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【小説 クーポン男】

友人の披露宴

 
 ここから見える海は青い。
 思い出す度、胸がチクリチクリと痛みだす。心療内科に通ったこともあったが、食欲、睡眠欲、性欲が正常値に戻ったのをきっかけに通うのを止めた。特に性欲の回復は早かった。カウンセリングを受けたのは合計三回。我ながら立ち直りの早さに感心する。

「成美さん、二次会来るよね?同僚の独身男紹介するから」

 新郎はウィンクしながら任せとけと言わんばかりの表情だったが、飲みすぎで顔が真っ赤な上に呂律が回っていない。長年付き合った優子との結婚がよほど嬉しいのか、それとも、親戚や上司から次々に継がれるビールを断り切れずキャパシティを越えてしまったのか。いずれにしても、お人よしな性格があだになっているのは一目瞭然だった。
 
 神戸の海をバックに人生最上級の幸福をかみしめる二人。仲良し三人組の中で一番先に結婚したのは優子だった。
 男を漁り続けている私にチャペルで優先的にブーケを受け取らせてくれた気遣いには感謝している。パウダールームで実花と鏡の前に立ち、唇のグロスを塗りなおす。

「だいぶお金かけたな。優子、しっかり貯金してたもんね」
「確かに。成美、今日のためにいくら使った?」
「靴と洋服、このバッグ。あと、朝から美容院に行って髪を編みこんでもらった。こうやって編み込みをほぐしてゆるい感じにすると男受けがいいって雑誌で見たからね。えっと、総額十五万ちょいかな。これでも安いとこ探したしクーポン利用したんよ。あ、あとこのファンデはランコム。まつ毛もほら!エクステしてきた」
目をパチクリさせて実花に見せつける。
「気合はいってんなあ」
「当たり前やん。あんなひどい目に合ったんやから、それと同じくらい良いことがなかったらおかしいやろ。人生は、自分が気を付けてても悪いことが起きる。そういう時は、それを受け入れ流れに逆らわず身を任せる。そうしたら、その分、ドカーンと良いことが返ってくる。あっ、そうそう。ブーケ先にもらっちゃって。ありがとうね」
 鼻の頭の油を押さえながら化粧直しをしている実花に鏡越しに言った。
「いやいや、成美が先にもらわんと意味ないやろ。それよか、新郎の友人の眼鏡男、成美のことばっかり見てた。公務員らしいわ」
「公務員かあ。私は民間がええな。外資系とか」
「なに言うとん。うちの弟、外資系証券会社やったけど経営破綻して大変やったんやから。まあ、なんとか再就職できたから良かったけど。こういう時、公務員のがええねんて」
「そっか。じゃあ、ちょっと頑張ってみるかな。新郎は当てにならなそうやし」
 鏡に写る自分の姿は、まだまだいけてる。友人の結婚式は出会いのチャンスでもある。私は背筋をぴんと伸ばした。
 
 

女磨きは不倫相手のため


 脱毛サロンで脇とVIOの処理。デパートで新しい下着を購入。高級美容クリームを顔にべっとり塗って就寝。女でいるため出費がかさむ。バスルームで服を脱ぎ鏡に映る自分を眺めるEカップの乳房は重みこそあるが、まだ垂れるまではいっていない。女はいくつになっても好きな男に抱かれるべきだ。そのために、努力を惜しんではいけない。

 東門街の近くにある縦長のビル。堤さんとの待ち合わせは決まってこの店だった。狭いエレベーターに乗り込み三階のボタンを押す。開いた扉からワインレッドの絨毯が見える。転ばないようヒールのかかとに力を入れて歩く。琥珀色の明かりに照らされた彼の横顔を発見。私の顔を見るなり満面の笑みを浮かべる彼。この微笑みが堪らなかった。 
 平日の夜、七時半。カウンター席に大人のカップルが一組いた。ムード満点の薄暗いワインバー。今、彼の目には、私しか写っていない。
「今日もお疲れさん」
グラスをカチンと鳴らし微笑み見つめ合う。

 店を出て手を繋ぎながら坂の上にあるホテルへ向かう。いつもの慣れたコースだった。
 部屋に入るなり激しいキスをされた。先週、の別れ際、彼は焼きもちを焼いた。会話の中で、元カレの話が出た時だった。男の人は以前付き合った男のことを妙に詮索する時がある。聞かれた質問に答えていただけなのに、彼は嫉妬した。それなら、最初から聞かなければいい。嫉妬心に狂った彼は、お前は俺のもんだと言わんばかりに激しく私を抱いた。
 こんな激しい情熱を見せてくれると、こちらも興奮する。服を脱がし合い薄暗い照明の下、シーツのこすり合う音とお互い吐息が交じる。精神的にも肉体的にも繋がれる相手とセックスがしたい。彼とはそれが叶う。
 いく時は正上位と決まっていた。腰は完全にロックされ動けない。その締め付けがいい。突き上げられると身体の中から快感が押し寄せられ何度でもいける。私の喘ぎ声は徐々に大きくなる。こんな大きな声、ラブホテルじゃないと無理。

