薄愛主義
それはずっと昔のこと。
遊び相手だった年上のお兄さんが「博愛主義」を自称していた。
人の事情に深く入らない。自分の事情に深く入らせない。その場限りのひとときを楽しむ生き物。薄氷の上に成り立つ関係。その人の仕事柄、そうせざるを得ない部分もあったと思う。海に流されるような生き方しか持ち得ない人だった。
けれど、当時の自分はそこそこに意味が理解できず、もったいないと考えていた。当時の自分はまだ、人との結びつきが強くあれば在るほどいいことなのだと思っていた。
気付けばその人の年齢も越し、たくさんの経験を経た今だからこそ思うのは、他人に深く踏み入らないのは存外心地よい、ということだ。
別に今になっても、自分の遊び方はほとんど変わっていない。
その時だけの快楽を、その時だけの出会いを楽しむこともあるし、続く仲もあれば、一瞬で終わる関係もある。
それに存在意義を見出すことはある種の自罰行為だと分かっていても、このスタンスはずっと変わらないし、今後も変わることはないだろう。
気付けば自分自身も、その人と似たような、ずいぶん特殊な回路で人と関わっている。
感情が強く動くのは、フィクションの中の人物に対してが圧倒的に多く、現実で誰かに「いいな」と思った瞬間から、逃げたくなってしまう。相手がこちらに好意を返してきた途端、恐怖が勝ち、熱が冷めることも少なくない。
自分にとっての理想の恋は、いつもフィクションの中にしか存在しない。現実世界は、自分の思考だけでなく相手の思考によっても綴られていくノンフィクションだ。予測不能で、傷つく可能性に満ちている。
「本当は深く繋がれない自分」を自覚した上で、浅い関係に逃げていると言えば、そうなるのだろう。
画面の向こう側にいる相手を「好きになる」ことは、自分の中では理屈が通っていて、世間一般的に見れば異様なことだ。
だから、血の通った人間で本当に心を許せる相手なんて、滅多に現れない。強固な信頼と長い時間をかけて、ようやく「好きかも」と感じる程度だ。
結局、ほとんどの関係は「その場だけの快楽と会話と肌の触れ合い」で完結する。
好意を返されると息苦しくなる感覚も、長く付き合ってきた。リスロマンティックという言葉を知ったときは、静かに頷いたものだ。「返されない恋」なら心地よく想えていたのに、相手が近づいてくるだけで世界が息苦しくなる。
深い絆を求めて何度も傷つき、消耗し続けるより、よほど自分に優しい生き方だと思える。
でも、完全に割り切れているわけではない。静かな夜中や、ふとした瞬間に、胸の奥が疼く。「誰かに本当の意味で知られたい」「理解されたい」「深く愛されたい」という、根源的な渇望が顔を出す。
その疼きは、浅い関係で満たされることのない、ぽっかりと開いた穴のような感覚だ。フィクションに浸れば一時的に和らぐものの、物語が終わった後の静寂の中で、再び浮かび上がる。
現世への渇望と、諦観。
本当は怖いのだ。
深く知られることを望む、ということは、深く傷つく可能性を自ら受け入れることでもあるから。
信頼を築くのに途方もない時間を要する。
好意を返されると途端に逃げ出したくなる。
この回路を抱えたまま、"誰か"と「本当の関係」を築ける日が本当に来るのだろうか。
そんな疑問と不安を抱きながら、それでも自分は今日も同じ距離感を選んでしまう。その場限りのひとときを、丁寧に汲んで味わう。
他人に深く踏み入らず、自分からも深く入らせない。
それが、今の自分なりの薄愛主義なのかもしれない。
そして、おそらくこれからも、ずっと。
