僕とあいつの奇妙な教員生活 第三話 裏
私は雨宮凜。
学校って、チョーつまんない。
めんどくさい。
そう思っている人、私だけじゃないと思うけど。
「雨宮凜の億劫」
道徳。
道徳、道徳、道徳!
私は学校でこの時間が一番きらい。
教科書をよんで、大人のいう " 当たり前 " について考える時間。
いや考えるというか、教えこむ? 教えこむというか再確認する?
もはや洗脳。笑
とりあえず、チョーつまんない、苦痛な時間。
あいさつはした方がええぞ、っていう近所のじいちゃんばあちゃんと同じ。
何度も言ってくる。私はこれっぽっちもしたくないのに。
今日も今日とて、姉が「良く当たる」と言っていた古いおみくじ鉛筆の側面を眺めながら、時間をつぶしている最中だ。
「小吉」と書かれた面には、「にんたいもひつよう」と書かれていた。
なにが「にんたいもひつよう」だよ。
一年生のときーー。
「お前、声ちっちぇし、なんかへんな声だな」
声のバカでかいくそ野郎に笑われた。
みんなの前で。
顔がぶわって熱くなって、私は何も言い返せずにだまった。
「あいさつをしないと友達できないよ」なんてママに言われて、勇気をだして言ったのに。
勇気をだした結果がこれ?
一年生ながらに思った。
大人は都合のいいように私達に自分たちの " 当たり前 " 教えているだけだって。
――最悪な記憶。
勇気をだして言ったらいいことあるって、いいことあった人にだけ言えることだよね。
私はそうじゃなかったから言えないの、わかる?
今、いきなり私が立ち上がってそう言ったら、みんなはどんな顔するだろ。
しかしそんな勇気はない。
そんなこと言ったらどうなるか。
まさに学校のタブーというやつだ。
昔の記憶のせいで、背筋をぞわっと何かがかけあがり、恥ずかしさと憎しみの怒りが込み上げてくる。
その感情に引っ張られるように心臓の音が速くなる。
あーやだやだ。
頭の周りにもやもやと浮かび始めたうっとうしい雲を振り払うように首を振り、深く呼吸をし、騒ぎ出した心のうちを落ち着かせる。
道徳の時間は本当にめんどくさい。
かといって教室から出るのは目立つからゼッタイやだ。
できるだけ影をうすくして、雨宮は存在しません、と空気を演じ続ける。
幸運なことに、この先生の顔には「正しい答えを言いそうなやつしか当てない」って書いてある。
私は授業の最初から最後まで、ただだまってやり過ごすだけ。
あと5分でチャイムが鳴る。
こういうときの5分が長いったらありゃしない。
「で、結局、みんなはあいさつする、あいさつをしない。どっちがいい」
先生は教室を見回して、また分かりきった答えを確認する。
「もちろんあいさつするほうだよね」って、心の声が透けて見えるようだ。
「あいさつするほう」と言いながら、挙手を促すパターン。
あれ?
そんなつもりはなかったのだが、私の手はあがらなかった。
さっきまで目立ちたくないとか思いながらも、40分我慢させられた腹いせか、声のでかいバカ野郎への憎しみか、大人達への反抗かわからないけど、私の手は回答を拒否したようだった。
大丈夫かな、と少し不安になる。
身体を小さくして、さらに気配を消す。
見逃してよ……
「もう一回聞くよ。あいさつする方がいいなってひと」と、先生は先ほどよりもよく通る声を発した。
お、やばい。私に気づいてる?