「こんな頻繁に会って大丈夫?」
横たわっている彼の耳元で言った。
「僕が君に会いたくて仕方ないんだ」
まだ薄っすら痙攣する身体を優しく抱きしめ、甘い言葉をささやく堤さんは妻子持ち。
 既婚男性は、残業だと言えば家族にバレない。不倫は平日の夜に限定される。既婚男性にとって不倫相手との時間は非日常的な世界を味わえる夢の世界だと昔、誰かが言っていた。
「子供ができてから妻とはキスすらしてない。寝室も別々だしね」
「求めてこないんですか?」
「うん。僕も求めないし。僕は成美さんがいてくれたらそれでいい」
そう言って愛おしそうに私の髪を撫でる。堤さんの愛の言葉は既婚男性の常套句だとわかっていてもそれに心地よさを感じ関係を続けていた。
 
 部屋に戻ってもまだ、彼の熱い抱擁が冷めない。スマホを見ると夜の十一時。
“おやすみ。また明日”
 毎日、奥さんの目を盗んで送信してくる彼からのメッセージが届く度、優越感に浸っていた。

 不倫の恋愛は初めてではなかった。堤さんと出会う前にも、職場の上司とこっそり不倫。上司が他県へ異動したことで一年弱で関係が終わった。
 不倫ばかりしていると、生涯一人の人を愛するなんて最初から無理なことなんじゃないかと思うのと同時に、自分はこのまま二番目の立場でいいのかと自問する。それでも既婚男性の甘い言葉に酔いしれ、もはやそれが中毒になりつつあった。もしかすると、自分は既婚者としか恋愛できない体質になってるのかも。
 いつか誰かと結婚し、家庭を持つ。幼い頃、そんな当たり前のことは、適齢期になると誰にでも訪れるものだと思っていたが、それが簡単ではないことに気付く。

 バスタオルを一枚体に巻き付け部屋の照明を薄暗くして窓から外を眺めた。街に灯った明かりの下、幸せそうな家族が目に浮かぶ。  堤さんの家族もあの明かりの中の一つ。遠くから指をくわえて見ている自分が時々、嫌になる。


  

きた~!独身男性


 その年の冬、私は石井さんという男性に出会う。出席できなかった課長の代わりにN新聞社のマーケティングセミナーに参加したのがきっかけだった。その時、講師をしていたのが石井さんだった。
 セミナーはつまらなく、気が付くとセミナー終了の10分前になっていた。ほとんど寝ていた。質問コーナーの時間のようだが、誰も質問していない。静まりかえった会場の空気を読み、進行役の女性がマイクを持ち名刺交換を促す。
 さっきまで興味なさげで無表情だった男性陣が一気に立ち上がり彼の前に列を作っている。ビジネスマンは名刺交換が好きだ。とりあえず私もその列に並ぶ。順番が近づいてくるにつれ、石井さんの顔がはっきり見えてきた。眉が太く、石川五右衛門のようなフサフサ髪で背丈は私と同じくらい。パリッとスーツを着こなし靴もピカピカに磨かれている。濃い顔立ち、どこにでもいそうな男性だった。
「二宮商事の三条です。今日は有意義なお話が聞けて良かったです」
ビジネス的な挨拶。これ以上のことは話さなかった。
「三条さん、神戸から来てくださったんですね。ありがとうございます」
 石井さんは私の名刺を見ながら微笑んだ。後ろに列が出来ていたこともあり、さっさと切り上げ、その場を去った。
 
“昨日はありがとうございました。次のセミナーは来月開催します。お時間があれば是非、参加してください”
 
 セミナーの翌日、石井さんからメールが届いた。当たり障りのない営業メールだったので返信をせずにいた。
 二日後、また石井さんからメールが届いた。石井さんは、東京から大阪へ転勤になったばかりで右も左も分からない、関西は未知の世界だと書かれてあった。出身は福岡で大学進学時に上京し、N新聞に入社したそうだ。九州の人間は東京へ行きたがる、自分もそのうちの一人だと。私的な内容のメールに、明らかに私に興味を持っていることがわかった。N新聞社といったら超一流企業。彼を切り捨てるのはもったいない。そんな下心から返信をした。
 それから、ほぼ毎日、会社のメールアドレスにひたすらメールが届くようになる。それに返信をすること約半年。ついに石井さんとランチの約束をした。 
 


初デート


 土曜日。お昼の12時にJR神戸駅で待ち合わせ。
 改札口を出た途端、人の多さに埋もれてしまいそうだった。周りを見渡すが石井さんの姿はない。時計の針は待ち合わせ時間の5分前を指している。
わかりやすいように改札出口の真ん前に立って待つ。待っている間、何組ものカップルが落ち合い、私の前を通り過ぎて行った。
 時計の針が12時10分を指した。電車が遅れている情報もない。
 12時20分。電車から下りてきた群衆の中に石井さんの姿を見つけた。紺色のチェック柄のシャツにジーパン姿の石井さんは、遅くなってごめんという言葉もなく、どうして遅れたのか理由を言うわけでもなく、しれっとしている。それに、彼がジーパンをはいてきたなら私もそうすれば良かった。
 実は家を出る前、迷った。恋人でもなく、ただの知り合いという間柄。でも、一応デートスポットに行くのだからと花柄のワンピースにした。なんだか、一人きめこんでいるようで恥ずかしくなった。
 
