私服の時代に、なぜ人はもう一度制服を作るのか
今日も違和感を見つけた。
コンビニで高校生たちを見た。
制服ではなく、私服だった。
でも、その私服がどこか制服のように見えた。
同じ服を着せられているわけではない。
学校に指定されたわけでもない。
誰かに、この服を着ろと言われたわけでもない。
それぞれが自分で選んでいるはずである。
なのに、全体としてはひとつの制服のように見えた。
完全に同じではない。
本人たちにとっては、かなり細かい差があるのだと思う。ブランドも違うかもしれない。サイズ感も違うかもしれない。靴のモデルも、髪の作り方も、本人たちの中ではちゃんと違うのだと思う。
でも、遠目で見ると、ひとつの空気にまとまっている。
そこで思った。
私服の時代に、人はなぜもう一度、自分たちで制服を作るのか。
これは、最近の若者はみんな同じだという話ではない。
むしろ、制服というものが本来持っていた機能が、形を変えて私服の中へ戻ってきているのではないか、という話である。
制服は、個性を消すためだけの服ではない
制服というと、まず不自由の象徴として語られやすい。
学校が決める。
生徒は着る。
スカート丈や靴下や髪型まで管理される。
個人差は消される。
身体が同じ規格へ寄せられる。
たしかに制服には、そういう面がある。
制服は、個人を完全に自由にはしない。
むしろ、個人差をある程度消す。身体を同じ制度の中に置く。所属を分かりやすくする。学校や会社や組織のルールを、身体に着せる。
その意味で、制服はかなり強い装置である。
しかし、制服にはもうひとつの側面がある。
それは、選ばなくていいという安心である。
毎朝、何を着るか考えなくていい。
服で失敗しなくていい。
自分だけ浮く心配が減る。
経済格差が少し見えにくくなる。
所属が分かる。
場に入るための最低条件がすでに満たされている。
制服は不自由である。
でも、その不自由には快適さもある。
これは少し言いにくいことだが、人はいつも完全な自由を求めているわけではない。
自由は、疲れる。
何でも選べる状態は、楽しい。
しかし同時に、すべてを自分で決めなければならない状態でもある。
制服は、その負荷を引き受けてくれる。
今日の自分をどう見せるか。
どの服が正解か。
場所に合っているか。
浮いていないか。
変に見られないか。
そういう判断を、かなりの部分で省略させてくれる。
だから制服は、抑圧であると同時に、保護でもある。
ここを見落とすと、なぜ人が私服の中にもう一度制服を作るのかが見えにくくなる。
昔の制服は、外から与えられていた
昔の制服は、かなり分かりやすかった。
学校の制服。
会社のスーツ。
部活のジャージ。
店員のユニフォーム。
不良の服装。
ギャルの服装。
バンドマンの服装。
オタクの服装。
学校の制服や会社のスーツは、制度から与えられる。
着るべき服がある。
ふさわしい服がある。
場に入るための服がある。
そこには明確な外部がある。
学校。
会社。
地域。
先輩。
雑誌。
共同体。
自分の外側にあるものが、この場ではこういう服を着るものだと教えてくる。
若者文化の制服も同じである。
明文化されていなくても、共同体の中には暗黙の型がある。
この街ではこれがかっこいい。
この先輩たちはこう着ている。
この雑誌を読んでいる人はこの感じ。
このライブハウスに行くならこの服。
このクラブならこのノリ。
それは学校の制服ほど強制的ではない。
でも、かなりはっきりした圧力を持っていた。
自分がどこに属するのか。
それを服が示していた。
昔の制服は、外から与えられるものだった。
もちろん、自分で選んでいる感覚はあったと思う。
でも、その選択肢は地域や共同体にかなり縛られていた。
どこで生まれたか。
どの学校にいるか。
どの先輩を見るか。
どの雑誌を読むか。
どの店に行けるか。
そうした環境が、服の選択肢を作っていた。
制服は、外側から身体へやってきた。
与えられた制服には、反抗できた
昔の制服は、外から与えられていた。
だからこそ、そこには反抗の余地もあった。
制服をそのまま着ない。
スカート丈を変える。
ズボンを太くする。
