見出し画像

哲学に、なにができる?~言語化地獄と過剰接続の現代~

私たちみんな、話しすぎている。
映画のこと。「あの映画、あの部分が感動的だったんだよね!」
音楽のこと。「僕はこういう音楽しか聴けないな~」
仕事のこと。「こんな仕事、私らしくない。」
恋人のこと。「清楚で、痩せてて、背が高くて文系のひとが好み」
。。。
。。


喋っているうちに、いつの間にか「私」がだんだん別の人に変わっていく。
本当は自分が好きでやっていたことも、Xでつぶやくためにするようになってしまう。
「良い」言語化が求められていく2025年という現代に、言葉がつっかえてしまう「私」の群れが押しつぶされていく。
退職代行、ハラスメント、ジェンダーレス、、、表面上は、「言葉」にすることによって、いろんな問題が解決していくような雰囲気がある。
でもその一方で、言葉にできなかったこと、言葉にする必要もないほどにくだらないこと、それらに「意味がない」と思わされてしまう。
「私」のことを言語化する、ってどういうこと?



つながりすぎた現代


私たちはいつも、つながりを求めているような気がする。
テレビ、インターネット、ニュース、インスタ。。。
それらをとおして、「仲間」や「界隈」の人たちを目にすれば、なんだか安心する。
仕事や学校、地元の友達、そういう狭い世界じゃなくて、スマホがあれば誰とでも繋がれる。繋がったような気になれる。
芸能人の炎上に対しての、Xのポスト。「あいつは昔からこういう性格だったんだよ。」
そういう言葉を見て、安心する。

たしかに、私たちは日頃の社会生活「だけ」で生きていくのは苦しいし、そうではない別の空間を追い求めるのは理にかなっている。スターバックスの新商品、週末のサウナ、推し活。。
そのためにネット上で情報をかき集め、それで友だちができたりする。
「つながり」を求めようとしなければできなかったことだ。
しかし、「つながり」を追い求めすぎても、私たちは息苦しくなってしまうのではないか?


「つながらない」ことを選ぶ


日本の哲学者、千葉雅也は、『動きすぎてはいけない』という著作で、「非意味的接続」と「非意味的切断」という概念を用いて、「つながる」ことも大事だが、「つながらない」ことも重要なのではないか、ということを述べました。
「非意味的接続」とは、言葉の通り、意味のない接続。
知らない場所にわざわざ時間をかけて行ってみたり、普段はしないことをしてみる、「つながる」こと。
それに対し、「非意味的切断」とは、理由なく、テキトーに、「つながり」を切ってしまうこと。
つながるんじゃなくて、あえて、そのつながりを切ってしまう。
それが、「私」を生きることにとって重要なのではないか?


「言語化」と「つながり」


「言語化」をすることは、「つながる」ことと似ている。
よりよい言語化をすれば、生きやすくなる。
自己開示を、「良い」言語化ですれば、相手が私のことをわかってくれる。
好きな趣味の理由を言語化できれば、人生が豊かになる気がする。

でも、一旦、「言語化」をやめてみる。
自分の好きなことを、無理やり説明するのをやめてみる。
別に、「好きな理由」とか、「本当の私」がなくたって、生きていける。
そんなことはChatGPTに書かせておけば良い。

「私」には身体がある。感覚がある。悩んだり、迷ったりできる。
もしかすると、言葉にせず、「悩んでいる」ということが、生きていくということなのかもしれない。


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集