ストロベリーフィールド:第十四幕 交差する過去と未来
ライラは、土曜日が大嫌いだ。
楽しそうな家族連れやカップルが行きかう姿は、自分がいかに孤独かを思い知る。ようやくたどり着いた村は、そんな楽しそうな人々とは真逆の、どこから見ても陰気な感じの村だった。
花一輪も咲いていない、グレーと茶色の村だ。春だというのに街路樹の木々は、葉の一枚さえつけてはいなかった。
フラワーバレーという村の名前を聞き花に溢れた村を想像していただけに、どうしてこんな名前を付けたのだろうかと不思議に思いながら、ライラは多くの人が行き交う広場のカフェで生まれて初めてコーヒーというものを飲んでいた。
それにしてもこれが一杯で1000グランドルなんて……。
ライラにとっては、それはあり得ないほどばかばかしい価格だった。
1000グランドルをウエストエンドで換金すれば、ひと月は食事に困らない金額だった。
ライラは、オープンカフェの端に席を取り、背の高い時計塔を見つめながら、これからの計画を頭に何度も思い描いていた。
この村の対岸にある東の果ての国、グリーングラス国によってライラは大切なもののほとんどを奪われた。そしてこの村は、自分がいた祖国と同じように東の果ての国との戦いに負けたのにもかかわらず、今では中立地域となり、のうのうとかつての敵国と貿易をして、すっかり豊かになっている。
今やグリーングラス領となったライラの故郷、ウエストエンドともかなり前から取引をしていて、わずかな金で仕入れたウエストエンドのものを法外な値段で売りさばき、人々が幸せな生活を楽しんでいるという。
初めて味わったコーヒーの味は、今のライラの気持ちと同じように苦く、少しも幸せな気分を感じることは出来ない味だった。ライラが苦々しい思いで目を閉じると、そこら中に響く楽し気な会話や笑い声に交じって記憶の彼方で自分を愛してくれた家族の笑顔が蘇ってくる。ライラは、それを振り払うかのように左右に首を大きく振ると、ため息をついた。
……まったく、こんな不味いものにひと月分の食費を払うなんて、頭がどうかしている。飲む気が失せる黒い液体の何が美味しいのよ。
炭を焦がした水なのかしら……。
ライラは心の中でそう呟くとカップをソーサーに戻した。カップの中には、まだ黒い液体がたっぷりはいっている。眉間にしわを寄せながらコーヒーを口にしたライラの目の前を、ショッピングを楽しむカップルや、ベビーカーを押す母親が通り過ぎて行った。間もなく昼時とあって、あたりからは美味しそうな香りが漂い始めている。
ライラは朝から何も食べていなかった。けれど、これからのことを考えると、このカフェのメニューにあった一番安いコーヒーを注文するのがやっとだった。隣のテーブルに色鮮やかな野菜が添えられたオムレツとガーリックトーストの香りが漂ってきて、ライラは思わずそちらを見つめた。
「お待たせしました。こちら、本日のランチの、キノコ入りオムレツと新鮮野菜のセットです」
ウエイトレスがにこやかに食器を並べると、隣の年配の夫婦らしき二人は、まぁ美味しそうと言いながら、フォークを手に取った。
その様子を食い入るように見つめていたライラは、一瞬その年配女性と目が合い、思わず俯いてしまった。
隣のふたりが、何やらこそこそと話をしだしたのを気配で感じたライラは、飲みたくもない苦くて黒い液体を一気に飲み干し席を立つと、テーブルの上にコーヒーと僅かなチップを置き逃げるように店を出た。
店の入り口の黒いボードには、《本日のランチ:キノコのオムレツ、新鮮野菜、コンソメスープ、デザートのセット、たったの3000グランドル》と、書かれている。
ライラは、また大きく溜息をついて黒いボードを見つめ呟いた。
「春にキノコってあり得ないでしょ。乾燥したキノコなんて……」
太陽の恵みの詰まった乾燥キノコにたくさんの栄養があることを十分に知るライラは、負け惜しみを言いながらカフェから遠ざかるしかなかった。お腹は極限まで空いている。
けれど、どうやったって、あの金額のものは自分には分不相応だ。
ライラは噴水のところまで歩いて来てベンチに腰掛け、目を閉じて出来立てのパンを想像した。
ユラ神様は、いつもライラの作るパンを世界一のパンだと絶賛してくれていた。目頭が熱くなり、悲しさが空腹感を増幅させる。いや、空腹が悲しみを増幅させたのかもしれない。ふと、どこからか香ばしくパンの焼ける香りが漂っていることにライラは気が付いた。
