まことの「キミ」はこの世になく:僕は「セカイ系」未満者である
「キミとボク」は「おともだち」
ファミコンソフト『MOTHER』はなぜ温かみのある仮想現実を生み出しているのか?
それはRPGで言うパーティメンバーを「おともだち」と表現したところが大きいと思う。
付け焼き刃の共同幻想論を振りかざすと、それは初期的な「対幻想」すなわち「キミとボク」の関係だ。
主人公は自宅を出て世界を旅し、「おともだち」に出会う。
最大4人の同じ方向を向いた「集団」となってラスボス・ギーグとその手先を相手にする。
続編『MOTHER2 ギーグの逆襲』に至っては、各地で絆を結んだ人たちの祈りとプレイヤー自身がラスボス撃破の糸口となる。
運命をともにする「共同幻想」をもったその「集団」がしかし、内紛で分裂したりすることはない。
そこまで描くことは文芸的には評価されるが、エンターテインメントには苦々しい後味を残すからだ。
まず「対幻想」からやり直す。
コロナ禍でコミュニティを失った人たちがいま改めて「キミとボク」の関係性にフォーマット(初期化)しようとしている、という。
じゃあ僕はなんなのか。
元来、自己幻想・対幻想・共同幻想の3つは「ここでこう」と決まったものではなく、風に舞っている。
僕自身「ニコニコ動画をこよなく愛する中坊(ニコ厨)」であった頃がいちばん、共同幻想クラウドに溶けたなにか、ではあったかもしれない。
「身近になんでも相談できる人はいますか?」
と、ストレステストのチェック項目にはある。
けれど、相談するのもされるのも、個人の主張は個人主義の発露だと感じるから、お互いにとりあえずのリアクションは返しても、内心ではうとましく思うだろうと考える。
果たしてその関係は「おともだち」なのか?
あるいはゼロ年代に飽和した「セカイ系」のボーイ・ミーツ・ガールもののように、恋愛や(比喩としての)セックスがないと「対幻想」とは呼べない、とした偏見を抱いているとも言える。
そんな肉体関係は31年生きてきて味わったこともない。
それは味わおうとしたこともないからで、つまり奥手が原因なのだと指さされれば、まったくもってそのとおりなのだが。
僕の幼児期における体験は『ポケモン』が占める。
そのゲームソフトが演出するのは「仮想の対幻想」だ、といまならわかる。
たしかに『ポケモン』で通信交換する、世界中のユーザーと対戦するという遊びはある。
だが、本質的にゲームは家でひとりで遊ぶものだし、ゲーム会社がどれほど「集団(マルチ)」向けゲームを出しても、友達がいなければ遊べない。
しかし現代のストリーマーとそのグループが華やかで温かみをもって感じられるのは、まさに「対幻想」が集まって「共同幻想」に昇華しているからに他ならない。
だが、それを見ている「視聴者」は有象無象の「コメント」の群れであり、サポーターという意味では同じ方向を向いているのだけど、それぞれが互いに対幻想を結び合っているわけではない。
この「推し文化」のいびつさを、ようやっと言語化してやれる。
推し文化は究極の個人主義にまで発展する(同担拒否ということばもあるだろう)が、その「推し」はトップダウン式の、つまり「犬ぞり」のような対幻想集団を生み出すカリスマなのだ。
ほとんどの人々は、対幻想に「ヴァーチャル(仮想)」も「リアル(現実)」も区別しない。
しかし「炎上」のメカニズムを見れば、対幻想の封鎖もまた仮想も現実も区別しないことがわかる。
「推し」を責める、あるいは擁護する二項対立になる「炎上」は、「推し」にまつわる他人は自分に関係ない、という意識が引き起こす。
集団主義≒共同幻想は必ずしも人を幸せにしない。
しかし人間関係を対幻想に初期化するには共同幻想が崩壊する痛みがある。
アニメ『宇宙戦艦ヤマト』のクライマックスで古代進が「我々がしなければならなかったのは戦うことじゃない、愛し合うことだった」と慟哭するように。
なお、「対幻想を封鎖する」という言い方は僕の独自解釈だ。