 モザイクにあるレストランのテラス席に座り湾内を行きかう船を眺めながら二人横並びに座る。周りはカップルで溢れかえっていて、楽しそうに会話をしていた。石井さんはあまり感情を出さない人だ。特に話上手でもなく、当たり障りのない会話が続いていた。
 時々、船のボーッいう音に反応しながら微笑み、和ませようとした。半年間、メールのやり取りをした仲だが、お互いのことはまだよく知らない。これからどんな風に化けるのか分からない。
 店を出て、海沿いを並んで歩く。二人の姿は、他から見るとカップルそのもの。けれど、私達は今日初めて二人で会っている。その証拠に距離感が微妙だった。
 ポートタワーの前まで来ると石井さんが登りたいと言って、さっと窓口へチケットを買いに行き、一枚を私に渡してくれた。
受け取る時、指先が少しだけ触れた。石井さんが私の目を見つめる。彼は一瞬、雄の表情をした。タイミングよく、エレベーターのお姉さんに「乗ってください」と促され、足早にエレベーターに乗り込む。数人が乗り込み中は蜜な状態。石井さんとの距離が二十センチと縮まり、息が詰まりそうになった。

 展望から眺める神戸の海は青くきれいだった。丸い腰かけに二人並んで座り目の前に広がる海を眺めながら会話する。
「いい景色ですね」
「ええ、ほんと天気が良くて良かったです」
「三条さんが羨ましいなぁ。神戸の女性がおしゃれできれいなのは、街が美しいからなんですね。女性もきれいになって当然ですよね」
「えっ」
 真面目そうな顔をしている割に、口説こうとしている。
 しばらくすると、人気がなくなった。団体の観光客がお土産を売っている階へと移動したようだ。そのタイミングで隣に座っている彼が距離をつめてきた。キスがしたいみたいだった。
 最初のデートでそれを許すと甘くみられる。つめ寄ってくる彼から反対方向にじりじりと移動した。それでも、彼はつめてくる。また移動する。彼の性欲をリアルに感じた。
「クルーズ船に乗りませんか?」
ほら来た。船に乗せて口説こうという魂胆だ。
「ええ、いいですよ」
ここは、彼のプランに乗ろう。そして、出方を見よう。
 ポートタワーを下り、クルーズ船のチケット売り場へと歩く。途中、歩きながら何度か手が触れた。これは故意なのか、それとも偶然なのか。彼の風貌や表情から、女をスマートに口説きそうな気がしない。
 なんせ、見た目が石川五右衛門、庶民に愛された天下の大泥棒。
 最後まで子供に苦痛を与えまいと熱湯が煮えたぎる釜の中、力つきるまで両手で抱えていた浮世絵。そのイメージが強い。
・・・子供?
 そうか、石川五右衛門もやることやってんだ。そう思うと急に一人可笑しくなった。
 
 甲板から見た海の色が黒く濁っていた。船の下からスクリューでかき上げられる水しぶきの一滴までもが黒くて汚い。緑と黒の絵の具を混ぜたような色。
「汚い海ですね。さっきは青く見えたのに」
石井さんが言った。遠くから見ると青く見えるのは空の色をうつしているからだ。ちなみに、ホテルの浴槽の水が青く見えるのも、青色以外を水に吸われてしまって、青だけが反射して見える現象。説明しようか迷ったが止めた。小学生の理科で学習した知識をひけらかしても仕方ない。
「そろそろ帰りましょうか?」
船を下りてすぐ私は彼に言った。
石井さんはえっ、とういう表情をした。まだ日が暮れず空は明るい。この後の計画を立てていたのかも知れないが、妙に気を遣いすぎて疲れてしまった。
 神戸駅へと向かって歩く。その間、石井さんは一言も話さなかった。阪急電車の乗り場へ向かって歩いていく石井さんの後ろ姿を見送った直後、緊張の糸が緩み一気に疲れが出た。早く部屋に戻ってシャワーを浴びたい。
 
 部屋の玄関の鍵を開けた途端、熱い風が体にまとわりつく。すぐにエアコンのスイッチを入れ、服を脱ぎ、シャワーを浴びた。
 バスタオルをまいたまま、部屋に戻ると、さっきとは違って一気に温度が下がっていた。冷蔵庫から麦茶を出してグラスに注ぎ一気に飲み干した。
 汗が引いた頃、優子と実花に今日のデートの報告をした。常にスマホの画面を見ているのかと思うくらい二人の返信は早かった。
“もう帰ってきたん?早くない?”
“面白くなかったから早目に切り上げた”
“ま、これからやな。不倫から抜け出けだせるチャンスなんやから頑張って!”
優子の気持ちは有り難かったが、私は石井さんに性的な魅力を感じていなかった。それでも石井さんと繋がることができるのだろうか。
“ま、気楽に付き合えば?”
実花らしい言葉だった。そう、気楽に行こう。


