偽物の世界
最初におかしいと思ったのは、駅前の時計だった。
午前八時十二分。
真はその数字を見ながら、横断歩道の前に立っていた。
信号が青になる。
スーツ姿の男が駆け出す。
自転車の女子高生がベルを鳴らす。
コンビニの前で老人が新聞を畳む。
いつもの朝だった。
ただ、その三分後。
真が忘れ物に気づいて駅前へ戻ると、同じ光景が繰り返された。
午前八時十二分。
スーツ姿の男が駆け出す。
女子高生がベルを鳴らす。
老人が新聞を畳む。
真は立ち止まった。
「……え?」
時計が壊れているのだと思った。
ところが、スマートフォンも八時十二分だった。
数秒後、八時十三分になる。
何事もなかったように人々は歩いていく。
真は笑った。
疲れているんだ。
そう思うことにした。
その夜までは。
*
真は二十九歳だった。
小さな印刷会社で働き、古いアパートで一人暮らしをしていた。
友人は少ない。
恋人もいない。
両親は十五年前に交通事故で亡くなった。
親戚とは疎遠だった。
別に不幸だと思ったことはない。
ひとりで食べる夕飯にも慣れていたし、静かな部屋も嫌いではなかった。
ただ、ときどき思うことがあった。
自分が突然消えても、世界は何も変わらないのではないか。
その日、帰宅した真は冷蔵庫から缶ビールを取り出した。
テレビをつける。
『本日午後四時ごろ、東京都内で――』
女性アナウンサーがニュースを読んでいる。
真は缶を開けた。
プシュッ、と音がした。
『本日午後四時ごろ、東京都内で――』
真の手が止まった。
アナウンサーがまったく同じ言葉を繰り返したのだ。
映像まで同じだった。
交差点。
白い車。
走る救急隊員。
『本日午後四時ごろ、東京都内で――』
三度目。
「おい」
真は立ち上がった。
テレビに近づく。
画面が一瞬乱れた。
砂嵐。
そして。
黒い画面の中央に白い文字が浮かんだ。
〈気づいた?〉
真は息を止めた。
次の瞬間、ニュース番組に戻った。
「……何だよ、今の」
缶ビールを持つ手が震えていた。
そして、背後から声がした。
「気づかなくてもよかったのに」
真は振り返った。
誰もいない。
*
それから世界は少しずつ壊れ始めた。
知らない人間が真の名前を呼ぶ。
死んだはずの母親に似た女性を電車で見かける。
昨日買ったばかりの本のページに、
〈読まないほうがいい〉
という文章が印刷されている。
会社で同僚に相談しても、
「疲れてるんじゃない?」
と笑われた。
「昨日、駅の時計が戻ったんだ」
「時計なんか壊れるだろ」
「ニュースが三回繰り返した」
「放送事故じゃない?」
「テレビに文字が出た」
「病院行ったほうがいいんじゃない?」
最後の一言だけ妙に冷たかった。
真は黙った。
周囲がおかしいのか。
それとも自分がおかしいのか。
その境界が、だんだん分からなくなっていった。
眠れなくなった。
食欲もなくなった。
朝になるのが怖かった。
信号機すら、自分を騙すために存在しているように思えた。
ある晩、真は耐えきれなくなり、洗面所の鏡を殴った。
鈍い音。
ガラスが割れた。
「っ……!」
右手から血が流れた。
皮膚が裂け、鋭い痛みが走る。
真は床に座り込んだ。
血。
痛み。
熱。
鼓動。
全部がはっきりしていた。
「偽物なら……」
真は呟いた。
「何でこんなに痛いんだよ」
鏡の破片に、自分の顔がいくつも映っていた。
泣いている顔。
怒っている顔。
怯えている顔。
どれが本当の自分なのか分からなかった。
*
翌朝、アパートの郵便受けに封筒が入っていた。
差出人はない。
中には一枚の紙。
〈真実を知りたいなら、午後十一時、第三地下道へ〉
行くべきではない。
そう思った。
罠かもしれない。
そもそも第三地下道という名前すら聞いたことがない。
それでも真は行った。
真実を知りたいというより、このまま何も分からず生きることに耐えられなかった。
指定された場所には、一人の少女がいた。
二十歳くらい。
短い黒髪。
白いパーカー。
「真さん?」
