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何のためにnoteを書くのか?〜書くことは考えることである〜

 先日、「noteは毎日書くべきか否か?」 というnoteを書いている方がおられた。それを拝見しての、「何のためにnoteを書くのか ? 」と自身に問うての思い。

 noteを書くということは、それぞれその人にとって様々な目的があるであろうし、そのことに対しては自身は何の異論もないのであるが、では自身にとってのその意味は何なのか?と問うてみると、そこには明確な目的がある。

 それは端的には「書くことは考えることである」(南郷継正の言葉)の実践ということに尽きる、と思えた。

 自身のnoteを書く、は今年1月3日からであるが、それ以前の約10年間近くは、goo ブログで『鍼灸如何に学ぶべきか』として、鍼灸学校入学時からの学びを実りあるものにすべく、書くことを行っていた。

 より具体的には、自身の学び(実践)をそのままにしておくのではなしに、それを文章化して書いていくことで、「自身の学んだことはこういうことなのか」と分かっての、そこからのさらなる学び(実践)をということであり、そのことと直接にの、書くという形式(一般論→具体の事実(現象論)→構造論)の訓練として位置づけての、書くことであった。

 では、その二重の実践の自身に齎してくれたものは何なのか ?といえば、自身のアタマの中で、もやもやと蠢くだけの、浮かんでは消えする、するしかない諸々の映像が、原稿用紙に書くことで、次第次第に明確な形になっていき、かつ整理されていくことで「起承転結」として理解されていくことで、今まで見えなかったものが見えてきた、と思えることであった。

 これは例えば、昨年の暮れにgoo ブログで、「人間はいかに運動すべきか」「人間は何を食べるべきか」「人間はいかに眠るべきか」として、人間の生きるということの3本柱とも言うべき、食・運動・睡眠の問題を書いてくことで、それまで見えていなかった睡眠の問題が、「生命の歴史」におけるクラゲ体以前の段階の時代の繰り返しとして、魚類体の段階の運動ということが代謝から相対的に独立して突出しいくことで、それに対立するものとして誕生させられたものである、と捉え返せるようになって、人間はなぜに眠るのか、眠らなければならないのか、が分かって行けて、それ以前の睡眠についての様々な疑問が解けて(例えば、睡眠は何時間取るべきか、どのような体勢で眠るべきか、なぜ眠らねばならないのか...…)いったと思えている。

 以上要するに、自身のアタマの中の諸々の映像を文章化する、書くということで、そのアタマの中の映像は、明確になり、整序され、結果として対象の構造が見えてくるのだ。ということであり、それが「書くことは考えることである」(南郷継正)ということの中身であり、それが自身のnoteを書くことの意義ということになる。

 次回は、「運動体の治療論」を、西洋医学的と東洋医学的の治療論の区別と連関として、「人類の問題解決の二大潮流」(南郷継正)を念頭において、自身の治療のあり方を論理として(事実レベルに終始するのではなしに)書いていく辺りから始めようと思う。

 

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