クーポン使いまっせ

 
 一週間後、私は石井さんと体の関係を持った。初めてのセックスは彼の部屋だった。キスから始まり、ベッドがある部屋へと誘う。  この時、まだ彼に男性としての魅力を感じていなかったが、とりあえず寝てみないとわからない。体の相性は大事だ。胸を触りながら、ゆっくりと舌を体に這わせて乳首を吸った。思わず声が漏れる。体は感じている。やはり、試さないとわからない。もしかすると、テクニシャンかも。期待しながら彼に身を預ける。
??????
 あっという間に終わり、石井さんは寝息を立て始めた。いつもの相手なら、セックスの後、ぴったりと寄り添い合いながら眠りにつくはずなのに。彼はこのまま朝まで目を覚まさないのだろうか。
 ベッドの中、どうしていいのか分からず、ただ、じっと天井を見ていた。サイドテーブルの時計は10時を指していた。
ゆっくりと上半身を起こす。その動きで石井さんは目を覚ました。
「私、帰るね」
「あ・・・、今、何時?」
「10時」
そう言ってベッドの脇に落ちていた下着を拾って服を着た。
石井さんもパンツを履きながら「送っていくよ」と言った。
 一緒に部屋を出て駅へと向かう。道中の会話は少な目だった。ただ、大きなお月様が印象的だった。

 それから、私達は毎週末会うようになった。
石井さんは外食する時には必ずクーポン券を使う。一度も正規の価格で支払ったことがない。クーポン共同購入サイトで検索して、気に入ったクーポン券を購入して利用する。私の誕生日のディナーにも当然のようにクーポン券を登場させた。
 たまのデートはテリトリー映画館。彼が株主優待券を持っているため、映画はそこでしかみない。
 外食しない日は、彼の家でテレビを見ながら食事をする。私はスーパーマーケットに寄って週末の食材を購入してから彼の部屋へ行く。
 金曜日の夕食から土日の朝、昼、夜と私が料理したものを一緒に食べる。彼から「美味しい」とか「ありがとう」の言葉は一切ないし食材の費用は一度も払ってくれたことがない。

 とにかく細かい。お風呂にから出た私に差し出すのはバスタオルでなく小さいタオル。バスタオルを洗うと洗濯の水の量が増えるからという理由で使わせてもらえない。
 冷暖房エアコンがあるにも関わらず、ほとんどスイッチを入れない。そのため、冬場のお風呂上りは寒くて辛い。ベッドの中に入れば、すぐに暖かくなると言われるが、すぐに裸にされるのでやっぱり寒い。
 さすがに夏場はエアコンを付けてくれるが、一通り涼しくなるとすぐに切ってしまうのですぐに汗だく。
「熱中症になる」と言うと水を飲めば大丈夫だと水道水をコップに注ぐ。それでもあまりに暑い時は、西宮のデパートに涼みに行く。と、言い出したらキリがない。
 それでも毎週末、堂々とデートができることには、ほっとしていた。どこで誰に見られてもいい、不倫恋愛と違ってこそこそ隠れる必要がないのは安心だった。

 彼はコンドームを嫌う。
「着けて欲しかったらお前が買ってこい」
彼は命令口調で言った。
「え?なんで女が買うん?そんなの男が買うんちゃう?」
「俺は気を付けてるから大丈夫なんだ。ちゃんとタイミングをみて外に出しているから」
「そんなん、わからんやん?失敗したらどうするん?いい年なんやから、そういうの嫌やから、着けてよ」
「だから、お前が買ってきたら着けてやるって言ってんだろ!」
ドケチな彼が買うはずがない。それでも、私は彼に言い続けた。そして、口論はずっと続いた。結局、根負けした私は恥ずかしい思いをしながら近所のドラッグストアに買いに行き、彼に渡して今日から着けて下さいとお願いした。

“パチン”

 セックスの時、ゴムの弾けるような音がして彼が一旦私の中から消えたかと思ったら、また入ってきた。
「ちょ、ちょっと、もしかしてゴム外した?」
私は彼の胸板を両手で押して言った。
「うん、こっちのほうが気持ちいいから」
彼は陶酔した目をしている。最初から着けるつもりがなかったかのようだった。
「やめて!」
激しい嫌悪に襲われた私は彼の腕に指が食い込むくらい力一杯掴んで体を突き放そうとしたが彼の力は強かった。体をねじりベッドから出ようとした私に彼は馬乗りになって両手を押さえつけた。
「大丈夫だって言ってんだろ、ちゃんとするから」
彼のその自信は一生かかっても理解できそうにない。挿入の苦痛で吐き気がして彼から目をそらした。彼はいつものように私のお腹の上で果て、いびきをかいて速攻寝た。彼の隣で虚しさがこみ上げてきた。

 それから何度も着けてと言ったが彼がコンドームを使うことはなかった。私さえ何も言わなければ彼は機嫌が良く、セックスに満足しているようだ。
「今日は風邪気味で具合が悪い」と言っても、いたわってくれるどころか、三度の食事の支度と彼のペニスのお世話はマストだった。

 毎回、彼とコンドームについて口論することに疲れ、いつしか言うのを止めてしまった私は彼の部屋から帰り道、商業施設と駅を繋ぐ連絡通路にあるゴミ箱に使わず仕舞いのコンドームを投げ捨てた。

 気が付けば二年の月日が経っていた。彼の最初に感じた誠実な印象は全くなくなっていた。いつも横柄で顎で女を使う嫌な性格の中年男。今の私は結婚したいゆえ、このわがままな中年男のペースに合わせているような気がした。
 