さっきまで気にならなかったはずの心臓の音がいきなり聞こえ始める。
どうしよう。心の中の小人たちが緊急事態だと一斉にわらわらと走り回る。
おそるおそる黒板の方を見ると、確実にこちらを見ている先生と目が合ったので、即座に視線を外した。
バレてる……。
あくまで自然に、静かに身体を起こし、いじっていたおみくじ鉛筆を申し訳なさ程度にひょこっとあげてみた。
先生はそれで気が済んだのか「オッケー、じゃあふりかえり書こうか」とみんなに指示を出した。
ほっ……。当てられずにすんだ。危なかった。
私は深呼吸をして、心の中の小人たちを落ち着かせた。
そして、安心してまた机に伏せた。
ふりかえり……、またここも悩みどころだ。
考えるのもめんどくさい。
どうせ「あいさつなんていらない」なんて書いたら呼び出しをくらう。
でも「あいさつが大事」なんてかけらも思ってないのだから、「あいさつさいこー」「どんどんあいさつしていこー」なんて絶対書きたくない。
思ってないことをかくのは、苦痛だ。
こんなこと、すっと適当に書けばいいとも思う。
しかし、何かがじゃまする。私の中の何かが全力で抵抗するのだ。
試しにその " 何か " に任せてみればどうだろう。
思いのまま、ありのままを書くとどうなるだろうか。
なんだか急に興味がわいてきた。
任せてみよう。どうせ消せばいいし。
ありのままでいってみようぜ。
ノートの一番上に「あいさつ」とだけ書いて、目をつぶって心の声に耳をすませる。
すると自然と鉛筆は走った。
" あいさつなんて、くそくらえ "
プッ……。
笑いがこぼれそうになるのを必死にこらえる。
これはやりすぎでしょ、だめだめと口元がつりあがりそうになるのをおさえていると先生が前から歩いてきた。
私は急いで表情を引き締め、消しゴムを力いっぱいこすりつけた。
けっこう力強く書いていたので、うすくえんぴつの通ったあとが残っている。
くそ――、とノートを閉じようとしたが、それはあまりに不自然すぎるので、とっさに目の前の毛むくじゃらの筆箱で隠し、ふせた。
その間わずか4秒。どうにか間に合った。
私の机まで到達した先生は、やけに丁寧な声で「振り返り、かけた?」と覗き込みながら聞いてきたので、私は近寄らないでオーラ全開で「いや、まだです」とぶっきらぼうに答えた。
そう、とも言わず無言で、先生は私の後ろを通って、周りの子のノートを覗き込み、うなずきながら教室の前にゆっくりと戻っていった。
新橋先生はよく分からない先生だ。
こちらとの距離を探っているのはわかる。
まぁ、無理に距離をつめてこようとしないのはまだマシだけど。
本音が見えないのは、少しこわい。
何考えているか分からないって、それだけですこし気持ちわるいなって思う。
ただ思い通りにいかないときに見せる(本人はおさえているつもりだろうけど)目がギンギンにきまっている顔は、最近ママが見てたドラマにでてくるDV男みたいな支配欲の強さを感じた。
言い過ぎかもしれないけど。
この前、先生の漢字のミスを野田が指摘したとき、みんなは笑ってたけど、私はその後のことがおそろしくて笑えなかった。
今にも雷が落ちそうだった。
そんなシーンを見ると、いつもひやひやする。
私にもとばっちりで雷が落ちやしないかと。
男子たち、ほんとにやめてほしい。
「じゃあ書いた人からノート出してー」
その声にびくっとしながら、また何も書いてないけど、教室後ろの先生の机に出した。今までにも書いてないときはあったけど、特に何も言われなかったから、今日もきっと大丈夫なはず。そんなにノート見てないし。
はぁ。やっと終わった。
一週間のうち、一番めんどくさい時間がおわった。
机の中の教科書やノートを引っ張り出して、ランドセルに突っ込む。
早く帰りたい。
今、私に学校に来る楽しみはない。
それでも来てるんだから、偉いよね。
家
「今日の道徳、マジでめんどかったー」
「そうなんだ」
電話越しに聞こえるその声は、いつもと何も変わらない。
「ふりかえりに " あいさつなんてくそくらえ " って書いちゃってさ。そしたらタイミングよく見に来るんだもん! ほんとマジあせったよー」
「だいじょうぶだったの……?」
「間一髪! 横に来る2秒くらい前にショウコインメツせいこう!」
「はは、すごいね。さすが凜ちゃん」
今にも空気に溶けて消えていきそうな透き通ったか細い声。
彼女は、幼なじみの咲良。
私のたった一人の何でも話せる友だち。
それなのに、今は学校に来ていない。
