑をかけないと言えるのか?」
「……そりゃ、かけることもあるよ」
「だろう? 人間は一人では生きていけない。 社会の中で生きていくのだから。どれだけ完璧主義を気取ろうが、いつかは迷惑をかけるよ。 お前は親にどれだけのことをしてもらっている? どれだけ迷惑かけてきた? お前のオシメは誰が変えてくれたんだ?」
どこか小馬鹿した顔で、こちらを見てくるおっさんから目をそらす。親という言葉が出てきたとき、僕はまた何も言い返せなくなって、お守り代わりに水筒をぎゅっと握りしめた。
「いいか喜多朗。 迷惑ってのはかけるもんなんだ」
おっさんはおだやかに言う。そして「教師も親も、だれもそう教えてくれないがな!」と笑った。
「完璧であるなんて無理な話だ。 自分が不完全であるということを受け入れたとき、相手の不完全さも受け入れることができるようになるんだよ」
おっさんのその言葉は、どこか信頼できる大人の口ぶりだった。
「お前は、今よりも楽しく生活したいと思うか?」
とっさの方向転換にハテナが飛んだが、その答えは明白だった。
「そりゃだれだってそうだろ。 僕だけじゃない。 教師は子どもとの関係でうまくいかないことばっかなんだから。 みんなそう思ってるよ」
僕は水筒を見つめながら答える。
「なら、完璧じゃない自分を受け入れろ。 お前自身の不完全さを。 お前がすべきことは、相手を変えようとすることじゃない。 お前自身が変わることだ。 そうすれば自ずと全てが変わってくる。 お前は、自分自身とまず向き合わなければならない」
そこまで言い切ると、おっさんは「またな」と手をあげて廊下の奥へ歩き出したかと思うと、まるで日光に当たったヴァンパイアのように頭の先から黒い灰となって消えていった。
僕は、おっさんの消えていった虚空をしばらく見つめていた。
しかし、体育終わりの子ども達の声が窓の外から近づいてきた音を聞いて、重い腰を上げた。
不完全な自分? 自分と向き合う?
なんだよそれ……
家
居間の座卓で夕食を食べ終わり、最後のお茶を飲み終えたときのことだ。
「なぁ。母さん」
「なに?」
母は味噌汁をすすりながら答える。
「俺って完璧主義だと思う?」
僕はスマホを手に取り、胡坐を崩して片ひざを立てながら聞いた。
「まぁ、それはあるかもなぁ。変なこだわりあるしなぁ。なによ急に」
と母はいぶかしげな表情をする。
変なこだわりってなんだよ。
スマホを触りながら何も答えない僕をよそに、母は懐かしそうにつらつらと話しだした。
「そういえば、『忘れ物したから電話して』って電話かけてもらったことあたなぁ。覚えとる? 小5のときやったかなぁ。担任の先生が『自分のじゃなきゃダメって言って聞かないんです!』って連絡きて、あわてて絵の具セット届けに行ったがな」
母は漬物とご飯を口に運びながらくすくすと思い出し笑いをしている。
「『間違ったらいけんのんや!』って、宿題も丸付けの時、あってなかったら書き直して丸して出しとったしなぁ。そう考えたら完璧主義ってやつかもしれんねぇ」
「あんたは、いつも良い子しとったからな。父さん死んでから、だいぶ気ぃつかっとったから。『妹も弟もおるし、ちゃんとせんといけん』っておもっとったんじゃない?」
「……ふーん」
「で。なんでそんなこと気にしとん? だれかに言われたんか。 教頭? 校長?」
母は悪い顔をして聞いてきた。
「なんでもないわ。 ごちそうさまでした」
僕はそっけなく返して、食器を片付けようと立ち上がった。
「ふーん」と母はそれ以上は聞かず、夕食を再開した。
肩まで風呂に浸かって浴槽に頭を預けてボーっとしていると、昼のおっさんの言葉がよみがえる。
『彼のためねぇ……』
叱ったのは、本当に彼のためなのだろうか。
ただ自分の思い通りにいかず、完璧にできないことに怒りを感じただけじゃないのか。
そうだとしたら、なんと小さい男だろうか。
それだけでも、不完全だ。感情のコントロールすらできないのだから。
「はぁ…… 」
かっこわる……
どっと疲れがあふれ出し、湯船にじんわり溶けていく。
僕だって、たくさん迷惑かけていた。忘れ物もするし、わざわざえらそうに学校まで持ってきてもらってるし。
野田さんと同じようなもんじゃん…… 迷惑かけて……
完璧でなければならない?