「誰だ」
「ユイ」
「何者だ」
「あなたと同じ」
少女は真を見つめた。
「この世界がおかしいって気づいた人」
真の胸が大きく鳴った。
「……本当に?」
「駅前の時計、三分戻ったでしょう」
真は言葉を失った。
「何で知ってる」
「私も見たから」
ユイは言った。
「この世界には継ぎ目がある」
「継ぎ目?」
「完璧じゃないの。たまに同じ時間を再生したり、人間の行動が繰り返されたりする」
「じゃあ……」
「たぶん、この世界は作られてる」
その言葉を聞いた瞬間、不思議と安心した。
恐ろしいはずなのに。
自分だけが狂ったわけではない。
それだけで、泣きそうになった。
*
二人は世界の正体を調べ始めた。
使われていない地下鉄の路線。
存在しない住所。
地図では海になっている場所にある巨大な壁。
検索すると数秒後に消える「WORLD-07」という単語。
調べれば調べるほど、現実は薄くなった。
ある日、真はユイに聞いた。
「怖くないのか?」
「怖いよ」
「そう見えない」
「怖いから一緒にいるんじゃん」
ユイは笑った。
その笑顔だけは自然だった。
真は久しぶりに、人と一緒にいて安心している自分に気づいた。
ある夜、二人は廃ビルに隠れていた。
外では彼らを探す黒い車が何台も走っていた。
真が聞いた。
「ユイには家族いる?」
「いたよ」
「いた?」
「弟がいた」
ユイは膝を抱えた。
「十二歳で死んだ」
「……ごめん」
「いいよ」
しばらく沈黙した。
「私ね」
ユイが言った。
「弟が死んだとき、世界なんか全部なくなればいいって思った」
真は黙って聞いていた。
「でも今は逆」
「逆?」
「偽物でもいいから、もう少しこの世界にいたい」
「どうして?」
ユイは少し笑った。
「友達できたから」
真は目を伏せた。
胸の奥が熱くなった。
自分も同じだった。
*
二人はついに「世界の出口」を見つけた。
地下深く。
地図に存在しない施設。
白い壁に囲まれた巨大な部屋。
中央に一台の端末があった。
画面には表示されていた。
〈SIMULATION WORLD 07〉
真は息を呑んだ。
「やっぱり……」
ユイが呟く。
端末を操作する。
膨大な記録が出てきた。
都市。
住民。
天候。
記憶。
人格。
すべてがデータだった。
「じゃあ……俺たちは?」
真が検索した。
〈MAKOTO/PERSONALITY DATA 000741〉
画面を見つめた。
名前。
年齢。
幼少期。
両親の事故。
学生時代。
就職。
好きな食べ物。
嫌いな音。
全部書かれていた。
「嘘だろ……」
真は何度も画面をスクロールした。
自分の人生が数十行のデータになっている。
母親。
父親。
記憶。
全部、設定。
「じゃあ母さんも……」
作られた存在。
事故など存在しなかった。
事故を悲しんだ十五年間も、最初から入力された記憶。
「ふざけんな」
真は端末を殴った。
「ふざけんなよ!」
拳が切れた。
また血が出た。
痛い。
どうしようもなく痛い。
「これもデータなのかよ!」
真は叫んだ。
「父さんが死んだとき苦しかったのも! 母さんに会いたくて泣いたのも! 全部プログラムなのかよ!」
ユイが真の腕を掴んだ。
「真!」
「じゃあ俺は何なんだ!」
真は彼女の手を振り払った。
「存在してないじゃないか!」
*
そのとき。
端末に新しい文字が表示された。
〈SYSTEM SHUTDOWN〉
〈REMAINING TIME 00:23:41〉
二人は固まった。
施設全体に警告音が鳴った。
電力が尽きようとしていた。
さらに記録を調べる。
そして二人は、本当の「真実」を知った。
人類はすでに滅んでいた。
三百年以上前に。
この世界は、人類が残した文化、記憶、性格、行動記録をもとに再現された仮想文明だった。
誰も人間ではない。
誰も本物ではない。
世界そのものが、人類という種族の巨大な遺品だった。
ユイが呟いた。
「じゃあ……誰もいないんだ」
真は答えられなかった。
両親も。
同僚も。
