深淵なるコリと、今日もわたしは戦う
首と肩と腰がこる、というのは、人類に課せられた呪いの一種だと思っている。
その昔、まだ20代の頃のわたしは、その呪いの意味をまるでわかっていなかった。
職場で先輩たちが「いやあ、最近腰がね」とか「肩パンパンでさぁ」と笑いながら言っているのを、ふーんと他人事みたいに聞いていた。
そのときのわたしは、本気でこう思っていた。
そんなに毎日こる?
ちょっと運動したら治るんじゃないの?
ていうか、それってただの疲れじゃないの?
今なら、その頃のわたしの肩をそっとつかんで、耳元でささやいてやりたい。
「オマエもいずれ、コッチ側に来るぞ」と。
最初に異変がきたのは、肩だった。
ある日、ふと気づいたら、肩に「鉄板」が入っていた。
もちろん比喩だけど、感覚としては本当にそんな感じで、肩の上にうすい鉄板がじわっと貼りついて、そこからじんわり冷えてくるような違和感。
キーボードを打つたびに鉄板が重さを主張してくる。
信号待ちでぼんやり立っているだけなのに、肩のあたりがずきりと訴えてくる。
「なあ、そろそろ限界なんだけど」と。
そのとき初めて理解した。
ああ、これがみんな言っていた「肩こり」ってやつか、と。
そこからが、コリとの最初の戦争だった。
湯船につかって温める。
銭湯に行ってジェットバスの水流で肩を撃たせる。
肩回し体操、とりあえず30回。
謎の健康グッズを買っては「あれ、効いてる———、気がする!」と自分をだましてみる。
一時的にはラクになる。
でも、数日後には、鉄板が何食わぬ顔で帰ってくる。
わたしはその頃、まだわかっていなかった。
これは「一度倒せば終わり」のザコ敵ではなく、
何度倒しても形を変えて現れる、RPGでいう裏ボスみたいな存在なのだということを。
肩との戦いがある程度の日常風景になってきた頃、次に名乗りをあげてきたのが腰だった。
ある朝、ベッドから起き上がろうとした瞬間、腰が「バキッ」と無言の主張をしてきた。
漫画ならここに効果音が入る。現実には音なんてしないのに、脳内でははっきり鳴っていた。
腰は、肩よりも無口で陰湿だ。
肩のように「張ってきたなあ」と前日から予兆があるわけでもなく、ある日突然「ここから先は、無理」と線を引いてくる。
長時間座って文章を書いた日の夜。
立ち上がろうとして、腰の重さに笑ってしまう。笑えるくらいには痛い。
「なにこれ、急に30キロくらいの砂袋、巻かれた?」
歩くたびに、腰から下が一本の棒みたいになる。
まるで、自分の身体が自分のものじゃないみたいで、不思議な疎外感があった。
この頃から、わたしは本格的に「歩く」という行為を意識するようになった。
歩くことで血行を良くする。
腰回りを温める。
ストレッチで太ももの裏とお尻の筋肉を伸ばす。
本やネットで、あらゆる「腰に良い」情報を漁り、片っ端から実践した。
もはやわたしの頭の中では、
「note」「物語」「ホラー」の隣に、「コリ対策」というタブが常に開かれているレベルだ。
それでも、腰は完全には黙らない。
静かに、しかし確実に、ダメージログを刻んでくる。
まるで、身体の奥にいる誰かが鉛筆(HB)で、毎日ちいさくバツ印をつけているみたいに。
———そして、今。
わたしが一番強く意識しているのは、首だ。
正確に言うなら、首の付け根から、後頭部の下あたりまでの、あの不思議なゾーン。
ここがこり始めると、世界の解像度が変わる。
音はいつも通り聞こえているはずなのに、どこか遠くで鳴っているように感じる。幻聴でも妄想でもない。あと、耳鳴りでもない。
景色はそこにあるのに、うっすら霧がかかったみたいに、ピントが合わない。
気づけば、わたしはいつも首の付け根を指で押している。