はぁ~


 三宮界隈は仕事帰りの人々で溢れていた。駅から南方面にスタスタ歩いた。神戸市役所から更に南へ下り、実花と優子が待つイタリアンレストランに着いた。平日の夜、店内には仕事帰りの女子で賑わっていた。
「ごめん、遅くなって」
「私らも今来たとこ。それより、どうやった?二人っきりの海外旅行は?」
神妙な顔の二人に私は定番のマーライオンチョコを渡し言った。「それが、もう最悪」
 私はメニューを取ってテーブルの上に広げた。彼女達は早く私の話を聞きたい様子でいつもより早く注文を決めた。
「とにかくデートの時、クーポン券使うねん。この前な、『観たい映画ある?』て聞かれたから“リンカーン”が観たいって言うたんよ。あれ、調べたらミント神戸でやっててん。でも石井さんは、映画は絶対に株主優待券を使いたいみたいで、毎回テリトリー映画館しか行かへんねん。でも、さすがに今回は向こうから何が観たいって聞いてきたんやから、ミント神戸の映画館に行くと思うやん?それが当日なってみたら、あそこは俺、株主ちゃうから優待券ないし行けない、て言うねん」
「うっそ~!テリトリー映画館って、B級映画しか上映してないとこやろ?で、結局“リンカーン”は観ずじまい?」
優子は目を丸くして言った。
 私はうなづき話を続けた。
「シンガポールもそう。さすがにシンガポールでクーポン券や優待券使えへんやろ?そしたら、彼が関空で『ドルに換えてるか?』って私に確認してきたんよ。
『少しだけ換えてるけどあんたは?』って言うたら、換えてへんって。まぁ、現地に行っても換えれるし、その時は気にしてなかったんやけど、結局、日本に帰るまで、彼一円もドルに交換しなかった。だからシンガポール滞在時の食事代、飲み物代、移動の交通費、植物園、水族館、セントーサ島の入場料、全部私が二人分払ったんや。それから、これには続きがあって、関空着いて払ってくれた交通費とか諸々を半分払うから、いくらかかったか紙に明細書いて教えてって言うから、次の週末会った時に、明細書いた紙を渡したんよ。そしたら、急に怒りだしてん」
「何それ?それで払ってくれたん?」
「ううん、いまだに払ってくれてない。私が全部負担したままや。あっ!思い出した!彼の会社用の土産、マーライオンのチョコレートの代金も私が払ったんや!」
「成美、不倫してたから毎週末会えることが新鮮やっただけやって。その気持ち分かるけど、成美に会社の土産まで負担させるなんて」
実花がそう言ったあと、優子が「ごめん、私が成美に早く独身男を捕まえろって言ったから」と申し訳なさそうに言った。
「優子のせいと違うよ。私に男を見る目がないだけ」
前菜のサラダがテーブルに置かれ実花がフォークをカゴごと差し出し言った。
「体の相性は?」
「ゴムは付けへんし、アソコは舐めへん。その癖、私には奉仕させる。なんか嫌になってきた」
二人はしばらく黙った。
「堤さんは?」
「随分前から会ってない」
「じゃあ、今は石井さんとだけ付き合ってるってこと?」
「そう」
「成美、結婚に相当本気やってんなぁ」
 本気というか、抜け出したかった。不倫しても未来はない。結婚、子育て。みんなが当たり前のように手に入れているものが欲しかった。

 優子と実花に話してから石井さんの誘いを初めて断った。通例となっている金曜日の夜から日曜日の夕方まで彼の部屋で一緒に過ごす、これを初めて断ったのだ。どうしても気分が乗らなかった。彼のためにスーパーで買い物し、食材を調達して、週末の朝昼晩と料理を作り、セックスする。こんなこと二年もしていたのかと思うと急に冷めてきた。
 
 久しぶり一人の週末。部屋の掃除、洗濯をしてから、高級スーパーへ自分のために食材を買って昼食を作って食べた。ソファに横になり思い出していた。彼との楽しめないセックスのこと、お金のこと。気が付くといつの間にか寝てしまっていた。それがなんとも心地よかった。もっと、早く気付くべきだったかもしれない。
 


別れ話のもつれってこういうこと?


 次の週の水曜日、私からの連絡に彼は少し驚いた様子だった。仕事を終えて三宮から阪急電車に乗った。電車の中、別れ話の切り出し方を考えていたが、別れるのにあれこれ理由を並び立ててもしょうがない。気持ちが冷めた。ただそれだけのこと。
 駅の改札口に彼の姿が見えた。いつも待ち合わせ時間ギリギリなのに今日は先にいる。
近づいた私に彼の表情は引きつっていた。それは、私からの別れ話に薄々気付いているようにも見えた。
近くのカフェに移動するため、並んで駅の階段を上った。駅の構内から出て大通りの横断歩道の前で信号待ちをしていた時、突然、意味不明な金切り声と同時に後ろから誰かがぶつかってきた。
 私はその衝撃に前に倒れた。地面についた手首が痛む。
「いっ、痛い・・・」
鋭い痛みが徐々に走る。体を起こそうとするが動かない。見上げると知らない女が突っ立っていた。赤く血走った目をした女が横たわっている私に襲い掛かろうとしていた。誰?この人?女の顔を見るが面識がない。咄嗟に石井さんの彼女だと思った。もうダメだと思った時、石井さんが女の動きを押さえた。女は腰に回された彼の両腕を振りほどこうと、体をよじり蹴ったりしながらもがいて自由になろうとしていた。
「離して、離してよ!」
 女は彼にがっちりかかえこまれながら大声で叫んでいた。やはり石井さんの彼女?もしかして、私二股されていたの?別れ話を切り出そうとしていた矢先のこと。なんだかわからないが、女は私を恨んでいることは確信ができた。
 この騒ぎに瞬く間に人が集まってきた。倒れたまま、息を吸っても空気が薄く感じる。ショック状態なのだろうか、死ぬんだろうか。
「大丈夫ですか?」と、誰かの声が聞こえたが上手く返事ができなかった。
 意識が薄れる中、遠くの方からサイレンの音が聞こえ、警察官が暴れる女を押さえている。私は大勢の野次馬の中、救急隊員にストレッチャーに乗せられ救急車の中へ運ばれた。
「名前は?生年月日は?年齢は?」
救急車の中で誰かに聞かれた。その後のことは覚えていない。

