【創作哲学】キャラクターを「動かす」のではなく、認知モデルを走らせる
※6月28日に実際の認知モデルの作り方の詳細についての記事を投稿しましたので、そちらもご覧いただけるとより具体的に理解していただけるかもしれません。
実際にキャラクターを作る手順は、こちらの記事で具体例付きで解説しています。
まずキャラを作りたい方は、こちらから読むのがおすすめです。
実践編の記事はこちら
私は小説を書くとき、キャラクターを「動かしている」という感覚があまりない。
どちらかというと、その人物の認知モデルを作り、そこに環境や出来事を入力して、出力された結果を文章にしている。
つまり、私にとって小説を書くことは、物語を組み立てることというより、人物の認知をシミュレーションすることに近い。
キャラクターとは「設定」ではなく「世界の見え方」
キャラクターを作るとき、年齢、外見、口調、職業、過去などを決めることはもちろんある。
けれど、それだけではまだ人物として動かない。
私にとって一番大事なのは、その人物が世界をどう見ているかだ。
何に気付くのか。
何を見落とすのか。
何を重要だと思うのか。
何を恐れるのか。
何を欲しがるのか。
何を当然だと思っているのか。
この「世界の見え方」が分かると、その人物は自然に動き始める。
たとえば、同じ建物を見たとしても、ある人物は美しさを見るかもしれない。別の人物は権力の象徴を見るかもしれない。戦うことに慣れた人物なら、構造上の弱点や逃走経路を見るかもしれない。
同じものを見ているのに、認知するものが違う。
その違いこそがキャラクターだと思っている。
行動は結果であって、作者が直接決めるものではない
よく「このキャラならどう動くか」と言う。
でも私の場合、順番が少し違う。
まず、その人物の認知モデルがある。
そこに出来事や環境を入力する。
すると、その人物が何を認知し、どう解釈し、何を考え、何を感じ、どう行動するかが出力される。
認知
↓
解釈
↓
思考
↓
感情
↓
行動
この流れが自然に起きる。
だから、行動だけを作者が無理に決めると違和感が出る。
その人物の認知から導かれない行動は、私の中では「シミュレーション失敗」になる。
私が操作するのは人物ではなく環境
キャラクターを変化させたいときも、私は人物を直接変えようとはしない。
「ここで改心させよう」
「ここで優しくさせよう」
「ここで恋に落とそう」
とは考えない。
代わりに、その変化が起きるための環境を作る。
誰と出会わせるか。
何を失わせるか。
何を見せるか。
どんな言葉を聞かせるか。
どれくらい時間を経過させるか。
どんな失敗を経験させるか。
つまり、作者が操作するのは環境や出来事という変数だ。
欲しい変化があるなら、その変化が自然に起こる条件を逆算して配置する。
その結果として、人物が変わる。
これは「作者がキャラクターを変えた」のではなく、「その人物がその条件に反応した結果、変化した」という感覚に近い。
プロットを書く派だけど、プロットで人物を曲げるわけではない
私はプロットを書く派だ。
ただし、プロットを書く時点で、人物の認知モデルはある程度組み上がっている。
だからプロットは、人物を無理に動かすための設計図ではない。
むしろ、すでに組み上がった人物が、その環境ならどう動くかを確認した結果としてプロットを書く。
プロットの前に、頭の中でかなりシミュレーションしている。
この人物がこの環境で育ったらどうなるか。
この過去を持っていたら、現在はどうなるか。
この相手と出会ったら、何が変わるか。
この事件が起きたら、何を選ぶか。
その結果、「この流れなら自然に成立する」と思えたものをプロットにする。
だから、プロットを書くことと、人物が自然に動くことは矛盾しない。
説明が嫌いな理由
私は小説の中で説明するのがかなり嫌いだ。
理由は単純で、普通の人間は生きている最中に、自分の人生を誰かに説明しながら考えていないからだ。
人は日常の中で、
「これはこういう世界設定である」
などとは考えない。
ただ見て、聞いて、匂いを嗅いで、違和感を覚えて、過去を思い出して、勝手に連想する。
だから小説の中で作者が急に説明し始めると、その瞬間に人物の認知から外れてしまう。
私にとってそれは、シミュレーションの破綻に近い。
もちろんギャグならメタ視点も許される。
メタ視点そのものが笑いになるからだ。
でも基本的には、カメラは一人称の持ち主の頭の中に置いておきたい。
世界観は説明しなくても見せられる
世界を読者に知らせたいなら、説明するのではなく、人物が目を向けるものを増やせばいい。
たとえば、その人物が建物を見るなら、建物の何を見るのかを書く。
人の流れを見るなら、そこから何を察するのかを書く。
食事を見るなら、その食事から何を感じるのかを書く。
読者は、その人物の認知を通して世界を知る。
逆に、あまり多くのものに目を向けない人物なら、無理に説明しない。
後から別の出来事や会話やギミックで、必要な情報を自然に回収すればいい。
現実でも、人は最初から世界のすべてを説明されて生きているわけではない。
目の前の出来事を経験しながら、少しずつ世界を理解していく。
その感覚を小説でも再現したい。
小説は「体験型」になる
この書き方をすると、小説は出来事を読むものというより、その人物の認知を体験するものになる。
読者は、主人公が何をしたかだけではなく、主人公がどう世界を見たかを追うことになる。
その人物の視界に入り、その人物の思考を通り、その人物の感情に触れる。
だから、合う人にはかなり深く刺さる。
特に一人称小説では、読者にその人物の神経系を一時的に貸すような感覚がある。
身体が熱くなる。
息が詰まる。
視界が狭くなる。
胸が苦しくなる。
そういう身体反応まで起きる文章が書けたら、かなり成功だと思っている。
エロも同じ
私にとって、エロを書くことも快楽の説明ではない。
その人物が快楽をどう認知するかを書くことだ。
理性を保とうとする人物なら、快楽の中でも分析しようとする。
愛情を確認したい人物なら、相手の反応を観察し続ける。
支配されることを恐れる人物なら、身体の反応と自尊心がぶつかる。
同じ刺激でも、人格によって体験は変わる。
だから私は、快楽そのものよりも、快楽によって人格がどう揺れるかを書く方に興味がある。
まとめ
私の創作は、キャラクターを動かすことではない。
人物の認知モデルを作り、そこに環境や出来事という変数を入力し、その出力結果を観測することだ。
作者が直接人物を動かすのではなく、人物が自然に動く条件を設計する。
そして本文では、その人物の生の一部を切り取る。
小説とは、物語の説明ではなく、誰かの世界の見え方を体験するもの。
少なくとも私は、そういう小説を書きたい。