お腹がすきすぎてとうとう幻覚ならぬ幻臭を感じ始めたのかとライラは思ったが、その香りはどんどん強くなってくる。さっきのランチのパンの香りではない。全粒粉パンが焼きあがる懐かしい香りだった。
ライラは立ち上がり、その香りに誘われるように歩き始めた。
広場にはパン屋は見当たらなかった。ライラが辺りを見回しながらしばらく広場を進むと、小さな靴屋の角を通り過ぎたところで、香りが急に薄れた。もう一度靴屋まで戻り、その手前に細い路地を見つけると、その大きな体をライラはよいしょとねじ込んだ。
香りは確かにその路地の奥から漂って来ていた。カニのような横歩きで細い路地を少し進むと、すぐに道は広くなった。予想通りに、その道の先に古くからあるようなパン屋の看板がライラの目に飛び込んできた。
ライラはたまらず店まで駆け出し、小さな店に入って中を覗いた。
「いらっしゃい。只今、焼き立てだよぉ!」
愛想のいい、ライラと同じような体形をした女性がライラに微笑みかける。異国で、笑顔で出迎えられることを予期していなかったライラは、驚きながら小さな声で尋ねた。
「あの、これ、全粒粉……パン」
「そうだよ。よく判るねぇ。うちのパンは、百年ほど前のひいじいちゃんの代からずっと、ウエストエンド産の全粒粉さ。いろんなの使ったけどねぇ。ウエストエンドの粉に勝るものはないよ。味見するかい?」
ライラは、思わず頷いた。店番の女性は、ガラスケースの上に紙ナプキンを広げると、その上に薄くスライスしたパン一切れと小さな瓶に詰めたジャムを置いた。
ライラは、それを見つめながら、自分の祖国のものが一番だと言われたことに胸が熱くなるのを感じていた。
「さあ、どうぞ。絶対旨いよ!」
店番の女性は、ライラに軽くウインクしてみせた。
ライラは、パンを手に取り、何もつけずにそっと口に運んだ。ひと噛みしただけで、懐かしいウエストエンドの香りがライラの口の中と、胸いっぱいに広がっていく。
「ね、美味しいでしょ。そのジャムもつけてみてよ」
ライラは言われるがまま、パンの端にジャムを付けて、また一口、そっと口に含んだ。甘く爽やかな味だった。オレンジに似ているが、もっと甘い。
甘い香りが口から鼻腔にかけて通り抜けていく。全身に電気が走ったようにライラは幸せな気持ちになった。
「そんなに美味しそうな顔されちゃ、あたしゃ、嬉しくて仕方ないね」
「あの、これ、ひとつ、おいくら……でしょうか」
「一つ丸ごと大サービスで、800グランドル!」
ライラは、さっき飲んだ黒い液体に出した1000グランドルが惜しくて腹が立った。あんな不味くて高いものに出すんなら、これを買えばよかった。そう思いながら、肩を落とした。
その様子を見ていた店番の女性は、少し不憫そうな顔になってライラを見つめると、顔よりも大きなボールのようなパンを、ナイフでさっくりと四等分した。
「これなら、200グランドル!」
それを聞いたライラは、ぱあっと明るい顔になり、ポケットから小銭をかき集めた。ライラがなんとか足りたぴったりのお金を店番の女性に渡すと、店番の女性は紙にくるまれたパンをライラに渡してから、ショーケースに置かれた小ぶりのジャムの便に蓋をしてライラに差し出した。
「このジャム、蓋を開けちまって半分しか残ってないけど、もう消費期限ぎりぎりだからさ、持っていきなよ」
ライラは驚きながらも恐る恐るそれを受け取った。貧しい身の上だと思われたのだろうか。今は確かにそうではあるのだが、かつては何不自由なく暮らしていたライラは、自分が施しを受けたもかもしれないという事実に、軽いショックを受けていた。
その表情を見た店番の女性は「元気だしな!」と言って突然パンパンと音を立ててライラの背中を叩いた。そのことにライラは、またも驚いて目を丸くした。この中立国の人々は、人との距離感が近すぎるのだ。
さっきの広場でも、見たことのない肌の色や髪の色、見たことのない顔形の人が行きかっているのを、不思議な気持ちで眺めていた。
外から来た人々を受け入れる心がひときわ大きいのかもしれないとライラは思った。
それにしても、この距離感は近すぎはしないだろうか。
ライラがびっくりした顔で固まっていると、店番の女性がまた人懐こい笑顔で話しかけた。
「あんた、名前は?」
「ライラ…です」
「ライラ、あんたさ、もしかしてウエストエンドの人間だろ? もっと堂々としなよ。もう、ユラ神の支配は終わったんだろ? 新しい時代が始まってんだよ!
