知らない名前
午後10時、仕事が終わり、街は街灯の明るさに灯されたくさんのスポットライトができている。
右手には車が走っていて、せっかくできた自分を照らしてくれる灯りを潰しては去っていく。
そんな光に当たりながら、生暖かく、お世辞にも気持ちがいいとは言えない濁った風を肌に通しながら、帰り道にあるコンビニに足を運ぶ。自動ドアが開くとそこは別世界。冷たい空気が身体を通過し、それまでに蓄積していた疲れや、外の不快感を背中から流れ出さしてくれる。そこでようやく家路につく気力が蘇る。
コンビニの自動ドアを通過し、まっすぐ歩き突き当たりを右に曲がると色んな種類の紙パックドリンクが陳列された棚がある、そこの一番下に並べられた500mlの牛乳を手に取り、その棚を背中に向け、パンが並べられた棚から適当な惣菜パンを2つ手に取った。通った道を戻り右手に見えるレジに品を置く。そこにいた新人らしき女性の店員さんは慣れない手つきでバーコードを読み取り、しっかりと確認をした上で合計金額を伝える。僕は1000円札を出すと、レジにお金を入れお釣りとレシートを渡してくれた。店員さんは元気な声で『ありがとうございました。』と僕に伝えた。僕はいつものルーティンのように『ありがとうございます』と伝わっているか怪しい音量で返事をしお店を出た。
コンビニから5分ほど歩くと、2階建ての小さなアポートが見えて来た。その2階の一番奥。205号室に僕は住んでいる。外観では想像がつかないほどのしっかりとした鉄の扉を開け、電気をつけ靴を脱ぐ。玄関に入るとすぐ右手にキッチンがあり、その細い通路を少し行くと6畳ほどの部屋がある。物はほとんどなく男性にしては整理されている。部屋の真ん中にある座卓に商品が入ったレジ袋を置き財布を置く。僕は腰を下ろし財布の中に大切にしまっておいたレシートを取り出す。『天野しょうこ』レシートの名前を確認すると、キッチンの通路に行く手前の棚に並べられた沢山のファイルの中からひとつ取り出し、そのレシートをすぐにでも破れてしまうかのように丁寧に扱い、ファイルの【あ】のページに入れた。
そのファイルは【あ】から【ん】までわかりやすくファイリングできるように付箋で記してあり、そこにはレシートや名刺、名前が書いてあるもの全てをファイリングしてある。
佐藤一郎は名前というものに凄く興味があった。自分が平凡な名前でその反発で興味を持ったのかは謎だが、恐らくそうだろうと思う。子供の時から『めっちゃ普通の名前だね!』『特徴なさすぎるだろ』『お前にピッタリだわ』そんな言葉を浴び続け、「普通」というものに恐怖を抱くようになった。だか、日本という国において、普通ということはとても重要なことだ。
普通でないということはおかしなこととみなされ、普通を演じる人たちが普通を強いてくる。同調圧力という物だ。数十人に一人は普通ではないものに憧れ普通ではないものを演じる人間も出てくるが、普通ではないものがカッコいいという感情を持つこと自体が普通なので、これがなによりも痛い。でもごく稀に、自分が普通ではないことに気づいてない人間もいる。そんな人間は同調することすら求められずただただ孤独に追いやられていく。どうやら僕はそれだったようで、常に一人だった。それになるきっかけとなったのは、ある日の授業中、小学校にいる全員の名前が書かれた自分のノートを床に落としてしまい、それを隣の席の女の子が拾おうとしたところその名前がびっしりと書かれたノートを見て悲鳴を上げた。その頃不運にもノートに名前を書いた人間が死んでしまうという映画が流行っていて、僕は陰で死神と呼ばれることになった。僕は少し嬉しかった。
翌日も前日と同じようにコンビニに向かうと、いつものコンビニに灯りがなく、【臨時休業】と書かれた紙が自動ドアに貼られていた。目的地を失った身体が一気に脱力をし、疲れもそれと共に抜け落ちていった。
少し歩こう。僕は他のコンビニを探し暗い夜の街を歩き彷徨うことにした。そこから10分ほど歩くと街灯も少なくなり、より暗さのました世界が広がった。あぁ、もう帰ろう。そう思い次の角を曲がるとそこに暗い世界にぽつんと大きな四角い塊が煌々と光っていた。そこにコンビニがあった。僕は真っ直ぐにそのコンビニに入り、牛乳とパンを手に取りレジへ行き、手慣れた女性の店員の前に商品を置いて会計を済ませレシートを大切にポケットへしまい、外へ出た。
