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せっかちなわたしが子どもの成長を楽しみに待つという姿勢になるまで

この夏、エッセイを書くと決めたのに、
エッセイと呼べるものをまだひとつも書けていない。

とにかく書いてみること。
これいつもUPしているものと何ら変わりない、と思ったとしても、
そしたらいつも書いているのはエッセイだ!と主張すればいいのかと思いつく。天才だ。
人生というのは思うよりも短いものだから。

そんなすぐに自分の都合のいいように解釈して生きてきたわたしであるが、自分がせっかちだ、と気付いたのは、ほんとここ最近のこと。
この世に生まれて40年ちかくに経つというのに、わたしは自分のことをせっかちだと思ったことは一度もなかった。
周りからは思われていたかもしれない。
なにかにつけて、白黒つけたがるので。
グレーな状態がきらいで、恋人めいた関係になったら、聞いてしまう。
「ねえ、これってどういう状態?」と。

でも当の本人は、まったくそんなこと思わなかったのだ。
なんとも自己解像度の低い人間である。

わたしはわたしのことを考えて悩むくせに、自分という人間の本質に触れることを怖がっているのだ。
自分はすぐ他人を勝手にわたしの解釈、いわゆる思い込みでカテゴライズするくせに、わたしという人間をどこかにカテゴライズするのはきらいなのである。

我儘。自己中。傲慢。デブ。
最後、悪口入ってた。

とにかく、自分のことを意外とおっとりタイプだと思っていたのだ。
というか、わたしはおっとりを装っていたんだ。
中身はとてもせっかちで、他人分析大好き、ツッコミ人間であるのに、
人見知りと大人しそうな雰囲気で隠していた。
ただ他人に心を開けないだけ、といえばそうなんだけども。

わたしのことをよく知らない人ほど「のんびり屋さん」という。
そういえば、幼稚園の卒園アルバムにもわたしのところに先生から「のんびり屋さん」と書いてあった気がする。

そう、単純なわたしはそれを見て「わたしってのんびり屋さんなんだ~~」と思いながら幼少期を過ごし、きっとそれをオバチャンとなった今も引きずっている。搭載しているOSはいくつなのだろうか。たぶんアップデートしようと思っても、もうサポートは終了しているだろう。というかよく電源入って動いているよなというレベルだ。

そんなわたしが、なぜ自分がせっかちであると気付いたのかというのは特に理由もなく、あれ、わたしってひょっとしたらせっかちなのか、とふと思ったのである。
理由ないのかよ。

でもほんとに些細なことだったのだ。そう、仕事中、パソコンのネットワークの調子が悪くて、「ぐるぐる」するの、待っていられなかったとき。
その時間がもったいなくて、PCではない別の作業をはじめる。

レンジでチンするのをぼけーっと待っているのも無理。
「ながら」でないとイライラしてしまうのかもしれない。

「ついでに」をしたいのである。
たとえば洗面所に行くのであれば、そこに持っていくなにかを探してしまう。でもこれを昔付き合っていた人に話したら、「デブの発想だ」と言われた気がする。えー…。

歩いているときもそうだ。
信号待ちとかで止まってられないの。マグロなのか。回遊魚か。
さすがに遠回りになってしまうときは青になるまで待ちますよ。
でも、別の道でも行けるときには、そっちに移動する。
動いていない時間を「もったいない」と思ってしまうの。
その割には家でダラダラダラ惰眠をむさぼっているのだが。

人を待つ時間も、ボケっと待つのがいやで、
必ず本屋とか雑貨屋にいる。
お店が決まってれば先に入って待つ(もちろんビールを頼んで飲んでる)。
これは相手に「待たせた」と気を遣わせない配慮だとわたしは弁明している。


それでもぼーっとするときは大いにぼーっとするし、昼寝も大好き。
なにも考えたくないときもあるし、最近はほんとうにぼけーっとする。

だからたぶん、なにかを「待つ」のがきらいなのかもしれない。

けれど、子育てはひたすら「待つ」ことしかできないのだ。
花や植物を育てているのと同じ。
栄養を与えることはできても、その成長をコントロールすることはできない。

根気よく、待つ。

これがこの夏からのわたしの挑戦としたい。


最後までお読みいただきありがとうございました!

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