うちの旦那ね、パンパスグラスの軍人だったんだよ。まあ、二等兵だったけどね。それでも、命があって、生き延びてくれて、こうやって美味しいパンを焼けるようになったんだ。何の戦績もない、逃げてばかりの卑怯者だから表彰もされないって皆は小馬鹿にするけれどね、それはあの人が誰も殺さなかったってことだと思うことにして、あたしゃ喜んでるよ。
過去をずっと見続けてさ、後ろばっか見て、あの国のせいだとか誰の責任だとかいつまでも言い続けたり、あの頃はよかったとか、あの時はこうだったとか、そんなこといつまでも言ってたらほんとカッコ悪いよ。
あんたこれからも生きてくんだよ。もっと未来を見な!自分の国はね、自分たちで作るんだ。自分の家族を作るようにね。国の隆盛も衰退も他の国だけのせいなんかじゃないさ。自分たちが蒔いた種なんだ。いつまでも被害者面して過去を引きずって生きてんじゃないよ!」
その悪意のない言葉に衝撃を受け、ライラは言葉が出なくなった。
《ユラ神の支配は終わったんだろ?》
その言葉は、ライラには理解不能だった。
自分たちは、支配などしてきたつもりはなかったのだ。けれど、他の国からは、そう見えていたという事なのだろうか。
「そのジャムね。決して施しなんかじゃないよ。あんたの為の元気の元さ。だってさっき、あんたいい顔してたもん。笑顔でいるといいことがいっぱいやって来るんだよ」
ライラは、自分の瞳から大粒の涙が出そうになるのを感じて上を向いた。
そうだ、自分はいつも笑っていた。食べるのが大好きで、家族が大好きで、お掃除もお洗濯も大好きだった。
怒りと恨みの念に取りつかれたようにユラ神の末裔を探し続けていたライラは、ろくに住む場所も食べる場所もない放浪の生活を何年も送り続け、小さな手掛かりを繋げながらこの村にたどり着いた。そのために綿密な計画を何年も前から立てて来たのだ。
それなのに、こんなパン一切れで、食欲に負けるなんてどういうことだ。
自分のしていることは、その程度の愚かなことだということなのだろうか?
