人魚おじさん物語Day14 — 今日は、違います
── 研究所が、息を吸った。
通路の灯りが、順番に色を変えた。
青。白。赤。
低い警告音が、床を伝うように広がっていく。
研究所が、目を覚ました。
扉が開く音。
台車の転がる音。
遠くで誰かが名前を呼ぶ声。
静かだった世界が、
一斉に“動き出した”。

海側の搬入口が開く。
冷たい水と一緒に、担架が滑り込んでくる。
ひとつ。
ふたつ。
止まらない。
濡れたシートの下から、かすかなうめき声。
閉じられた目。
青ざめた顔。
ぷるりは、もう動いていた。
「次、こっち!」
「バイタル測って!」
「その人、優先度B、通路左!」
言葉が、ぶつかり合う。
誰も、誰かを見ていない。
“患者”だけを見ている。
ぷる助は、モニターを抱えて走る。
ケーブルが床を引きずる音が、
やけに大きく響いた。
はまちは、資材室の扉を蹴るように開ける。
酸素ボンベ。
止血パック。
保温シート。
腕いっぱいに抱えて、戻る。
声は出さない。
出す余裕が、なかった。

ぷるりは、担架の脇に回り、シートを押さえる。
モニターの数値を一瞥して、声を飛ばす。
「脈、弱いです。こっち、先に」
ぷる助が、機材を滑り込ませる。
はまちは、通路の向こうから資材を置いて、
また走り出す。
マリネラが現れ、
周囲を一度、見渡す。
「……人手が、足りない」
誰も答えない。
それは、全員が知っていることだった。
マリネラは、ぷるりを見る。
一瞬だけ、迷うように目を伏せる。
それから、静かに言った。
「ぷるり。
あなたも、治療ラインに入って」
ぷるりは、息を吸って言った。
「ドクターのサポート、入れます。
準備は、できてます」
“いつもの位置”に立つ声だった。
そのとき、空気が、ほんの一拍だけ止まる。

マリネラの目が、ぷるりに向く。
「今日は、違います」
ぷるりは、
言葉の意味が、すぐに掴めなかった。
「……え?」
マリネラは、静かに告げる。
「あなたが、診ます」
世界が、半拍、遅れる。
担架の軋む音。
モニターの電子音。
誰かの呼ぶ声。
それ全部が、遠くなる。
ぷるりの手が、
初めて、空中で止まった。
ぷる助が、横に立つ。
「……オレが、つく」
短い言葉。
でも、逃げない声だった。
はまちは、
何も言わず、もう一度、走り出した。
マリネラが、最後に言う。
「大丈夫。
判断は、私が引き受けます」
ぷるりは、ゆっくりとうなずく。
震えは、止まらない。
でも、足は、前に出た。
研究所の中心で、
ぷるりの“役割”が、変わった。
── Day15へつづく。