シャツを出す。
ボタンを開ける。
学ランを改造する。
茶髪にする。
ピアスを開ける。
指定外の靴を履く。
カバンを潰す。
どれも、制度に対する小さな反抗だった。
もちろん、今見ると単純な不良文化や校則違反として処理されるかもしれない。
でも、身体の上ではかなりはっきりした意味を持っていた。
学校が決めた服を、自分の身体の側へ引き戻す行為である。
着せられた制服を、そのまま受け取らない。
与えられた形を少し崩す。
制度の服に、自分の癖を入れる。
そこには、分かりやすい敵がいた。
学校。
校則。
先生。
親。
地域。
世間。
だから反抗もしやすかった。
外から着せられたものなら、外へ向かって抵抗できる。
制服を改造することは、自分の身体を取り戻すための、かなり直接的な方法だった。
茶髪もピアスも、ただのおしゃれではなかった。
それは、制度に管理された身体に、自分の意志を少し戻すための記号だった。
もちろん、それもまた別の型になっていく。
反抗のスタイルも、広がれば制服になる。
短ラン、ボンタン、ルーズソックス、茶髪、ピアス。
それぞれの時代に、それぞれの反抗の型があった。
だから昔が純粋だったと言いたいわけではない。
ただ、昔の反抗には、外側に向かう分かりやすさがあった。
制服がある。
校則がある。
先生がいる。
だから、それを少し崩す。
敵が見えていた。
しかし今の制服は少し違う。
誰かに着せられたわけではない。
自分で選んだ服である。
自分で保存した画像。
自分で選んだブランド。
自分で買った靴。
自分で決めた髪型。
だから、それに反抗するのが難しい。
外に敵がいない。
校則もない。
先生もいない。
誰かに強制されたわけでもない。
なのに、なぜか似ていく。
ここが現代の怖さである。
与えられた制服には、反抗できた。
でも、自分で選び取った制服には、反抗しにくい。
なぜなら、それは自分の好みの顔をしているからである。
今の制服は、内側から立ち上がる
今は少し違う。
誰かが明確に命令しているわけではない。
学校が指定したわけでもない。
親が決めたわけでもない。
先輩に着せられたわけでもない。
雑誌だけが正解を提示しているわけでもない。
スマホを開けば、服の選択肢は無限にある。
ブランドもある。
古着もある。
ファストファッションもある。
海外通販もある。
メルカリもある。
知らない誰かのコーディネートもある。
一見すると、かなり自由である。
昔よりも、服を選ぶ環境は開かれている。
場所に縛られにくい。
地域差も薄い。
雑誌を買わなくても情報が入る。
海外のスタイルにも触れられる。
高い服だけでなく、安い服でもそれっぽく作れる。
それなのに、人は似ていく。
ここが面白い。
昔は、外側から制服を着せられていた。
今は、自分で選んでいるつもりで、結果的に制服を作っている。
この違いは大きい。
現代の制服は、外から命令されるものではない。
内側から立ち上がる。
毎日見ているもの。
なんとなく保存した画像。
友人の服装。
流れてくる動画。
好きな人の投稿。
店のマネキン。
街で見かけた誰か。
そういうものが少しずつ自分の中に入ってくる。
そしていつの間にか、自分の好みになる。
誰も命令していない。
でも、自分の中でこれはあり、これはなしという感覚が育っている。
現代の制服は、その感覚から生まれる。
自由は、思ったより重い
自由に服を選べることは、いいことである。
それは間違いない。
学校の制服や厳しい校則から解放されることには意味がある。
性別によって服を決められないことにも意味がある。
自分の身体や気分に合う服を選べることにも意味がある。
ただ、自由は思ったより重い。
何を着てもいいということは、何を着るかを自分で決めなければならないということでもある。
制服なら、責任は制服の側にある。
学校が決めた。
会社が決めた。
場が決めた。
みんな着ている。
だから、自分のセンスが直接問われにくい。
でも私服は違う。
その服を選んだのは自分である。
変に見えたら、自分の選択の問題になる。
浮いたら、自分の判断の問題になる。
安っぽく見えたら、自分の見せ方の問題になる。