ライラにはまだその答えは出なかった。けれど、引き返すには遠くまで来過ぎている。
店番の女性は、少し声のトーンを和らげると、微笑みながらライラに再び声をかけた。
「それとね。人からなんかもらって助けられてほんとに嬉しい時はさ、笑顔でありがとうって言うんだ。じゃないと、あげた側が不安になっちまうよ。
何だい、さっきの辛気臭い顔は。自分のことを卑屈に思っているとさ、施しを受ける、イコール、恥、だと思うんだよ。受けた恩を忘れなきゃ、たとえ施しだとしたってどんどん笑顔で感謝して受けとるべきだ。
感謝もせず、もらって当たり前だ、無理やり渡されたとか思って受け取ったら、私は自分の力だけで生きてますなんて考えるようになる。そういう奴に限って、最後になって助けてくれって言ってくるんだ。そん時に気が付いても、もう遅いんだよ。
感謝もせず自分の力だけでやって来たって言うんなら、これからも自分一人でどうぞって、もう誰も助けやしないさ。何も難しい事じゃない。小さい子がお菓子もらった時みたいに喜べばいいだけさ。ありがとう!ってね。子供は無駄なプライドが無いから素直に喜べんだよ。
あんたのその無用で無駄なプライドは、さっさと捨てたほうがいいよ」
初対面なのにここまでずけずけモノを言う人間にライラは初めて出会った。この国の人々の常なのか、それともこの人特有のものなのか、それは分からないが、とにかく、喧嘩を売られていると思う人だっているかも知れない勢いなのだ。
「んじゃ、練習してみるか。はい、これも持っていきな、ライラ」
そう言うと店番の女性は大きな菓子パンをライラの目の前に差し出した。
突然のことに面食らったライラは、一瞬無言で固まってしまったのだが、辛抱強く掌を上にしてライラの方に向けたまま、目の前で次の言葉を待っている様子の店番の女性を見て、ライラは、ぷっと噴き出した。そして、呆れたような表情をした後、微笑んでみせた。
「ありがとう……」
「よっしゃあ! 69点」
「あの……、減点、理由は?」
「ああ、声が小さいのでマイナス10点と、間がちょっとあいたのでマイナス10点、それから、笑顔がもう少し弾けられそうなのでマイナス10点。残りの1点は、あたしの名前を呼んでいないこと。
この店の名前が、あたしの名前」
そう言うと、店番の女性は、看板を指さした。よそ者のライラには、外国語は難しかったのだが、ユラ神の末裔を探し出したいという一心で、十年近く幾つもの国を渡って言葉を学んできていた。ライラはその文字をゆっくりと声にした。
「ア、ミ、カ……。ピ、ス、ト、リ、ナ……。ありがとう。アミカ」
「アミでいいよ」
そう言うと、アミはウインクをまたライラに投げたのだが、ライラにとってウインクは異文化過ぎて、どうにも慣れることができなかった。片目を閉じることにどんな意味があるというのだろうと、ライラには不思議で仕方が無かったのだ。
もう一度お礼を言って店の外に出た後、入り口の脇に殴り書きしてある紙が貼ってあることにライラは気が付いた。
《急募! パン職人 時間:朝4時から6時》
ライラは、ゆっくりと文字を読み終えると急いで店内に走って戻り、すごい勢いでアミに近づいて行った。
「あの、パン、作れ、ます。わたし、パン、作る、ダメ、か?」
アミがライラの勢いに押されて、後ろに下がっていたところへ、奥から焼き立てパンを幾つも乗せたトレーを抱えた筋肉質で華奢な男が出て来た。
「どうした、アミ」
「いや、あの、この人、ライラって言うんだけど。働きたいみたい……で。だけど……どうする?」
言葉のニュアンスが分かったライラは、今度は筋肉質で華奢な男の前に立ちはだかった。
「パン、作る! 作りたい! わたし、働く! いいか?」
その言葉と身体の大きさに圧倒され、男はアミと共に後ずさりした。
「ライラさぁ、急にキャラ変わるんだもん、びっくり。
ね、悪い人じゃなさそうなんだけどさぁ……あんた、どうする?」
ライラは、食い入るような目つきで男を見つめ続けた。
しばらく考え込んだ後、男は、レジの横にあった紙とペンを取り出し、条件をいくつか紙に書き始めた。
一、勤務時間:だいたい朝4時から6時(給料は2時間分のみ)
二、勤務日:だいたい週3日くらい
二、勤務内容:パン作りのみ(店頭販売は朝7時からのため、対応は無し)
三、時給700グランドル
四、給料は週払い。毎週金曜日にまとめて支払う