道を歩いていた人々も。
ユイも。
自分も。
全員、死者が残した影。
警告音が続く。
〈REMAINING TIME 00:11:02〉
端末にはもう一つ表示されていた。
〈EMERGENCY DATA TRANSFER AVAILABLE〉
〈CAPACITY:ONE PERSONALITY〉
一人だけ。
外部記憶装置に人格を保存できる。
二人は同時に理解した。
「真」
「ユイ」
「私――」
「駄目だ」
真は端末を操作した。
「何してるの」
「お前を保存する」
「やめて」
「俺より若いだろ」
「関係ない!」
ユイが真の腕を掴んだ。
「私だけ残ってどうするの!」
「生きろ」
「これは生きるって言わない!」
「じゃあ何だよ!」
真も叫んだ。
「この世界だって偽物なんだろ! 俺も偽物、お前も偽物! だったら何だって同じだろ!」
ユイが泣いた。
「同じじゃない!」
その声が地下施設に響いた。
「真が私を助けてくれた!」
真は黙った。
「私が怖くて眠れなかった夜、一晩中起きててくれた!」
「……」
「弟の話をしたとき、何も言わずに聞いてくれた!」
涙がユイの頬を流れる。
「あれも偽物だったの?」
真は答えられなかった。
「プログラムだったから、どうでもいいの?」
「……分からない」
やっと、それだけ言った。
「俺には分からないんだよ」
真の目からも涙が落ちた。
「何が本物なのか、もう何も分からない」
ユイは真の手を握った。
「でも」
震える声で言った。
「私は嬉しかったよ」
その言葉が、真の胸に深く刺さった。
偽物かもしれない。
感情も。
涙も。
触れている手の温度も。
全部。
でも。
真は思った。
自分が孤独だったこと。
ユイに会って救われたこと。
彼女を失いたくないと思っていること。
それだけは、誰にも否定できない。
〈REMAINING TIME 00:03:14〉
真はユイの人格データを転送した。
「真!」
ユイが叫ぶ。
「ごめん」
「嫌だ!」
「俺さ」
真は笑った。
「ずっと思ってたんだ」
「何を」
「俺が消えても世界は何も変わらないって」
ユイは泣きながら首を振った。
「変わるよ」
「うん」
真は少し笑った。
「今はそう思える」
〈TRANSFER 72%〉
「ユイ」
「嫌だ」
「聞いて」
「嫌だよ!」
「本物か偽物かなんて、もうどうでもいい」
真はユイの頭に手を置いた。
髪の感触がある。
温かい。
「君に生きてほしいと思った」
〈TRANSFER 91%〉
「それが」
真は言った。
「俺の世界で、最後に残った本物だ」
「真!」
〈TRANSFER COMPLETE〉
白い光が世界を包んだ。
*
それから、どれほどの時間が経ったのか。
百年か。
千年か。
あるいはもっと。
宇宙を旅していた知的生命体が、死んだ惑星で古い記憶装置を発見した。
そこに、一つだけ人格データが残されていた。
復元された少女は、長い眠りから目覚めた。
研究者が尋ねた。
「あなたは誰ですか?」
「ユイ」
「あなたの文明について教えてください」
ユイは目を閉じた。
駅。
地下道。
廃ビル。
笑った夜。
泣いた夜。
握った手。
最後の言葉。
全部が蘇った。
研究者が尋ねた。
「あなた方は人工的に再現された人格だったようです」
「はい」
「では、あなたの文明に本物の人間は存在したのですか?」
ユイは長い間、答えなかった。
やがて。
小さく笑った。
「いました」
研究者が驚く。
「誰です?」
ユイの目から、一滴の涙が落ちた。
その涙が本物なのか。
単なる計算結果なのか。
誰にも分からない。
ユイは言った。
「私を助けてくれた人です」
世界は、偽物だった。
記憶も。
身体も。
空も。
海も。
涙さえも。
けれど。
誰かの痛みを自分の痛みのように感じたこと。
誰かが消えるのを悲しいと思ったこと。
そして、自分より誰かに生きてほしいと願ったこと。
もしそれさえ偽物と呼ぶのなら。
本物という言葉など、
この世界には最初から必要なかったのかもしれない。