 目を覚ますと真っ白な部屋のベッドに横たわっていた。枕元に目をやると点滴のスタンドが立ち、チューブが腕へ向かってのびていて看護師が側にいた。
「気付いたんですね。よかった」
「ここ、どこですか?今何時ですか?」
「時間は、午前9時です」
看護師は腕時計を見ながら時間だけを言った。
「9時って、朝の?」
私は、窓の外から入る白く明るい光を見て徐々に状況を掴んでいった。
「私は、昨日の夕方からずっとこの病院にいて今まで意識がなかったんですか?」
「ええ、そうです」
左手首を見るとサポーターのようなものが巻かれていた。がっちりとしたギプスではないが、それが手首を固定していると理解した。
「しばらくしたら先生がお見えになりますので詳しく聞いて下さい」
倒れた時に手首の骨にひびが入った。気を失ったのは軽い脳震盪とのこと。
「あの・・・、私、もう帰れるんでしょうか?」
「すぐには無理かと。あ、ほら来ましたよ」
医師の背後からスーツ姿の男性が二人で登場した。刑事だった。私を襲ったのは彼の姉だと聞かされ、しばらく言葉を失った。
 刑事は少しだけ申し訳なさそうな顔をしながら話し始めた。石井さんと姉は、以前東京で一緒に暮らしていた。大阪に異動になった弟に女、つまり私が出来たことを知った姉は、度々東京からこっちに様子を見に来ていたという。
 付き合っていた間のことを一生懸命思い出してみる。時々、姉から電話があったと言っていたが、そのことに、おかしいと思ったことはなかったし、つけられていたのも分からなかった。そう言えば、平日に有給を取って彼が東京にいる姉が入院したからお見舞いに行くと言っていたことを思い出した。
「石井さんとお姉さんの関係はご存知でしたか?」
「関係?」
不思議な質問だと思った。
「男女の関係があったことを知っていましたか?」
情況が半分も理解できなかった。どこか遠いところの話。作り話のような。頭が受け入れることを拒否している。
 私は夢を見ているのだろうか。こんな悪い夢、早く覚めて欲しい。ベッドのリクライニングボタンを押そうと手を伸ばした。
「痛っ」
鋭い痛みに思わず声がでた。その痛みが夢ではないことを教えてくれた。ベッドから少しも起き上がることができず仰向けになったまま、ただ涙が溢れてきた。

 朝の看護師さんが入ってきた。
「お昼に食事が出ます。食べれそうですか?」
「わかりません。なにがなんだか、わからない」
「痛みは?」
「痛いです。けど・・・、それより頭の中が混乱して」
彼女の優しい手が私の手首に触れた。
「痛み止めは飲み薬になりますが、耐えられなければ座薬を入れますので言ってくださいね」
涙で彼女の姿が揺れた。まるで、プールの中から見ているようだった。
 
 自宅へ戻ったのは、その日の夕方だった。駆け付けてくれた優子と実花は、想像もしていなかったこの状況に慰めの言葉も見つからないといった様子だった。特に優子は泣きじゃくるばかり。
「ごめんな。私が堤さんと別れて石井さん付き合えって言ったから」
「優子のせい違うって。私が決めたことやし」
あんなに不倫を嫌っていた優子が、なぜか謝る。憐れな私の姿を見て、いつものように正しい判断ができなくなってしまったようだ。
窓から見える中庭の木の葉が秋を知らせていた。気分はどんどん沈んでゆく。どこまでも沈む、底なしかと思うくらい深く、深く。 

 今頃、石井さんの姉はどうしているのだろう。刑事にどんなことを質問され、どんな風に答えているのか知りたい反面、聞きたくない気持ちもあった。姉弟で恋愛関係にあったなんて、まだ信じられない。悪い夢なら早く覚めて欲しい。屈辱と情けなさで一杯だった。恋愛はいつでもできる。そこから誰かと家族になってゆくことが、こんなに難しいものとは思いもしなかった。
 
 