7月の最後のあの日以来、咲良は学校に姿を見せなくなった。
今ではずっと家にこもっているらしい。私もあの日以来、姿を見ていない。
何か、あったんだと思う。
でもそれを、私は知らない。
なんせ話してくれていないし、聞いてもいないから。
どうして話してくれないのかは、わからない。
私は彼女になんでも話せると思ってるけど、向こうはそうは思っていないのかもしれない。
そんなことを考えていると、胸がキュッと締め付けられて、少し痛む。
「なんで学校に来ないの?」
たった一言、そう切り出せばいいのかもしれない。
けれど、それを聞くにはもう遅すぎる気がして、言葉にできないままだ。
二の足を踏んでいる間に、時が流れて、とっかかりもなくなってしまった。
私は咲良が話してくれるまで待つことにした。
無理に聞き出すことはしない。
だから私はこうやってメッセージを送ったり、電話したりして、たわいもない話をする。
いつか咲良を家に閉じこめる何かについて、話してくれることを願って。
「そ、そういえばさ、今度転校生が来るらしいよ。女の子なんだって。都会の方から」
「そうなんだ。仲よくなれるといいね」
その返事には、「私は無理だけど」とか、「私には関係ない」みたいな言葉が隠れている気がした。
仲よくなれるといいね、か。本当は、咲良と一緒に仲良くなりたいんだけどな、と心の中でつぶやく。
その言葉を発しようとすると、今じゃないよ、やめときなと何かが手を挙げて制止する。
「……明日はさ、学校これそう?」
きっと思うような返事は返ってこないだろうとは分かっているけど、3回に一回はつい聞いてしまう。
咲良は案の定「……わかんない」と、どこまでも他人事のような返事をする。
「そっか……。きてくれたら、うれしい」
「うん、ありがと。……がんばってみる」
電話越しに聞こえる声は、風が吹いたら消えてしまいそうなくらいに弱々しい。
その「がんばる」 って、どういう意味なの?――。
その言葉の一歩を踏み出す勇気は、一か月以上たった今も、私の中に湧き起らない。それよりも彼女を傷つけたくない気持ちが勝ってしまうのだ。
本当は、咲良も理由を聞いてほしいと思っているのかもしれない。
人の気持ちって全然分からない。
分かってしまえばもっと楽なのに。
そういうの分かる機械とか発明されないかな?
ふと壁にかけてある時計に目線をやると、もう9時を過ぎていた。
そろそろママが、いつまでたっても風呂に入らない私にしびれを切らして2階に上がってくる頃だろう。
「じゃあ。またね」
「うん」
咲良はそれ以上何も言わなかった。
ポン。
画面にはたくさんのアプリのアイコンが表示されている。
スマホをベットに放り投げ、うーんと伸びをした。
そしてついでに私もベッドにダイブする。
私のダイブの衝撃で、跳ねて手元に転がってきたスマホをまたつかみ、暗くなった画面をのぞき込んだ。
わけもなく明るくなる画面を数秒眺めたが、結局は何の用もないのでサイドボタンを押して画面を消す。
再度暗くなった画面には、うっとうしい前髪がかかったパッとしない顔が映りこんだ。
うんざりしながら、スマホから顔を離し、寝返って大の字に寝転がった。
天井を仰いで、深呼吸をする。
「わざと明るく振る舞うとか、そんな柄じゃないんだけどな」
やるせなく吐き出されたつぶやきは宙をただよい、蛍光灯の明かりに溶けて消えていった。
目を閉じてしばらく横になっていると、気持ちの良い眠気が身体を包み始める。
うとうとしていると、ドアの向こうの階段下から「りーん! はよ風呂入ってー!」とママのブチギレ5歩手前くらいの声が飛んできたので、はあ、と大きなため息を一つ吐き「はーい」と力なく返事をして、安眠を振り払ってベッドから起き上がった。
一週間後
「おはようございまーす」
校門には朝のあいさつが飛び交っている。
私は帽子を深くかぶり、黙って通り過ぎようとした。
「雨宮さん、おはようございます」
子どもとは違う少し高い位置から名指しで声をかけられ、ギクッとして声の主を確かめる。
横目で捉えると、担任が子どもの列の後ろからこちらを見ていた。
確実に私を狙って声をかけた感がある。
しかし、いつもとは違って、とがめるような厳しい声ではなかった。
子どもの「あいさつ花道」の中には、いつも何人か先生がいる。
私は仕方なく、ため息のかわりに、朝方でただでさえ出したくもない声を引っ張り出して「おはようございます」と小さくつぶやき、通り過ぎた。
