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「字余り」はメッセージの執念なのかもしれない
ビジネスカルチャー番組「3003サンゼロゼロサン」を聴いていて、音楽家の原口沙輔さんの話が非常に興味深かったです。
この番組は、Forbes Japanが選ぶ「世界を変える30歳未満の30人」に選ばれた方を、令和ロマンのくるまさんがMCとして深掘りしていくという企画です。
原口さんが語ったのは、音楽という表現媒体についての、ある種の皮肉的な視点でした。
音楽はメッセージに適さない?
原口さんの話の要点は、「音楽は、自分の言いたいメッセージを乗せるのに本質的に適していない」ということです。
そもそも音楽は、人が音を出して遊んでいたものであり、メッセージを伝えるためにあったものではない。
さらに、歌詞はメロディというリズムと音階の「制約」があるため、そこに無理やりメッセージを当てはめようとすると、「字余り」になってしまうからです。
字余りの音楽が持つ「執念」
ここから私の心に響いたのは、この「字余り」に対する考え方です。
世の中には、字余りの曲や歌がたくさんあります。
それは、その制約があるとわかっていながらも、それでもなお「伝えたかった」という作り手の執念が、リズムを押し破って飛び出してきた結果ではないか、ということです。
これまでの私は、「字余り」の曲を聴くと、どこかリズム的にも不格好で、少し惜しいと感じていました。
しかし、原口さんの話を聞いて、その捉え方が一変しました。
「字余り」は、言葉とメロディの格闘の末に生まれた、最も伝えたいメッセージが溢れ出た「熱量」の証なのかもしれません。
制約があるからこそ、その制約を乗り越えてでも伝えようとする力にこそ、私たちは心を動かされるのだと気づかされました。