そこには、見えない「核」がある。
その核は、日々のインプットとアウトプットの残骸だ。
読みすぎた文章。
書きすぎた原稿。
考えすぎた未来。
気を遣いすぎた会話。
全部が少しずつ蓄積して、首の付け根に沈殿していく。
「よくもまあ、ここまで詰め込んだな」と言わんばかりに、
核はじわりと重さを増していく。
その重さは、痛みではなく、ほとんど「祟り」に近い。
やりたいこと、やらなきゃいけないこと、やりたかったのにやれていないこと。
そういう感情の澱が、じくじくと首の筋肉を締めつけてくる。
ここまで読んでいて、「わかる」と思ってくれた人がいたら、きっとあなたもコッチ側の人だ。
椅子に座り、モニターの光に照らされながら、
首と肩と腰と常に交渉し続けている人。
「今日もよろしくな」とか「頼むからもう少しだけ耐えて」とか、
無言の会議を身体と開きながら、仕事や創作を続けている人。
そういう人に、わたしは少しだけ正直なことを言いたい。
わたしたちは、たぶん、一生こる。
どれだけ歩いても、どれだけ温めても、どれだけストレッチしても、
ゼロにはならない。
残念ながら、身体は「生きている限り負荷がかかる装置」だからだ。
けれど、それは同時に、ある意味の証拠でもある。
首がこるのは、首を使うほど何かを見てきたからだ。
肩が張るのは、肩に背負ってきたものがあるからだ。
腰が重いのは、立ち続けてきた日々がちゃんとあったからだ。
もし本当に、何も見ず、何も背負わず、どこにも立たない人生を選んでいたら、もしかしたら、コリとは無縁だったかもしれない。
でも、それはそれで、かなり退屈な物語だ。
もちろん、痛みを美談でごまかすつもりはない。
痛いものは痛いし、重いものは重い。
だからわたしは、今日も抗う。
温めて、歩いて、体操して、ストレッチして。
姿勢を直して、モニターの高さをちまちま調整して。
時には、ただ何もせずにだらっと天井を見上げて、
「もう知らん」と、コリごと世界を放棄する日もある。
それでも翌日になれば、また机に向かう。
キーボードに指をのせて、首の付け根に住みついた深淵のコリにこう告げる。
「悪いけど、今日も書くからな」と。
コリは、そこで少しだけ笑う。
まるで「はいはい、どうせまた無茶するんだろ」と言っているみたいに。
わたしは、その生意気な気配に笑い返す。
いいよ。
そっちがその気なら、こっちだって抗い続ける。
湯と歩行とストレッチと、そして、ちょっとだけマシな椅子とともに。
深淵のコリとの戦いは、一生終わらないかもしれない。
でも、それならそれで、付き合い方を決めてしまえばいい。
「一緒に生きていくけれど、主導権はわたしが握る」と。
首が重い日も、肩が泣き言を言う日も、腰がストライキを起こす日もある。
そんな日は、少しだけ休めばいい。
湯に逃げてもいいし、散歩に逃げてもいい。
スマホを放り投げて、意味もなく空を見るのもいい。
それでも、また戻ってくる。
机の前に。
画面の前に。
言葉の前に。
わたしはきっと、これからも何度もこるし、何度も嘆く。
「なんで人類はこんな構造で生まれてしまったんだ」と、何度でも愚痴をこぼす。
でも同時に、こうも思う。
ああ、今日もわたしは、ちゃんと生きているな、と。
ちゃんと考えて、ちゃんと悩んで、ちゃんと書こうとしているな、と。
深淵なる永遠のコリよ。
そこまでしてわたしを掴んで離さないというのなら、
その執念ごと連れて、わたしはこれからも書き続ける。
わたしが歩みを止めない限り、
この物語はまだ終わらない。
首肩腰が全部そろって「もうやめようぜ」と言ってきても、
わたしはきっとこう返す。
「ごめん。もう少し、あと少し。
今日の一行だけ、どうしても書いておきたいんだ」と。
