差別を正当化する装置
ネトウヨもカルトって、左派リベラルの願望がもろに出ていると思う。彼ら左派リベラルはネトウヨを差別することで自らの優越性を実感したいのだろうと思う。つまり、ナチスがユダヤ人をスケープゴートにしてドイツで人気を高め、国家を簒奪したのと同じ手法を行いたいということではないか。
彼ら左派リベラルにしてみれば、ネトウヨには人権を認める必要はないのだから自由に差別して何が悪い。デマでもプロパガンダでも、ネトウヨを悪魔にして叩きまくろう。それでネトウヨが絶滅しても、地球がきれいになってむしろ幸せなことではないか。ああいうネトウヨみたいな連中が地上を闊歩すること自体が間違っているのだからネトウヨ打払令を作って問答無用でネトウヨを狩ってしまおうぜ。反ネトウヨでカルトを作っても多数派になればこちらのものだ。マジョリティに逆らうマイノリティとして迫害すればスカッとするじゃないかというくらいの軽い気持ちなのではないか。
多分、今の左派リベラルの幼少のみぎりには仮面ライダーとか勧善懲悪の子供用ドラマが全盛期を迎えていたのではないか。そういう子供番組をめ、自分も仮面ライダーになっ自分も仮面ライダーになって悪いショッカーをやっつけてやる。」と義憤に燃えていた人たちが、ネトウヨをショッカーとして粉砕したいという欲望に駆られているのでネトウヨがカルトなのではなくて、その人の願望の中ではネトウヨでなくては困るのである。
ナチスがユダヤ人に対して外出時には服に黄色い六芒星を付けることを強制したように、ネトウヨにもカルトの帽子をかぶせて見分けやすいようにしようぜということである。
多分、これは正義の問題なのである。自分が正義であるから自分の嫌いなネトウヨは悪でなければならぬ、という倒錯した思考であろう。彼らにしてみればネトウヨを悪と認定することで自分たちの正義が揺るぎないものとなるのである。江戸時代、たまたま動物の屠殺を生業とするものを穢れているとして一段低い身分に置くことで、他の士農工商の身分のものは「自分たちは汚れていないのだ、正民なのだ」と安堵させ、徳川幕府の治世の安定に一役買ったということであろう。明治時代になって士農工商の身分が廃止されたときにエタヒニンといわれた階級の人の身分制度も廃止されたが、明治の人は彼らを新平民という名で扱い、自分たちはそれより上の身分、汚れていない正民だと自らの正義を守ったわけである。
明治大正時代のウチのもう死んだ婆さんなども我々が子供の頃、行儀が悪いと「そんなことではエッタに見られるよ」とよく我々を叱ったものである。
さすがにもうその世代は天国に行ったであろうから、今では表面的にはエタヒニンを差別しようとする人はいなくなったと思うのである。けれども、人はその代わりに下の身分を創設して自らの安定を得たい、自分の正義に正統性を与えたいと思っているということではないだろネトウヨの一部はそこにチョウセンジンを置き、左派リベラルはそこにネトウヨを置きたいということなのだろう。
私は某「ネトウヨ」に「おまえはチョウセンジンだ!」と罵られたこともあるし、もちろん、何人もの左派リベラル達に「このネトウヨめ!」と罵られたこともあるが、中に込められている感情には大した違いはなかったように思う。彼らはいずれも自らの正義を崇め、それに逆らうものを貶めて自らの正当性を確かめる、いわばナルシシズムのような感情をもってそれぞれの語を発したのではないか。
これはある人たちが「ヒトモドキ!」と叫ぶときも同じ感情を持っているのだと思う。いわゆる「弱者論」では弱いもの、弱者属性のものを守る自分かっこいいになるが、これらの弱者は「悪い」弱者なので差別して滅ぼすことが正義なのである。そういう点でいうと、「弱者男性」は明らかに悪い弱者ではないけれどフェミニストにして見ればなんであれをいい方の弱者にして守らなきゃならないのよ!という葛藤が起こった結果、見えないことになってしまったということかもしれない。
「ネトウヨはカルト」というのは左派リベラルにとって自分の正義を高揚させる装置なのかもしれない。
