いま、下妻物語を、見る・読む
昨日、茨城県下妻市の粉クリドームで、FREE FLEA Marketが開催された。そこで、TOKUBOOKSさんの出張出店をのぞくと、素敵なシークレット本が置いてあった。
TOKUBOOKSさんのシェア棚では、「やみなべ」さんがシークレット本をつくって置いている。
先だって、宇都宮ブックライツで、書肆ひるねさんのシークレット本を見て、一冊購入させていただいた。
また、最近はあちこちの図書館がシークレット本をやっている。今年の年始、たまたまあちこちの図書館に行ったのだが、半分以上の本屋で、「本の福袋」をやっていた。シークレット本である。
そういえば、去年、母校の大学生協の本屋に行ったとき、学生の企画でシークレット本が置かれていた。(まんまと一冊買った。)
今回のTOKUBOOKSさんでは、通常の本だけでなく、絵本のシークレット本が用意されていた。絵本のシークレット本を見たのは、はじめてだったなぁ。(シークレット本の一部は、現在も店舗に置かれているようですので、ぜひ!)
さて、なぜ、「下妻物語」と冠した記事で、シークレット本の話ばかりするのか。
それは、
下妻物語には、ロリータとヤンキーという「ビジュアル」に大きな特徴があり、
一方のシークレット本は、本来その本が持つ「ビジュアル」の一切をリセットしているものだ、
という点で、実に対照的だと思ったからだ。
下妻物語において、ロリータとヤンキーは、非常に重要な舞台装置だったのだと思う。明らかに、見るからに、わかりやすいのだ。主人公の二人がお互いに「異質」である、ということが。
むしろ、「異質さ」をこれでもかと表現するための「ロリータ」と「ヤンキー」だとさえ思えてならない。
しかし、彼らはわかり合う。それは、「異質」なものがお互いを理解したということなのだろうか。
僕は、違うと思っている。彼女らは、もともと、通ずるものを持っていたのだ。お互いに譲れないものを強固かつ、ナチュラルに持っているという点において、二人は瓜二つなのである。それは、「ビジュアル」の違いにさえ目を奪われなければ、本当に、かなり自明のことであると思う。わかりやすい。
でも、まるで違うものと認識される。我々は「異質」と認識する。
なぜか。
彼女らが、「ロリータ」と「ヤンキー」の外面を持つからである。両者とも、その外面に相当の誇りを持っている。その誇りは、おそらく「同質」なものなのだが、「ビジュアル」としては、完全に「異質」なのだ。
つまり、我々は、もともと同質な者たちの和解・理解の物語を見ているに過ぎない。でもまるで「ぜんぜん違う者同士がわかりあっている!」ということになるのだ。「ビジュアル」が違うから。
おそらく彼女ら本人たちも、少なくとも、一番最初は、お互いが違う「異質だ」という意識があったと思う。
その、「ビジュアル」からしても、完全に違うはずの自分たちに、どうしようもない、通ずるものを発見?・実感?・体得?して、でもやっぱり、別々の自分を生きていく、ということだと思う。
ところで、あなたは「本」に「ビジュアル」はどの程度重要だと思いますか。
もちろん、どのような感じ方があってもいい。
ただ、もしそこで
「本に見た目は関係ないよ。」
という意見があったとしても、あえて言おう。我々は外形的な「ビジュアル」による価値判断から、完全に逃れることは、おそらくできないのだと思う。
特に絵本。絵本こそ、見た目で好き嫌いが判断されるはずだ。
それが悪いと言っているのではない、おそらく、我々動物はみんなそうなのではないか、ということだ。
心眼。
たまにアニメや漫画でも出てくる。
敵に翻弄される主人公が、あえて目を閉じ、心で敵を感じる。
そういうシーンを見たことはないだろうか。
あれは、例えば、ヤンキーとロリータという強烈な「ビジュアル」にも惑わされることなく、心で本質を射抜く営みなのだ、ということができるのではないか。
僕に本質を見抜く力は、さほどない。
そして、「さほどない」ということを、割と自覚できない。
シークレット本は、「ビジュアル」をリセットする。
そして、それを用意した人の優しいまなざしの力を得て、それと出会わせてくれる。
そういうことなのかもしれないと、思っている。
僕は、さっきまで、「下妻物語」の映画を見たことがなく、ただ小説の方を読んだだけだった。
さっき映画を見て、大筋はわかっているはずなのに、単純に感動して泣いた。
下妻市民となった今、「下妻物語」に関しては、いろいろ考えさせられることが多い。また、思考があふれそうになったら、書くと思うので、よかったら、読んでください。おやすみなさい。