これ以外にも自作した造語は太字にしてみたので、あまり専門用語と思って拡散しないでほしい。
そのようにして対幻想において仮想も現実も等価値なら、たとえば家族関係とポケモンとの関係も等価値になる。
実際に「映画で人間が死ぬよりペットが死ぬほうが嫌だ」と感じる人がいる。
対幻想の重みづけはそれぞれの主体によるところが大きい。
1997年12月16日に発生したポケモンショックの折、世界中の子供たちが「ピカチュウは悪くない」と絶叫した。
651人の被害者よりもポケモンを守ろうとした。
子供たちとポケモンの対幻想が封鎖されなくなったターニングポイントが、まさにあの時だったと言える。
それだけ、子供にとっての対幻想は生命にかかわる問題なのだ。
突き詰めて考えれば、対幻想なき孤独な子供は野獣に食われて死ぬからであろうが。
しかし僕らはなかなか死ななくなった。
そこに僕らの不幸の核心がある。
◆◆◆きみはオシイストになれるか◆◆◆
きっと、押井守はこれらの思索と同じ領域をとうに過ぎている。
だから平然と「友だちはいらない」と言うし、熱海で隠居しながら犬を飼い、ゲームで一人遊んでいる。
それでも、押井守をアナーキストとは呼べまい。
真の無政府状態では人は生きていけないことを、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』で描いてみせたのだから。
◆◆◆2026年の「プロヘメ」ショック◆◆◆
とうに壊れてしまった僕たちの日常社会で、幼児体験的なミラーリングから異星人と対幻想を共有する『プロジェクト・ヘイル・メアリー』が生まれた。
かつて「オトナになれ」と叩かれて育った僕たちが、いま子供のまねをして素朴なつながりを取り戻そうとしている。
注意すべきは、僕らがまったく「子供」に戻ってしまうと、本当の子供たちは大変困ってしまうということだ。
その混乱は『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』に描かれている。
まことの「キミ」はこの世になく
なんとなくスクールカーストなるものの底辺にいることを自覚しながら、僕は授業中もそうでない時も「妄想」にふけった。
専門的知識によれば「自己幻想」の範疇であろうが、僕は「現実にいる僕」と「空想の世界にいる『キミ』」との間に対幻想を結んだと信じて疑わなかった。
「空想の世界にいる『キミ』」のことを哲学者ふうに言うと「外世他者表象(がいせたしゃひょうしょう)」、と言う。
現代において対幻想は仮想も現実も等価値なのだから、裏を返せば対幻想は自作自演(捏造)できるのだ。
現実のアナログな人間関係と、インターネットを通じたデジタルな人間関係と、個人の脳内で捏造された外世他者表象との人間関係が等価値になる。
そうして僕は、ひとりの個人主義者となった。
さらに独善的な性格に育つにはまた別にさまざまな要因があったかもしれないが、僕のナルシシズムは僕だけのものであって、他人から見た評価なんていらない。
いまでも自分でなにか手作りしているところを他人に見られるとつい隠してしまうのは、そこに他人の評価を差し挟んでほしくないのと、自分の作品が周りにあるものと比較して劣っていると感じるコンプレックスが強いからだ。
結局、ひとかどのクリエイターと呼ばれるひとびとはそのような肥大化した自己幻想が崩壊する痛みに触れつつも他者と対話して対幻想を結び、やがて共同幻想を等しくする「集団」になってゆくものなのだろうな、と理解できる。
自己幻想に引きこもらない。
共同幻想になじまない。
対幻想しかない。
それが「フリーランス」というものだと仮に定義すると、『マンダロリアン』など、まるで西部劇のアウトローのような主人公が活躍するドラマが人気となる背景が見えてくるように思われるが、いかがだろうか。
(終)
いいなと思ったら応援しよう!
お読みいただきありがとうございました。今後とも応援よろしくお願いします。活動の励みになります。