あの耳をつんざく大きな声や、「なんであいさつ返さないんだよ、人としてどうなんだよ」というプレッシャーが、どうしても嫌だ。
人でごった返す靴箱に向かい、流れに沿って靴をしまいながら、咲良の靴箱を確認するが、もちろん今日も靴はない。上靴さえ置かれていない。
2学期に入ってから、一度も彼女は学校に来ていない。
今日も咲良は来ないのだろう。
退屈な一日の始まりだ。
そしてそんな退屈な一日の最後に、最高に退屈な道徳がある。
中々に地獄である。
「きをつけー、れい、おねがいします」
本田君の、寝言のような号令のあと、形だけの言葉を合わせ、いつもの道徳が始まった。
今日も今日とて、「当たり前」を学ぶお時間なのだろう。
私はとりあえず貝になり、気配を消しきる修行にいそしむ予定だ。
そのはずだったのだが……
何かおかしい。
先生の様子が明らかにいつもと違う。
何か私たちの様子をじっと見ている。
見回すと、その雰囲気を感じ取っている人も何人かいて、不思議そうに教壇に立つ担任を見つめたり、周りに何か良くないことをしている人がいるのではないかを見まわしたりしている。
私は気配を消す術をつづけながら、様子を見守った。
「ちょっと、みんな聞いてくれるか」
先生は、教団に静かに両手をついて、話始めた。
その様子にいつもと違う緊張を感じた。
「教科書は、まだ開かなくていい。ノートも。」
おっと、これはやばい感じだ。
だれか何かやらかしたのだろうか。
いじめだろうか。
クラス会議になるのだろうか。
ただならぬ空気が教室に漂い、おそらくこのクラス全員が、この後に落ちるであろう雷の原因に思いをはせた気がする。
みんな、先生の次の言葉を固唾をのんで見守った。
「みんなはこの教室で、本音が言える?」
先生は、少し口の端に困ったような笑みを浮かべながら言った。
は?
予想とは全く違う方向の言葉が飛び出し、驚いたのは私だけではないと思う。
何を、言っているのだろうか。
すくなくとも、先生の前で、この "道徳" の時間で、本音を出せる人はほぼいないだろう。
言えるわけがない。
雷が落ちるのだから。
なぜそんなことを聞くのだろうか。
「教えてくれる?」と先生は続けた。
いや、この空気で言える人いる!? と、内心動揺していると、いつもの通り「本音で話せるよって人」と先生が手を挙げ、挙手を求めた。
3人、手が挙がった。
その勇気すごいね、と感心したが、メンバーを見ると納得だった。
傍若無人な男、空気も何も考えていない間の抜けた男、ドストレート直球女。
それ以外は、みんな押し黙っている。
先生はその数を確認し、うん、とうなずいた後、
「ありがとう。じゃあ正直な話、本音なんて無理です、っていう人」と、残りの全員に挙手を求めた。
いや、挙げられるわけないでしょ……
ここで手を挙げたらどうなるか分からない、理由とか聞かれちゃいそうな状況で手を挙げるような猛者はこのクラスにはいないだろう。
案の定、誰一人として手を挙げなかった。
先生はその様子をしばらく見守った後、その反応を予想していたのか、苦笑いを浮かべ教卓に視線を落とした。
しばらくして「正直にありがとう。どうして本音が出せないか、聞いてもいい?」と、また無茶苦茶なことを言い出した。
さっき私達は手すら挙げてないんだけど……、と思った矢先、ドストレート直球女の橋本さんが手を挙げた。
改めてその勇気に脱帽である。というか何を言うのだろうか。
「多分、怖いんじゃないでしょうか。本音を否定されたり、怒られたりするのが」
橋本さんは、まるで怒っているかのようなどこか冷たい声で言い放った。
凍りつく空気。高まる緊張。
私は思わず、首をすくめた。
先生は、少し寂しげな笑みを作って「橋本さんはそう思うんだ…… ありがとう」と言いながら、机に視線を落とした。
その反応には違和感があった。
いつもなら顔を赤くして、沸騰したやかんの蒸気のようなプレッシャーを感じる鋭い言葉が返ってくるはず。
今日は何だかいつもより弱々しく見える。
先生は少し間をおいて、穏やかな声で橋本さんに問いかけた。
「その…… 否定したり、怒ったりするというのは、先生のことかい?」
空気がしんと静まり返った。
全員の意識が、橋本さんの返答に集中している。
否定するのか、しないのか。恐ろしい質問である。
私だったら答えない。いや、答えられない。
ドストレート直球女であっても、この質問はさすがにこたえたらしく、言葉に詰まった。後ろから見ていても、彼女が視線を落とし、心の中で返答に困っているのが伝わってきた。