五、遅刻したら、即解雇
六、パン不味ければ、解雇
七、パンを勝手に食べたら、解雇
八、嘘ついたら、解雇
「ま、こんなもんでいいだろ。この条件が飲めるんなら来週から来てもいいよ。俺、うまいパンを作るのに命かけている割には、虚弱体質でね。
去年大病してからは、気が向いたときしか作らねえから客足が遠のいてんだよ。うまいパン作れるってんなら、俺の舌で確かめてやるから、閉店後、夜7時半ごろにテストしてやるからまた来てくれるか。明日は休みだからな。
ま、俺にはかなわないだろうけど、合格できたら月曜から契約な。朝4時に来な」
「良かったね、ライラ!」
アミが笑って抱きしめてきたので、ライラはようやく雇ってもらえたことを理解して、一緒になって喜んだ。実際のところ、男の話は長すぎて、半分くらいしかライラには分からなかった。
書かれていた条件は、異国の言葉の上に文字が汚すぎてライラには数字のこと以外は何のことかさっぱりだった。唯一分かったのは、三という数字の下に書かれた《700グランドル》という言葉だった。それはおそらく時給だろうとライラは想像していた。
ライラは嬉しかった。ウエストエンドにいた頃は、一日500ピークス稼ぐのが精いっぱいだったからだ。この国の貨幣に換算すれば50グランドルという事になる。その十倍ものお金を一時間で稼ぐことが出来る。元々仕事が大好きなライラは興奮がなかなか治まらなかった。
「ありがとう、ありがとう、アミ……と……」
ライラは、筋肉質で華奢な男を再び見つめた。
「俺は、トリーゴ」
「ありがとう、アミ、トリーゴ!」
トリーゴは、小さく「おう」とだけ言うと、頭を掻きながら、この紙どこに貼ろうかと呟きつつ奥の部屋へと戻って行った。
「朝4時は、あたしいないけど、月曜は、あたしも6時には来るからさ。遅刻したらクビだよ。テスト頑張ってね」
「月曜、朝、4時。遅刻、クビ……」
ライラが、そう言って何度も頷く姿を見て、アミは笑いながらガラスケースの奥から手を振った。
店を出てから自分が久しぶりに笑っていたことに気づいて、ライラはまた涙が溢れ出てきそうになった。胸のドキドキは少しは治まりかけていたが、頬はまだ火照っているのが分かった。
「未来を見な!」というアミの言葉が、ライラの胸の奥深くに沈んでいく。ふとライラが隣を見ると、シャッターが閉じたままの店の一軒隣に、八百屋が通路いっぱいに野菜を積み上げているのが見えた。
ライラは父親が作っていた野菜を思い出し、思わず八百屋の方、来た方向とは逆側へ進んだ。その八百屋には、カラフルな野菜が並んでいたが、どれも収穫してから一日は過ぎていそうなものばかりだった。いつでも父の作ったもぎたての野菜をただで食べていたライラには、箱の中の野菜に添えられていた紙に書かれた野菜の金額は信じられないものだった、
この国と、野菜貿易しておけは、今頃は……などとライラがまた後ろ向きな考えを始めていると、十歳くらいの女の子が、自分の背丈の半分はあろうかという花束を抱えてライラの隣を背を向けて通り過ぎた。
今日フラワーバレーに到着して、初めて見た花だった。少女が通り過ぎた後に漂ったライラックの香りが、ライラの記憶の奥にあった何かを目覚めさせようとしていた。
どこかで嗅いだことのある香り……。
ライラは、遠ざかる少女の後姿を見つめ、自分の記憶の片隅にあった小さな出来事が頭の中でぱっと弾けるのを感じた。
小さなフラッシュバックは、やがて大きな線となりライラの頭の中で繋がり始めた。ライラの知る少女の写真の記憶が、ついさっきすれ違った少女の姿に重なる。
ライラは手に持っていたパンを強く握りしめると、少女を見失うまいとその後を追うように来た道を戻り始めた。大通りの道に沿った木々は全ての葉を落としている。少しずつ日が暮れようとしている通りには、冷たい風が吹き込んでくる。
そうしてライラの前を行く少女は、大きな屋敷の前にたどり着くと、暫し立ち止まって、空を仰いでいるように見えた。
多くの馬車の列に、屋敷の奥から聞こえる明るい音楽、楽しげな笑い声、全てがライラの神経を逆撫でする。館の塀の中に吸い込まれる少女の背中を通りの反対側から見送った後、ライラは苦々しい表情で握りつぶしていたパンを食いちぎった。
ついさっきまで未来に向かおうとしていたライラの心は、過去へと向かい、再び逆行し始めていた。
(第十五幕へ続く)