気合いが入りすぎて見えたら、それも自分の問題になる。
自由は、評価を個人に返してくる。
だから人は、自由の中で安全圏を探す。
本当に何でもいいわけではない。
その場に合う服。
友人関係に合う服。
年齢に合う服。
身体に合う服。
価格に合う服。
写真に残ってもおかしくない服。
変に意味を持ちすぎない服。
そういうものを探す。
結果として、私服は制服化していく。
これは、若者が弱いからではない。
自由が重いからである。
服は自己表現である前に、責任である
ファッションは自己表現だと言われる。
たしかにそうである。
服には、その人の好みが出る。
欲望が出る。
不安が出る。
距離感が出る。
所属が出る。
反抗も出る。
以前、ファッションは自己分析ではないかと書いた。
服を選ぶ時、人は単に似合うかどうかだけを考えているわけではない。
強く見られたい。
静かに見られたい。
知的に見られたい。
普通に見られたい。
普通から少し外れたい。
でも変だと思われたくない。
そこには、自分の欲望と不安がかなり出る。
ただ、最近はもう少し違う感覚もある。
服は自己表現である前に、責任でもある。
自分で選んだ服は、自分の人格の一部として読まれる。
この人はこういう人なのだ。
こういう空気を好む人なのだ。
こういう場所に属したい人なのだ。
こういう見られ方を望む人なのだ。
服は、こちらが思っている以上に多くのことを勝手に語る。
だから、服を選ぶことは怖い。
自分ではただ無難な服を着ているつもりでも、他人には何かのサインとして読まれる。
自分では少し個性的な服を選んだつもりでも、誰かには頑張りすぎに見えるかもしれない。
服は、黙っていない。
着た瞬間に、何かを語り始める。
だから人は、語りすぎない服を選ぶ。
ここにも制服化の理由がある。
現代の私服制服は、何かを強く主張するためではなく、余計なことを語らせないために選ばれているのかもしれない。
制服は、失敗を個人から切り離してくれる
制服の良さは、ここにもある。
制服は、失敗を個人から少し切り離してくれる。
似合わないとしても、それは制服だから仕方ない。
地味に見えても、それは制服だから仕方ない。
みんな同じだから、自分だけの問題ではない。
制服は、個人の選択を隠す。
だから安心できる。
私服は逆である。
選択が見える。
何を選んだか。
何を選ばなかったか。
どこまで気を使ったか。
どこで諦めたか。
どれくらい自分を見せたいのか。
そういうものが、全部にじむ。
だから人は、私服の中にも制服を作る。
失敗の責任を、自分ひとりで背負わなくていい形を探す。
この服は今っぽい。
このシルエットなら外していない。
この色なら無難。
この靴なら大丈夫。
この髪型なら浮かない。
それは、個性の放棄ではない。
責任の分散である。
制服には、責任を外へ逃がす機能がある。
私服の制服化にも、同じ機能があるのだと思う。
布なのに、人間を支配しすぎる
前に、服って布のくせに人間支配しすぎやろ、という記事を書いた。
服はただの布である。
でも、その布ひとつで、人は強く見えたり、弱く見えたり、浮いたり、馴染んだりする。
スーツを着ると態度が変わる。
制服を着ると役割が変わる。
黒い服を着ると距離感が変わる。
ブランドを着ると見られ方が変わる。
布なのに、人間の振る舞いが変わる。
かなり変である。
でも現実に起きている。
だからこそ、服を選ぶことは意外と怖い。
制服は、その怖さを一度引き受けてくれる。
この場ではこの服でいい。
この組織ではこの服でいい。
この学校ではこの服でいい。
そう決めてくれる。
私服の時代になると、その決定を自分でしなければならない。
だから人は、もう一度制服を作る。
ただし、それは制度が決めた制服ではない。
自分たちで選び取った、安全圏としての制服である。
大人も別の制服を着ている
これは高校生だけの話ではない。
大人も別の制服を着ている。
会社員には会社員の制服がある。
経営者には経営者の制服がある。
クリエイターにはクリエイターの制服がある。
ファッション好きにはファッション好きの制服がある。
ミニマリストにはミニマリストの制服がある。