けれど彼女は声を発することを選んだ。
「それもあると思います」
彼女は衝撃的な選択をした。
「それも」の " も " に、少しばかりの配慮があったように感じた。
実際そうだし、私もその意見に大賛成だが、先生にとっては「お前のせいで本音を言えない」と言われているようなもの。
「子ども達の逆襲」が始まってしまった。
よく言ったという賞賛の気持ちと同時に、「なんてことを言ったんだ、この後が大変じゃないか」とこのあとに巻き起こる波乱の展開に内心おろおろする。
おそらく周りの子達も同じことを考えていただろう。
不安そうに橋本さんと先生を往復する周りの視線が忙しい。
私の心臓も場の空気に合わせて、私に聞こえるくらいには忙しくなっていた。
なんでこんなことにになってしまったんだ。
これはこの学年になって1,2を争うヤバい展開だ。
先生の橋本さんの返答を深く受け入れるように、一呼吸した。
そして「勇気のある言葉を言ってくれた橋本さんを、先生は尊敬する」と落ち着いた声で言った。
思っていたのとは違う反応に、おそらくみんながあっけにとられた。
そして、先生は苦笑しながら話を再開した。
「先生な…… 最近へんなやつに会って。そこで言われたんだよ。お前のせいで子ども達は本音を出せない。息苦しい教室になってるって」
その声は少しずつ暗く小さくなっていった。
先ほどの橋本さんの言葉が効いているのか、その「へんなやつ」の言葉通りの状況になっていることが分かったからか、先生はひどく落ち込んでいるように見えた。
「正直、ショックだったんだよ…… 先生には君たちに、こうあってほしいって願いがある。けどそれは先生の生きてきた世界の常識で、君たちの生きる世界とは違うかもしれない。先生の常識は、君たちの人生には通用しないかもしれない。全部、先生の自分勝手なんじゃないかってな……」
先生は、そこまで話すと教卓に視線を落とした。
いつもピリピリして、鋭い言葉を発している若くて怖い男の先生。
そんなイメージとはかけ離れた今の状況に、クラスのみんなは戸惑いを隠せていない。
こんなに弱々しい印象は今までになかった。
それほどまでに、先生にとっては今のこの状況がこたえているのだろう。
「はは。すまん…… 君たちのやる気を、個性を、先生は奪っていたのかもしれない。自分の価値観を押し付けて。君たちを押さえつけていた。もしそうだとしたら……」
そこまでいうと、先生は何かのどに詰まっているものをこらえているかのように、首筋に力を込めた。視線は依然として下を向いたままだ。
教室中の誰もがみんな、その言葉の続きを待っている。
「もしそうだとしたら…… 謝らないといけない」
先生は、重々しくそうつぶやいた。
そして「本当に、申し訳ない」といって、教卓に置いていた両手を下ろし、気を付けをして頭を下げた。
運動会の練習の時に見た、お手本のような丁寧なお辞儀だった。
私を含め、みんなが驚きのあまり言葉を失っていた。
子どもの前で頭を下げる先生など、今までに見たことがない。
この後どうすればいいのか、私には分からなかった。
おそらく、みんなも分からなかったと思う。
沈黙が教室を満たしていく。
時が止まったかのように、みんな物音一つ立てない。
すると突然、前の方の席で手が挙がった。
誰!? と背筋を伸ばしてその手の主を確認する。
その手の主はなんと、あの野田だった。
いつも何を考えているかよくわからない。
いつも空気が読めなくて、とんちんかんなことを話すけど、こんな時に手を挙げるような人だったか。
みんなが不思議そうな、不安そうな視線が彼に集まる。
挙手に気づいて身体をゆっくりと起こした先生は、すこし驚いた様子だったが、手を差し出して彼を指名した。
みんなが体を彼に向けて、彼の一挙手一投足に注目する。
私はいつの間にかこれ以上状況を悪くするなよと、祈るように手を握っていた。
息がつまりそうになりながら、彼の言葉を待つ。
周りの子達も固唾をのんで見守っている。
そんなみんなの心配をよそに、彼は小さな声で、それでいてあっけらかんと言葉を発した。
「先生。 そんなことも、あります」
拍子抜けするような言葉に、私はつい「は」と声が出そうになるのを抑えた。
先生は驚きのあまり、ポカンと口を開けたまま固まっている。
周りを見回すと他のみんなもそうだった。
先生はというと、どう反応したらいいか分からないといった表情でたたずんでいる。
気まずい沈黙が教室を包み込む。
そんな中、誰かがぷっと吹き出した。
