森永と電通ー悪魔の対談 その2 「小児科の看板を掲げた法医学」の医師を使って育児相談など破天荒なことやりました…。
松崎社長と河井専務のご指示のもとで励む宣伝
以下の1967年の対談は「その1」の冒頭部分であり、繰り返しになるが「1955年の森永ヒ素ミルク中毒事件発生以降の被害児家族の救済運動を圧殺したことを自覚しながら書いている」ものである。
ここには、新井静一郎が森永製菓の松崎社長などに言及する。森永の松崎社長といえば、みなさんよくご存じの家系だ。
「その1」の項でも「宣伝」の偉大な効果を誇る新井静一郎(元森永社員で1967年の対談当時「電通」常務取締役)が、ここでも早々と登場する。
たんたんと語られる座談会だが、様々な手段で母親と消費者を誘導する手法を披歴している。これらがまた、いちいち、事件とその圧殺の手法に重なっているところが空恐ろしい。ただ、言うまでもないが、事件の真相に係るほとんどのことは「語られていない」し、今も語っていない。大量殺人をした企業が、なぜ真相を語らずに、そのまま営業活動が再開でき、繁栄を続けることができるのか? 組織犯罪はやり得なのか? それを保障しているかのような日本の司法制度は、私には未だに理解ができない。
ドライミルクは薬局で
司会 創業以来今日まで、幾多の牛乳乳製品が生まれてきたのですが、それらの製品とともに宣伝活動はどのように展開されたかということをうかがいたいと思います。それでは鈴木さんからお願いします。
鈴木 森永乳製品というのは菓子の材料として出発し、それがだんだん育児用に移行したわけです。当時はお菓子の原料が主でしたから、それでコンデンスミルクをつくったので、販売先は食料品屋とか菓子屋でおもに売っていたわけです。ところが育児用に、母乳代用としてコンデンスミルクがだいぶ使われていた。それで消費者は、だいたい薬屋さんへ買いに行く。ところが森永の出発は、お菓子屋から出ているから製品は薬屋さんにないんです。これじゃいかんというので薬問屋に移行することになった。私はそういう関係で乳製品の係りとなり、主として販売を担当したわけです。
育児相談所でPR
司会 当時は口コミによる宣伝が主力のようですが、そのへんはいかがでしょうか。
鈴木 お菓子のほうは相当広告に力を入れて、新聞や雑誌を利用したものですが、乳製品の広告は微々たるものですね。
新井 私は昭和7年に、いまでいうコピーライター、そのころはアドライターといっていたんですが、その仕事で森永の広告部へはいった。そして当然、練乳のほうの仕事もさせられたわけです。製菓が本業とすると、乳業のほうは副業みたいにやっていたわけで、はいって早々なので、原稿を上の人にみてもらってOKをとる仕事をやった。製菓のほうは松崎社長のOKをとり、たしか乳業のほうは河井専務のところへ持って行ったわけです。河井専務と松崎社長のことを、新入社員だった私は、たいへんこわい人のように思っていた。…(中略)…入社早々、森永練乳で「母と子の写真募集」というのをやった。その当時、森永練乳としてはじめて新聞広告をつくりまして…。写真のレイアウトは、いま博報堂にいっている今泉さんがやりまして、私がそのコピーを書いたわけです。応募した母と子の写真を審査して当選発表をし、それからまた新聞広告を出した。これを忘れないのはなぜかといいますと、後日談があるからなんです。その入賞した作品を、次の新聞広告のなかで使ったわけですよ。版権とかも話し合わず、黙って使ったわけです。その写真のモデルになった人から突然、内容証明で抗議をつきつけられました。…(中略)…おまえ行けということになっちゃって、あやまりにいったわけです。…(中略)…当時高田義一郎先生が顧問みたいな形でいました。
鈴木 高田義一郎という人は、小児科の看板を出していましたけれども、ほんとうは法医学専門の博士なんですよ。その当時、雑誌などに執筆したりしてマスコミのほうで売れていた。
破天荒な赤ちゃん診療車
新井 最近の森永ドライミルクの広告で林髞さんを登場させたように、すでにそのころから森永ではやっていたんですね。育児相談所をつくり、そして看板をあげてPRし、そこへ1週のうち幾日か高田さんがみえて、相談に応ずるということをやっていた。
鈴木 大いに宣伝したけど、なかなか各地からここまでこないんですよ。芝とか品川とか、この付近のおかあさんが、育児相談にみえたけど、それを知らせるのに、新聞雑誌、あるいは薬局へ、森永でこういうことをやっているというチラシを配ったりして、週に2回先生に来てもらった。
新井 やはりそのころとしては、たいへん新しいやりかたをやろうとする意欲が一部にあったことは事実です。
鈴木 たしかにこのようなことは、ほかでまねのできない画期的なやり方ではあった。その後、育児相談診療車をつくったが、その当時としては破天荒なことでした。1練乳会社が診療車を2台つくって、全国を回ったんです。特約店の小僧さんを集めて、当時「森永ドライミルクのできるまで」という映画があったから、それをみせたり、座談会的に話し合ったりして、粉乳の知識を普及したものです。当時は河井さんがすべての実権を握っており、河井さんがこのような企画にうんといわなければ金が出なかったときです。…(中略)…
医師の権威をつかった「粉ミルク」の販売促進
法医学の医師に小児科の看板をださせて育児相談をさせる…、森永自身が「破天荒」だというのだから、世話ない。乳児毒殺に比べると、この程度のことは、もはや面白半分で語れるネタだということか。
だが、この「やりかた」とは、かみ砕けば、医師の肩書を利用して粉ミルクを宣伝させ、販売促進に利用するという手法だ。「権威」をつかった世論の操縦がいかに効果的かを、この会社は、よく知っている。いまでは、健康食品や機能性表示食品などで、医師を使うことは常態化しているが、この草分けが、森永であるというわけである。
じっさいこれが、ドライミルクによる被害が拡大した背景にある。さらに森永ヒ素ミルク中毒事件の封殺にも医者を有効活用したことをよく自覚した上で、自画自賛している。少々長い拙文であるが、「事件解説」の項で森永事件の概要を知られた方々には、ここで語られる内容の本質、今現在にいたるまで続く問題の本質が何か、おわかりになろう。
粉ミルクメーカーの「育児相談」
粉ミルクの販売を目的とした育児相談は、森永が開発したと自慢している。ちなみに、当資料館は、2010年頃、全国チェーンのベビー用品専門店Nの壁に、粉ミルクメーカーが担当している「育児相談会」のポスターが貼ってあるとの報告を市民からうけている。粉ミルクの販売促進のための「育児相談」がいまだに行われている。
対談はさらに熱を帯びていく…