示談にしろってか


 手首の固定が外れた頃。石井さんの弁護士が訪ねてきた。
「示談金の交渉に来ました」
私はしばらく黙っていた。あの日(九月二十日)以来、石井さんは一度も姿を見せていない。毎週末、一緒に過ごした間柄だった。あの時間は一体なんだったのか。それを考える度、惨めな気分になる。正直、石井さんには会いたくなかったが、代理人をたてるなら、謝罪の言葉くらい伝えてくれてもいいはず。
「彼はなんて言ってるんですか?」
「なんて?とは」
「私に対する謝罪とか、なにも伝言はないんですか?」
「もちろん、あなたを傷つけてしまったことは申し訳ないと思っておられますが、彼もある意味、お姉さんの被害者ですし」
弁護士の言葉に腹が立った。なんで彼が被害者になるんだ。
「彼はまだ新聞社で働いているんですか?」
「ええ、もちろん」
「朝から夕方まで普通にですか?」
「そうです。石井氏が直接、あなたに危害を加えた訳ではありませんので会社側からクビにする理由はありません」
弁護士は当然だろ?と言わんばかりの表情だった。
「石井さんは、どうして来ないんですか?」
「本人から直接謝罪を求められているようですが、こういった場合、個人的なやり取りはトラブルの元です」
「トラブルの元って!もう、トラブルが起きてるじゃないですか!」
「あなたの将来のことも考えて、こっちは色々と配慮してるんです。現にあなたも普通にお仕事をされているでしょ」
「新聞社の名前が出るのが嫌だからでしょ!そちらの都合ですよね?こっちは、そんなこと頼んでませんからっ」
「いくら払えばいいですか?」
「いくらって・・・?馬鹿にしてるんですか?」
「馬鹿にしている訳ではありません。金額の折り合いをつけないと話が終わりませんから」
「もう、帰ってください」
悔しさと怒りで手が震えた。
膝を抱えしばらくソファに座ったまま動くことができなかった。しばらくしてからお風呂場で服を脱ぎ、鏡の前に立つ。前より痩せて骨盤の骨が浮き出ていた。顔のほうれい線も目立つ。なんだか、今回のことで一気に老けた気がする。

 石井さんに電話をかけた。とにかく話したかった。そもそも、当事者で話合うこともないまま放っておくから、いけないわけで。最初から、話し合っていれば、あの感じの悪い代理人と絡まずに済んだ。
 コール音が鳴り、そのまま留守番電話サービスの音声が流れ何も言わず切った。2分ほどして電話が鳴った。
「もしもし」
「石井です。電話もらったみたいで」
「話があって」
「会って話すことはできない。代理人に言われてるから」
その言葉に怒りを抑えることができなかった。
「そんなことわかってる。それより、まず私に言うことない?」
彼は無言のままだった。それからしばらくして言った。「代理人から聞いてない?」
「示談にしろってこと?」
「悪かったと思ってる。だから、お金払うから許して欲しいって伝えたんだ」
「教えて。あなた、本当にお姉さんと?」
「今から会えないか?」
「いいよ。会いましょう」
一時間後、三宮のカフェで会う約束をした。


弟と姉の関係


「俺は姉には逆らえない」
ホットコーヒーがテーブルの上に置かれた。石井さんは、一呼吸おいてからゆっくりと話し始めた。
「小4の夏休み、両親は仕事にでかけ、姉が家で俺の面倒をみるのが普通だった。父は薬剤師で近くの調剤薬局に勤めて、母はスーパーで夕方までパートタイマーで働いていた。
少し、ひ弱でいじめられやすい俺のことを姉は、いつも守ってくれた。休み時間や下校中、片時も目を離さなかった。洗濯物を取り込み、お味噌汁の出汁を取ってから一緒に宿題をして母の帰りを待っていた」
 話をしている石井さんの表情はだんだん暗くなっていく。それでも、私は彼の次の言葉を待ち続けるように聞いていた。
「お風呂も一緒だった」
「いくつまで?」
「中学かな。父親が一人ずつ入りなさいと言ってくれた時、正直ほっとした。厳格な父親の言うことは絶対に従わなければならなかったから」
カフェは店の外の道路に面して置いてあるテーブル席に座っていた。人通りはそこそこあったが、客もまばらで周りは誰もいない。
「その夏休み。初めてだった」
「それからずっと?」
石井さんは静かにうなずいた。
 
 大学を卒業して新聞社に入社した。自分が入社した頃の新聞社は、まだまだ古い体質が残りパワハラが横行していた。それでも、仕事はやりがいがあった。何より、コンパで勤務先の社名を出すと女の子にモテた。俺は、会社のネームバリューを利用し、女の子を落としていた。
 付き合いが深まり、良い関係になってきた途端、なぜか女の子に振られる。それは毎回と言っていいほどだった。理由は分からないが、相手が離れていく。追いかけたい気持ちはあったが、格好つけたい俺はそれをせず受け入れていた。本心は、その都度辛い思いをしていた。