ラグジュアリー好きにはラグジュアリー好きの制服がある。
スーツのように分かりやすいものもある。
でも、もっと見えにくい制服もある。
黒い服ばかり着る。
無地を選ぶ。
ロゴを避ける。
高そうに見えない高いものを選ぶ。
分かる人だけ分かるブランドを選ぶ。
自然体に見えるように整える。
それもまた、制服である。
私も例外ではない。
黒を着る。
似たシルエットを選ぶ。
分かる人には分かるものを選ぶ。
でも、あるラインからは外しすぎない。
自分らしさだと思っているものの中にも、安全圏はある。
だから、高校生たちが似た服を着ていたことを、外側から笑うことはできない。
自分もまた、違う形で制服を着ている。
現代の制服は、選び取る安全圏である
昔の制服は、外から与えられた。
学校。
地域。
先輩。
雑誌。
共同体。
そこには、外側からの圧力があった。
だから、反抗も外側へ向けることができた。
制服を改造する。
髪を染める。
ピアスを開ける。
指定外の靴を履く。
校則の隙間を探す。
外から与えられた服に、自分の痕跡を入れることができた。
今の制服は、もっと内側にある。
SNSを見ながら、街を見ながら、友人を見ながら、好きな人を見ながら、自分で選んでいるつもりで、少しずつ内面化していく。
誰にも強制されていない。
でも、結果的に似ていく。
この怖さは、かなり現代的である。
命令がないのに、整っていく。
規則がないのに、揃っていく。
制服がないのに、制服化する。
それは不自由というより、安心として経験される。
浮かないから安心。
外さないから安心。
同じ空気に入れるから安心。
服で余計な説明をしなくていいから安心。
現代の制服は、強制ではなく安心のために選ばれる。
だからこそ、強い。
外から押しつけられた制服なら、脱げるかもしれない。
でも、自分で選び取った安全圏としての制服は、なかなか脱ぎにくい。
それを脱ぐことは、服を変えるだけではない。
自分が所属している空気から少し外れることでもあるからだ。
昔の若者は、外から与えられた制服を改造することで反抗した。
今の若者は、自分で選んだ制服の中で、どこまで外れるかを探している。
反抗の相手が、外側の制度から、自分の内側にある安心へ移っている。
結論
コンビニで見た高校生たちは、私服を着ていた。
でも、その私服はどこか制服のように見えた。
最初は、それが少し不思議だった。
なぜ、これだけ自由に服を選べる時代に、人はまた似ていくのか。
でも考えてみると、それは個性が消えたからではないのだと思う。
むしろ、自由に選べる時代だからこそ、人はもう一度制服を作っている。
昔の制服は、外から与えられるものだった。
学校。
地域。
先輩。
雑誌。
共同体。
そこから、こう着るべきだという空気が来た。
そして、その制服には反抗できた。
スカート丈を変える。
学ランを改造する。
茶髪にする。
ピアスを開ける。
指定外の靴を履く。
外から着せられたものなら、外へ向かって抵抗できた。
しかし今の制服は、自分で選んでいるように見える。
誰にも強制されていない。
それでも似ていく。
ここに現代の怖さがある。
現代の制服は、外から着せられるものではない。
自分で選び取る安全圏である。
そしてたぶん、それは高校生だけの話ではない。
私たち大人も、それぞれの場所で、それぞれの制服を着ている。
自由に見える服の中で、できるだけ傷つかない形を選んでいる。
服は自己表現である。
でもその前に、社会の中で傷つかないための装置でもある。
だから、私服の時代に、人はもう一度制服を作る。
それは個性の敗北ではない。
自由が重くなりすぎた時代に、人が自分を守るために選び取った、かなり繊細な防御なのだと思う。
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今回のように、コンビニで見た服装から、今の時代の不安や防御が見えてくることがある。
そういう小さな違和感を、これからも拾っていきたい。
明日も違和感を書きます。
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