違和感があった。
その違和感を感じた感覚を辿り、ポケットに入れていたレシートを手に取りそこに印字されている名前を見た。
その違和感はこれだった。でもまだ違和感の周りをなぞれただけで、その核の部分には到達できていない。嫌悪感を抱く自分の感情を訝り、急いで家へ戻った。
棚に置いてあるファイルにその名前の頭文字と、そうであろう文字のページを探し狂った。物心ついた時から集めた名前達。それは物凄い数だった。テレビや仕事はもちろん、32年間のふと目にした名前も全て紙に書いてはファイリングしていた。
だかその名前はなかった。僕の身体の中にある臓器の重みは消え、その感覚に気持ちよさまで覚えた。人生の目的、夢、その言葉がどれほどぞんざいな言葉なのかと、この知らない名前を目にした瞬間に起こった圧倒的具体感が僕の身体に染み渡っていく。
『このために生きてきた』独り言でそんな言葉を口にする日が来るのかと自分でも驚きを隠せなかったが、口にすることにより、よりその言葉の意味が自分の脳みそを理解させた。
僕は勤務していた印刷会社を辞めた。しばらくは生きていけるだけの貯金もあり、不安な気持ちは全くなかった。それ以上に明確になった自分の人生に達成感を感じ、今までに感じたことのない生気が湧き上がってきた。
その日から毎日毎日コンビニに通った。その女性がいるのはおそらく月、水、金の17:00〜23:00、主にしている仕事があり、その仕事だけでは賄えないためコンビニでアルバイトでもしているのだろう。年齢も僕より少し下、ギリギリ20代か、それくらいだった。長い黒髪を後ろに縛り、前から見るとオールバックに見える。肌は白いが少しくすんでいて、そのくすみに生活感が垣間見える。女性の割に声が太くしっかりと響く声をしていて、その声を聞くとまるでその女性と昔からの知り合いであったかのような親近感を抱き、この人には嫌われないでいようと言った気持ちが生まれる。
その2日後、夜の20時頃にいつものコンビニに行くと、その女性の姿はなかった。僕は思わずそこにいた店員さんに尋ねた、『あの、、、いつもいた女性は?』声を発したのはいつぶりか、上擦った声が不気味さを増す。その男性店員もほぼストーカーのような僕の発言と声に狼狽えていたが、断ることもできず一言で僕との関わりを切るかのように『辞めましたよ』と言い、足早に陳列棚に行き商品を並べ始めた。それまで食べたものや飲んだもの、吸ってきた空気達が身体の底から口のほうへ昇っていき、それらが肺を圧迫する。苦しい。何も買わずに僕は店を出る。その圧迫は止まらない。今すぐにでも吐き出してしまいたいが、吐き出せるような形のあるものがなく、実際にはそういう感覚を帯びているだけなのだとわかった。
その日から僕はより外に出る時間が減った。必要最低限の食べ物と飲み物を一週間に1度だけ補給しに行く。その女性の名前をファイリングした日からファイルも一切開かなくなっていた僕は、生きる意味を無くした。
それから2ヶ月が経ち、一週間に一度の買い出しに行こうとキッチンの方へ向かうが棚に身体をぶつけてしまう。意識が朦朧としていた。その棚に並べてあったファイルが崩れ落ちる。そのファイルの中には無数の名前があった。僕はファイルを広いあげようとファイルに目をやり一つの名前が目に入った。あの女性の名前だ。その瞬間止まりかけていた心臓が動き始めた。質素でシンプルな部屋の色味も増えた気がした。経験したことのない感覚に気持ち悪さを感じ洗面所へ向かい自分の顔を鏡に映した。
髪も伸び髭が伸びている。顔色は悪く、唇の皮は剥がれ落ちだし今にも唇が無くなりそうだ。
洗面所に置いてある髭剃りを使い髭を剃った。そうするとより一層長い髪が煩わしくなったので、洗面所の下の開きにあるバリカンを手にし、長い髪を剃り始めた。無数の黒い気色の悪いもの達が洗面所を埋めていく。黒く埋まっていく床とは反対に佐藤一郎の顔からは人間が出てきた。
