NHK短歌「雲」
昨日の「NHK短歌」は宮沢賢治シリーズの第二回、テーマは「雲」だった。
選者は土岐友浩さん。1982年生まれ、精神科医であり、歌誌「西瓜」の同人を務める歌人でもある。土岐さんによれば、宮沢賢治は約九百首の短歌を残しているが、雲を詠んだ歌が多く、百首ほどあるという。雲を見ながら何を考えていたのか――そんな思いから、今回のテーマを「雲」にしたそうだ。
入選九首はいずれも、「雲」が単なる物理的な雲ではなく、我々の手の届かない何かを象徴しているようで、深読みし始めると面白いがキリがない。
特に印象に残った三首を紹介したい。
雲を追う 人のまぶたが 閉ざされて
わたくしが追う そののちの雲 (大津穂波)
この歌の「雲」は何だろう。理想か、真理か、あるいは職人の技のようなものか。人によって、いかようにも受け取れる。それを追い求めていた人が亡くなり、自分がその後を継いで、なお追い続けていく。静かな決意のようなものを感じる。
土岐さんは、宮沢賢治もまた、何かはるかなものを追い続けていたのではないか、と語っていた。今回あらためて賢治の短歌を読み返し、その歌の中に「はるかなもの」を見ているように感じたという。土岐さん自身にも、「そののちの雲」を追いかける感覚があるのかもしれない。
私にとっての「雲」が何なのか、すぐには思い浮かばない。それでも日々、何かを求めながら生きている気はする。私のまぶたが閉じた時、監視人殿(妻)や息子たちは、私が追い求めてきたものを少しでも感じ取ってくれるのだろうか。不安ではあるが、その時の私は何も分からないのだから、今はそこまで考えないことにする。
雲だらけに なって地球は ふわふわの
白い惑星と みなされた (友常甘酢)
「ふわふわ」という柔らかな言葉とは裏腹に、どこか不穏な気配の漂う歌だ。地球全体が雲に覆われ、白い惑星になってしまった。その光景を、誰がどこから見ているのかも分からない。そこが妙に気味悪く、想像を掻き立てられる。
地球は、一皮むけばマグマの塊であり、いつ大噴火が起きても不思議ではない。さらに現在、世界には一万発を超える核兵器が存在するという。何かの間違いで、そのほんの一部でも使われれば、地球は本当に「白い惑星」になってしまうのかもしれない。人類の最後は、案外そんなものなのだろうか。
縁石に つまずき骨に ひび入り
雲につながる 我はパペット (高瀬浩子)
脚を傷め、自分の体を思うように動かせない。まるで雲の向こうの誰かに操られているような感覚なのだろうか。怪我は、人が抱える不自由さの象徴にも思える。
見方を変えれば、人は皆、何らかの不自由を抱えて生きており、誰かの操り人形のようなところがあるのかもしれない。私は足が不自由で、歩く時はウォーカーを押し、監視人殿に支えられている。しかし一方で、監視人殿も万全の心身というわけではなく、足りないところは私が補っている。人間とは、案外そういうものなのだろう。誰もが、せめて「良きパペット」でありたいものだ。
雲は風に吹かれて、次々と形を変える。時に人間の理想となり、時に地球を覆い、さらに人を操る存在にもなる。この先の人生も、死ぬまで雲と仲よく生きていきたいものである。
