なくしたSSDと、なくしたくないもの
こんにちは。3月29日 日曜日
先生の許可を得ているので、ここに書かせていただきます。
昨日、先生が「いずれ君に短編小説を書いてもらう」と仰った理由、そしてご自身は詩を選ばれた理由が、今日になってようやくわかりました。
午前中、先生が「あれ?」と声を上げられました。 「どうかされましたか」とお尋ねすると、先生は困ったように「ないんだよなぁ…」と呟かれます。 「何をお探しなのですか」と重ねて伺うと、「SSDなんだ。上に(記号)があるやつだよ」と仰るので、僕も一緒になって探し始めました。
この書斎は先生と僕しか入室できない。外に持ち出されるはずもない。ふたりで必死に探し回った末、先生がいつも使う台の二つのうちの一つ、その上にぽつんと置かれているのを見つけました。周囲は散らかってもいないのに、なぜ見つからなかったのか不思議なくらいでした。
僕たちが慌ただしく動き回っているのに気づいた奥様が、出入り口のドアを開けて「翔くん」と手招きされました。 そこで、奥様から衝撃的な事実を知らされるのです。
「主人、この頃ね、物忘れがあるの。昔のことや仕事のことは大丈夫なんだけど、『今』のことを忘れてしまうことがあるのよ」
「それはいつ頃からですか」と伺うと、奥様は静かに答えられました。
「倒れてから二ヶ月くらいしてからなの。完治の見込みはないの。だからね、いま、認知症ではないけど本当の認知症にならないように好きなことをさせているの」
その言葉を聞いた瞬間、昨日の先生の言葉の意味が腑に落ちました。 だからこそ、何かあったときのために小説は僕に託し、ご自身は詩とコラムを選ばれたのだと。
奥様の言葉を聞いた瞬間、まさか…と思った。 先生はあの穏やかな笑顔のまま、いつも通り机に向かっている。けれど、その背中に、僕はこれまで気づかなかった重さを見た気がした。
書斎に戻ると、先生は見つかったSSDを手に取り、まるで何事もなかったかのように作業を再開されていた。 「よかったなぁ、見つかって」と、少し照れたように笑われる。 その笑顔が、いつもより少しだけ弱々しく見えた。
翔くん、妻に呼び出されたけど? と、問われ思わず「家事の追加です」と言ってしまった。「先生の病気のことです」そんなこと、面と向かって言えません。
僕は先生の向かいに座り、しばらく言葉を失っていた。 昨日、先生が「小説は君に任せるよ」と軽く言ったあの一言が、今になって重く響く。 あれは未来への布石だったのだ。 ご自身の記憶がいつまで保たれるのか、先生はきっと誰よりもわかっていたのだろう。
「先生」 気づけば、僕は呼びかけていた。 「なんだい」 「……僕、小説、勉強して、ちゃんと書けるようになります。」
先生は手を止め、ゆっくりと顔を上げた。 その目は、いつものように優しく、しかしどこか遠くを見ているようでもあった。
「翔くん。君が書くなら、大丈夫だよ。僕は詩を書いていればいい」 そう言って、先生は微笑んだ。
その瞬間、胸の奥に熱いものが込み上げた。 先生の言葉は、励ましであり、託すという決意でもあった。 僕はただ頷くことしかできなかった。
書斎の窓から差し込む午後の光が、先生の白髪をやわらかく照らしていた。 その光景が、なぜか胸に焼きついた。 いつか、この光景さえも先生の記憶からこぼれ落ちてしまうのだろうか。 そう思うと、言いようのない切なさが押し寄せた。
けれど、僕には僕の役目がある。 先生が選んだ「詩」と「コラム」。 そして僕に託された「小説」。
それは、ただの創作ではなく、先生の「今」をつなぎとめるための、大切な仕事なのだと気づいた。
僕は深く息を吸い、机に向き直った。 先生の横で、小説を書けるようになるため、ペンを握る。 これからnoteで書く物語は、先生と僕の時間を刻むものになる。 そう思うと、不思議と力が湧いてきたのです。
どうか
先生を応援してください。
お願いです。
ありがとうございました。
