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階段の壁は心を持つように

 二階と三階を繋ぎ、隙間から日が差す階段の壁には生命が宿っているように感じる。それは時に静かにとなりにいてくれるような先輩としての姿。そして、時に明るく仲間内でささやかな茶会を開く主催者のように場を和ませる姿。
 二階から自室の三階に上がるとき、私は自然と左手で壁を撫でるように触れる。魚のうろこを撫でるような凸凹した壁の感覚で心地良くバランスを取れる。しかし、三階から二階に降りるときは、住んで三〇年近く経つが今も稀に不安を感じる。それは背が伸び、降りる際に自分の太ももで二段先まで見えないからだ。降りる際には左側に手すりもあるが、私は手すりの上を左手で壁に触れる。その方が不安が軽減される気持ちになる。植物の光合成のように無意識の不安を吸収してもらっているようだ。しかし、植物に例えるなら壁は呼吸もする。二階でのテレビ番組の出演者に対する父親の大声の文句、家族同士の言い合いが壁を伝って鳴り始める。家族には我慢はさせたくない。自然でいられるのが我が家というもの。家族が激昂という遊びを覚え、私は喧騒な浅瀬のプールにいるようだが、家族の声が届く前に階段の壁が私を水の中へ導く。階段の壁が大きな魚類ならば、この魚類は大海にいる。静寂な壁は家族の言葉から雑念を払い、家族の心の音を私に伝える。
 そんな我が家でも二階に向かう壁には私しか知らない秘密の時間帯がある。それは出勤前の足取りが重い、暗い白色の壁でもなく、夜中に照明が照らす仰々しい橙色の壁でもない。それは金屛風を背にして座る人が天井を向いて笑うような、周りの人の心がほぐされる夕方前の黄色の壁だ。その黄色く日に照らされた階段の壁をスクリーンに、首が回る扇風機の影や、揺れる枝葉の影が映し出される。内外の風がスクリーンを通じて空間を生み出し共演している。私は腕を上げ、手影を作り、即興で物語を考え、遊ぶ。徐々に夕日から夜の影に溶けて混ざっていく中で、心が満たされていたことを感じ始める。
 我が家の方へいつも聞く車のバックブザーの音が近づく。私は深海へ潜っていくように冷めていく壁を左手で撫でながら、暗い階段を上がる。

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