 新聞社に勤務して俺は姉に相談をせず、埼玉にマンションを買った。恋愛をするたび、姉の存在が邪魔になっていた俺は少しでも、姉から離れたかった。大学の授業料、生活費の面倒を四年間みてもらった姉には感謝している。しかし、姉の俺に対する執着心は凄まじかった。
 ある週末、彼女と箱根に旅行した時のことだった。宿につき、夕食の時間が過ぎこれからいいところ。9時くらいだったろうか、姉から電話が鳴った。電話に出ると、姉は苦しそうな息遣いで話した。
「なんだか、おかしいの・・・」
はぁ、はぁ、という吐息とともに支離滅裂なことを言い始めた。
「病院は?看護師だろ?自分の症状が分からないのか?」俺が言った途端、電話が切れた。
不穏な空気が流れた箱根の旅館で、彼女が俺に恐る恐る聞いてきた。
「お姉さん?何かあったの?」
「いや、よく分からない。けど、苦しそうな感じがした」
俺はもう一度、姉に電話をかけた。何度電話しても繋がらない。
「もしかして、なにかあったんじゃない?」彼女が言った。
一時間後、俺は、彼女を残し姉の住む東京へ向かうため電車に乗っていた。最終電車の時刻が過ぎ、姉の住むマンションへタクシーを拾った。合鍵を使い急いで姉の部屋のドアを開ける。姉は、ベッドの中にいた。
「どうしたの?」
俺の問いかけに姉が布団から顔をひょっこり出した。
「急にお腹が痛くなったのよ、ごめんね」
姉はケロっとしていた。
「いい加減にしろよ!俺、休日だったんだぞ!」
「だって、私あなたしか頼る人がいないんだもん。変な病気じゃなくて良かったねって言ってくれるのが弟でしょ?」
姉は、今にも泣きそうな表情を浮かべて言った。
 こんなことは日常茶飯事だった。その内、俺の前から彼女は去って行った。どうすれば姉から離れられるのか?そんな時、俺に大阪転勤命令が下された。これで、姉に監視されることがなくなる。飛ばされたにも関わらず嬉しかった。
「関西に行けば、君に会える。そう思ったからだ」
 二人の関係を事細かに聞かされた私の胸の中は複雑だった。言葉を返しようもなく、なんと言っていいかわからず、ただ、無言でカップの中のコーヒーをみつめた。そういえば、テーブルに置かれてから、お互いカップに口を付けていなかった。
「話した通り。姉とのことは否定しない。ただ、俺は不純な気持ちで君と付き合っていた訳じゃない」
 石井さんの目が潤んで見えた。泣いているようだった。泣きたいのはこっちだ。そう言いたかったが、これ以上何を言っても仕方がなかった。
 私は人生を楽しむために生きている。私の人生に石井さんはいなかったことにする。この先も、ずっと。
「元気で」
「君も」
 別れ際に交わした言葉の短さに、この恋愛に意味があったのかと考えた。二人の出会いは、何のためにあったのだろう。思い返してみるが、答えはでない。
 人生に起こることは全てに理由がある、どこか誰かの格言みたいだが、石井さんとの出会った理由はわからなかった。彼は去り際に、「またどこかで・・・」と聞こえるか聞こえないかぐらいの声で言った。聞こえない振りをして立ち去るには丁度良い声量だった。

 その日、私は堤さんにメッセージを送った。メッセージを見た彼からすぐに電話がかかってきた。
「成美さん、久しぶりだね。元気だった?」
懐かしい声に心がほころんだ。三年の歳月が過ぎ去った今でも堤さんとの日々の光景をはっきりと思い出す。
「元気です。堤さんは?」
「うん。君とお別れしてとても辛かったよ。君のこと、本当に大好きだったから」
 私には堤さんしかいない。彼が既婚者でもいい。未来は誰にも分らない。この先の二人に幸せが待っているかもしれない。とにかく、今は誰かに癒されたい。そう思いながら彼の次の言葉を待っていた。
「でも、乗り越えられた」
「・・・え?」
「娘が出来たんだ!昨日生まれたばかりでね。今から病院に会いに行くところ!」
「お、おめでとう」
 電話を切った後、胸が張り裂けてしまわないように両手で心臓のあたりを押さえじっとしていた。やがて、自分の馬鹿さ加減に笑いがこみ上げ、お腹を押さえながらソファの上で笑い転げまわった。

 石井さんからの示談金は五十万円。高いのか安いのかわからないが承知した。いつまでも意地を張っていられるほど、自分が強くないことを悟った。
 

神戸牛


 披露宴会場は、お酌をしながら席をあちこち行き来する人達の声で賑わっていた。窓際では料理人がいて天ぷらや寿司、ステーキがふるまわれている。美味しそうなにおいにお腹が鳴った。
 実花は、揚げたての天ぷらの列に並んでいる。その隣で白い帽子をかぶったシェフがステーキを焼いていた。カチャカチャと軽快に音を立てながらナイフとフォークを持ってパフォーマンスをする。
 フランベされた瞬間、オレンジの炎がボワッと上がった。
「おおっ」という何人かの男性が一斉に声を上げた。その男性の声につられステーキの列に並ぼうとした時、実花が言っていた眼鏡男が近づいてきて言った。
「神戸牛食べるの初めてなんです」
「そうですか・・・」
眼鏡男はにこにこしながら私を見た。タイプじゃないが安定の公務員。でも、タイプじゃない。
 遠くで実花のはしゃぐ声が聞こえた。天ぷらの列へ目をやると、実花がイケメン達と楽しそうに話している姿が見えた。
先に天ぷらの列に並んでいれば良かった。順番を間違えたことを後悔した。
 何事もタイミング、その後は見極める力が必要。男選びもそう。人数だけ揃えていても結果を残さないと意味がないことは実践済みだった。

 シェフが焼き上がったお肉を切り始め、お皿の上に乗せていく。溜息をつきながら席に戻りテーブルの上に置いてあるブーケを見ながら神戸牛を食べる。

おしまい


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