闇の書 ニュートラルという幻想
ニュートラルを気取る「賢ぶるバカ」問題とは
現代の社会評論で最も奇妙なのは、「私はどちらの陣営にも属していない」と語る人間が、なぜか自分だけは時代を正しく見ていると確信していることである。彼らはリベラルを批判する。かといって、保守にも与しない。国家主義も嫌いだし、市場原理主義にも距離を置く。左右双方の欠点を指摘し、「自分はそのどちらにも回収されない第三の立場にいる」と語る。
そう。一見すると知的な態度に見える。
だが、その「どこにも属さない」という自己規定は、本当に中立なのだろうか。それは、現代でもっとも現実逃避的かつ自己陶酔的な思想の一つだ。現在、多くの人たちが冷戦後の「歴史の終わり」の時代に教育を受けた世代だ。戦争は起きず、市場は拡大し、民主主義は普遍化し、人権は少しずつ広がった。その世界観では、国家や共同体は抑圧装置として理解され、権力を相対化することこそ知性だった。たしかに彼らは、差別を忌み嫌い、弱者を見下しつつも救済を訴える。その様子は今のリベラルと瓜二つで、彼らは自分たちの正義を疑わない。そして、歴史を上っ面だけなぞりつつ、前提を疑わずに分かった気になる頭の悪さには心底驚嘆する。そして、その立場は常に「世界は基本的に平和であり、成熟した自由主義社会の延長線上にある」という前提に依存している。その前提のもとでは、「権力を警戒すること」が知性になり、「国家を疑うこと」が進歩性になり、「共同体を相対化すること」が成熟した態度になる。勿論、それらの発想や姿勢は重要である。しかし、そうしている間に世界は刻一刻と変化している。
現実を直視せよ
二十一世紀の国際秩序は、明らかに別の局面へ入りつつある。エネルギー、AI、半導体、少子化、軍事、食料、サプライチェーンなどの様々な問題。今や国家は再び国民を守る装置になった。国家間競争は激化し、経済は安全保障と不可分になり、技術は地政学の道具となった。自由貿易も国際協調も、もはや無条件の前提ではない。言い換えれば、歴史は再び動き始めている。それにもかかわらず、彼らの議論は驚くほど内向きだ。
新しい帝国主義に備えよ
職場のハラスメント、家庭内の権力勾配、共同体の抑圧、消費社会の倫理──もちろん、どれも重要なテーマである。しかし、そのすべては、平和で安定した自由主義社会が続くという前提の上でしか成立しない議論でもある。世界が帝国の競争へと回帰しつつある時代に、「私はリベラルにも保守にも与しません」と語ることは、超越ではない。むしろ、歴史から目を逸らすための安全地帯に引きこもっているだけだ。
家父長制、父権制に棹さす幼稚な日本男性悪因論
家父長制や、父権制に積極的な価値を見出さねば、世界に乗っ取られて終わるだけだろう。家父長制という言葉に忌避感を覚えるのなら、家族・国家・共同体には責任を負う主体が必要だと言いかえてもいい。つまり、男性的な力の解放が今求められている。庶民レベルでも切実な声が上がっている。例えば、外国人問題、移民問題や排外主義、女性優遇政策問題など、すべて今までのリベラルが日本の男が悪いと一笑に付してきた問題である。強者のメンタリティ、パワハラ、セクハラ、権力勾配…。次々と空疎な造語を捏造し、我々を縛り付けている。そして、注目すべきは中高年だけではなく、実は今の若い人ほど保守であるということだ。つまり、今の若い人たちは、父権的な指導を内心で渇望しているのだが、世間がリベラルなので言いたいことが言えないのである。この事実から目を背けて、まだ男が悪い、男が魅力的ではないとするのは、戦前の問題を日本の男性性に帰着させて日本男性を叩きたいリベラル的な洗脳によるメンタリティに起因しているのだろう。もはや宗教である。世界の男性は日本男性よりマシだという前提に立つ議論ばかりだが、世界では男性が女性はレイプするのは当たり前だからレイプ問題があそこまであがったし、女性差別があまりにひどいからこそ、女性優遇政策が取られてきたことを失念している。この前提を考慮しない議論はすべて、現実的にまったく意味がない小学生未満の戯言ということだ。権力のある日本男性を叩けば良い、日本の男性オタクを叩けば良い…という態度だからこそ、どんどん見放され続けることに気付けないのは、単なる愚か者以外の何者でもない。
ニュートラルは現在のリベラルに回収されるだけ
そう嘯きつつも、彼らは自分を「どちらの陣営にも属さない知性」と考えている。しかし、残念ながら彼らが庶民に受け容れられることはない。あるとすれば、上からおこぼれをいただいて小躍りするだけだろう。今のリベラルと同じ顛末になるだけだ。「どちらにも責任を負わない観客」であることを、知性と取り違えているだけである。頭が悪いから左右超克どころか、左右のどこにも入れない、弾き者にされているだけなのを、自分たちは超越してと粉飾して自己防衛しているだけだ。それだけの学問を理解していないのだから、弾かれて当然だ。自分が理解できないのを相手のせいにしているのなら、それは子どもと同じである。そして、マッチョイズムを忌避しつつも、マッチョイズムを嘲笑い自分たちがマッチョイズムに羨望の眼差しを向ける。要は、捻くれているのである。とっとと身体を鍛えれば良いだけなのにだ。そんなことだから、いつまでも嫌われ続けるのである。
ニュートラルという勘違いは現実逃避
冷戦後、人々は「国家より個人」「共同体より自由」「責任より権利」という価値観を知性と呼んだ。その時代には、それでよかったのかもしれない。しかし、歴史は終わらなかった。国家は再び前面に現れ、文明は再び衝突し、共同体は再び人間の生存基盤になりつつある。にもかかわらず、いまだに頑なに「私はリベラルでも保守でもありません」と語る人々は、自分が歴史の外側に立っていると思い込んでいる。しかし、歴史の外側に立つ者など存在しない。彼らは中立なのではない。終わった時代の常識を、中立と勘違いしているだけなのである。