それにつられて数人がまた吹き出す。
野田の前の席に座る上田が、いきなり後ろを振り返ったと思ったら、「お前がいうか」と芸人さながらの軽快なツッコミを入れた。
突然のツッコミに驚いたが、次は笑いが起きた。
小さく「それな」と賛同する声も聞こえる。
笑いは伝染し、瞬く間に教室に広がった。
当の野田はというと、恥ずかしそうに肩をすくめて、はにかみながら周りを見回していた。
重苦しい緊張の糸が、ふっとゆるんだ。
あっけにとられていた先生はポカンと開いた口を閉じ、フっと頬を緩め「そんなことも、あるよな……」とその言葉をかみしめるように言った。
そして「野田さん、ありがとう」と穏やかな声で礼を言った。
その顔には笑みが戻っていた。
私は、みんなにつられて少し笑いながら、静かに深呼吸をした。
野田君と上田君のおかげで、このクラスは危機的状況を乗り越えた。
今回ばかりは、空気の読めない野田君に、お調子者の上田君に感謝した。
先生は、先ほどの落ち込んだ様子から回復したようで、少し明るくなった声で教室を見回しながら、改めて何かを決心したかのように話を始めた。
「というわけで、先生は変わろうと頑張る。これからの道徳でしっかり本音を出してくれたら嬉しい。全部、受け止めるから――」
全部受け止める――。
お通夜の空気からは解放され、ほっと胸をなでおろした私だったが、その言葉は妙に引っかかった。
先生はそういうけど、その言葉を本当に信じていいのだろうか。
今までの先生であれば、自分の意見に合わない者は認めなかった。
「全部受け止める」なんて、そんなことを言う人ではなかった。
私の嫌いな、とげとげしくて、押し付けがましい大人だったはず。
けれど、今の先生は何かが違う。
その表情やたたずまい、声のトーンからは穏やかで温かい雰囲気が漂っている。
少なくとも、深い謝罪で見せた真剣さは、本物だと感じた。
その真剣さの奥に、ほんのりと自然な優しさや温かさも感じるような気がする。
何があったのだろう。この変わりようはおかしい。
その "へんなやつ" とは、誰なんだろう。
私は興味がわいてきた。
いつの間にか、先生に対する何ともいえない嫌悪感はなくなっていた。
そして同時に、先生の言葉を信じたいと思っている自分がいることにも気が付いた。
先生は、教卓に両手をついて、周りを見渡しながら言葉を続けた。
「本音を出した先にある世界を見に行こう。そして、どんな道を進みたいか、選ぶのは君たちに任せる」
教室を見回す先生と視線が合った。
けれど、私は目をそらさなかった。
先生は軽く笑みを浮かべた。
そして何かを決心したときのような芯のある声で言った。
「本音の道徳を、はじめようか」
その言葉は私に向けられたもののような気がした。
もしかしたら、私も楽しめるようになるのだろうか。
ありきたりな押し付けがましい、つまらない道徳ではなく、本音を出し合う何を言ってもいい自由な道徳を。
この後どうなっていくのか、気になっている自分がいる。
帰ったら絶対この話を咲良にしようと決めて、私は初めて道徳の時間に自分から姿勢を正して、ノートを開いた。
おっさんの一言
この女の子だけじゃないはずだ。
うんざりしている子どもは。
大人ってのは、子どもに何かを押し付けたがるよなぁ。
その中でも親ってのは、ついつい自分の人生よりも、子どもの人生の方が大事になっちまう生きもんだから、自分が良いと思う選択をさせたくなるもんだ。
そりゃあ自分の命より大切だからな。
教師だって、同じようなもんさ。
しかしな、子どもの人生において、その道が本当に正しい道か、幸せな未来かどうかは分からねえ。
それこそ、全知の神のみぞ知るってやつさ。
しかし分かったところで、自分が幸せだと思うことを、子どもが幸せだと思うかどうかはその子しだいだ。
そんなことは、その子が決めることだからだ。
雨宮凜は、雨宮凜であって、新橋喜多朗とは違う。
送っていく人生も全く違う。百人いれば百通りの幸せがある。
良い方を選ばせようとするのは、その子の自由な人生を、その可能性を信じていないってことでもあるんだ。
子どもを幸せにしたいのなら、管理するんじゃなく、一人の人間として信頼し、任せろ。
それでどうなったって、その子の人生だ。
突き放しているように聞こえるかもしれないが、そうではない。
どんなことが起きたって、無駄なことなんざ、何もねぇんだよ。
喜多朗は、教師としてちょっとだけマシになってきたな。
あんたも、そう思わねぇか?
第三話 裏 終わり