笑わせんな……
次の日
次の日も、案の定、彼は宿題を忘れていた。
しかし少し違ったのは、宿題のページの最初の問題は解いていたことだ。
解答は間違っていたが。
子どもの頃の僕であれば、答えを写して満点をとっていただろう。
それを彼はしないのだ。そこにも何かこだわりがあるのかもしれない。
もう内容が分からな過ぎて、どうにもならないのかもしれない。
「野田さん」僕は彼を呼んだ。
机の横に来た彼は、また物言わぬ貝に徹している。
「宿題、今日もできていないな」
「……」
問題集を見つめ続ける目に、生気はない。
「でも、最初の一問は解いた。そこが昨日とは、違う」
教室の音が消え、子ども達の耳がそろってこちらに向くのがわかる。
彼は一瞬だけチラリとこちらを見た。
僕は、言わなければならない言葉を昨日からずっと考え続けていた。
けれど、その言葉は胸でつっかえて、なかなか言い出せない。
絶対に言うもんか。
子どもに弱みを見せていいのか。
つけこまれるぞ。
教師は威厳が大事なんじゃないのか。
言ってしまったら終わりだ。
もう取り返せないぞ。
心の中で完璧主義の自分が必死の抵抗を見せている。
それでも、僕は言わなければならない。
そう 決めたのだ。
「昨日、先生は、あなたに 『どうにもならない嘘つきだ』 って言ったよな」
彼は死んでいた目をさらに曇らせた。視線は足元まで沈んでいった。
「あれは……」
心臓の音が大きく鳴る。 痛い。 呼吸が浅くなる。
深呼吸をして、お腹に力をこめた。
やめろ と叫ぶもう一人の自分を押し殺し、言葉を絞り出す。
「……言い過ぎた。 すまん……」
どうにか絞り出したその一言のおかげで、考えていたことが数珠つなぎにあふれ出していった。
「イライラしてしまったんだ。 申し訳ない…… 忘れ物をすることだってあるよな。 それを何度もすることだってある…… 不完全だもんな…… 先生も、同じだ……」震えそうになる声を必死に保った。
そういって彼を見ると、彼はこちらを見ていた。
先ほどより大きく開いた目には、驚きが見える。
そりゃ、そうだろう。
僕はできるだけ優しく、彼に話しかけた。
「宿題、できてないことにも理由があるんだろ。 教えてくれ。 言ってくれなきゃわからない。 今日は、やってみたけどさっぱりだった、って感じか?」
彼は、小さくうなづいた。
「そうか…… じゃあ一緒にやるか、もしくは学校でその日やるところを、少し一緒に解いてから帰るか。 君は、どうしたい?」
彼は首をかたむけた。
そして消え入りそうな小さな声で「一緒にやる」とつぶやいた。
「そうか…… じゃあ20分休みは空いているから、今日はそこでしよう。 オッケー?」
彼はうなずき、すっ と席へ戻っていった。その表情は、張り詰めていた先ほどより幾分かおだやかになり、動きも軽快になったようだ。
教室の空気も先ほどの張り詰めた緊張感から解放され、こころなしか明るくなった気がする。
僕はみんなに悟られないよう、心の声が漏れないように鼻からゆっくりと息を吐いた。
心はまだ、慌てている。
心臓はバクバクと音を立てる。
どうしてそんなことを!? 血迷ったか!? と抗議する自分を無視し、僕は宿題の丸付けを始めた。
『完璧 』を捨てることを選んだ。
僕は鎧を脱ぎ捨て、無防備になった。
心細さはぬぐえない。 恥ずかしさもある。
けれど、心は ずっと軽くなった。
きっと、これでいい。 これでいいはずだ。
彼の表情を見て、そう 感じた。
この気持ちは、間違いではない。
僕は前よりも、自分を好きになれそうな気がした。
第二話 終わり
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