「女性らしさ」に抗って生きる
自分はノンバイナリーを自認している。
代名詞はThey/themだし、インスタのプロフィールにはノンバイナリー(ジェンダー不定性)を明記している。が、それを読んで意味が理解できるフォロワーはごく一握りだろう。
ノンバイナリーとは
ノンバイナリー(non-binary)とは、(法律上の性*に関係なく)自身の性自認・性表現に「男性」「女性」といった枠組みをあてはめようとしないセクシュアリティを指します。
バイナリー(binary)は、「ジェンダーバイナリー(gender binary)=男性か女性の二択のみで、生物的性で性別を分類する見解」から来ています。これが無い、つまり男女二元論にとらわれないというのが、ノンバイナリーの意味するところの核心です。
性別を聞かれて「女性です!」「男性です!」とはっきり答えられる人は、きっと「見れば分かることをなぜ聞くのか」と思っているはずだ。
人は多くの場合、性自認と性表現が一致している。外見として認識してほしい性別と、内面として認識してほしい性別(シスジェンダー)が男性か女性のどちらかで、それが当たり前のものとして生きてきたからだ。
唐突に話が変わるが、相手を見てSかMか当てられる人はどのくらいいるだろうか。
自分が誰かからサドマゾどちらかという質問を受けて、「見れば分かることをなぜ聞くのか」と思う人はどのくらいいるだろうか。
ドミナントとサブミッシブ(D/s)だってそうだ、主従のどちらかだなんて一見して分かるものではない。
そもそも概念そのものを知らない人もいれば、無自覚にそうであることが当たり前になっていて、その形に名前があることを知らない人もいるだろう。
会話を重ねるうちに傾向は掴めても、どういった性的嗜好(Sexual Preference)を持っているかを明確に当てることはできないだろう。
性自認や性表現、性的指向(Sexual Orientation)だって、性的嗜好と一緒で外見で確実に見分けがつくものではないはずだ。
その外見や内面が「男性や女性の枠組みに当てはまらない」のが、自分という存在である。
Xジェンダー/クィアとノンバイナリーの違いについては引用したリンク先を参照してほしいが、自分が考える性別にも、自分が在りたい性別も、どちらでもないからノンバイナリーを名乗っている。トランス男性/シス女性としても生きている感覚はないし、振る舞いもメイクも、言動だってどちらかに固定されるものではないと考えている。
社会的に女性として生きたほうが都合がいいから女性の外見をしているだけで、自分の身体を好きに作り変えて卵巣か精巣が選べるとしたら、きっと両方とも選ばないだろう。
それを踏まえて、自分という存在を紐解いてみる。
まず、スカートが苦手だ。
コーディネートに迷ってスカートを履いても、2分も経たずに脱いでいる。
スカートを履いている自分に違和感を覚えるし、普段の装いでスカートを履くことがない。学生の頃はスカートを履くことで女性であることを強いられている感覚だったし、社会に出てからほぼずっとパンツスタイルだ。
ただ、社会的女性として存在することを求められる場ではスカートは履くし、スカートのほうが似合う装いもある。自分がスカートを履く場面は極めて限定的である。
次に、女性らしさを求められることが苦手だ。
それが仕事ならば仕方がないと割り切る部分もあれば、それって本当に今必要な「女性らしさ」ですか?と思うこともある。言葉、仕草、所作に女性らしさを求めて逐一言われるのは本当に苦手だ。
以前、わざと女性らしく振る舞わないだけでしょう?と言われたことがある。概ね合っているが、自分の答えは質問者が意図したものではないと思う。
AとBのふたつで区別されたくないと言っているのに、世の中が無意識に仕切った箱の中に居ることが嫌になるのだ。
自分が女性らしさを振り回すときは、それを武器として生きるときだけ。それ以外の時間は、どちらでもない人間として生きていきたい。ただそれだけ。常に女性でいなければならないという無意識の概念が、とても嫌いだ。
そして、状況に応じてその場の性表現を選んでいる。
例えば誰かと飲みに行くときは男性寄りとして存在しているし、恋愛/性的な意味で気になる人と出かけるときは女性寄りとして存在する。社会では一応女性として振る舞うが、普段の生活に女性らしい思考はあまりない。
社会的には女性なので「お姉さん」と呼ばれることに違和感はないが、「あなたは女性でしょ」と決めつけられるのはむっとする。
スカートの話とも共通するが、そのとき与えられた振る舞い方に応じて、心は流動的に傾く。ロールプレイに近いのかもしれない。
さらに言えば、自分の肉体への違和感(身体違和)が強い。
毎月やってくるうんざりするような腹痛も、その根源になっている臓器たちも、なくなってしまえばいいと思っている。だが、決してその代わりの臓器がほしいわけではない。「ない」ほうがしっくりくるのだ。
普段の服装は、極力胸部が目立ちにくいものが多い。胸部のあるなしで性別が決まる世の中であれば、自分は敢えてそこにあるものを無いことにする。それで仮に男性と間違えられたとして、それが外見で判断できる社会性であるならば仕方がないと思うだろう。
敢えて明記をするが、恋愛対象は「性自認が男性の人」で、クィアとは異なる所以が恋愛対象にある。
ただ、リスロマンティック/フィクトロマンティックも持ち合わせており、性的対象は自分の中でもあいまいで、クエスチョニングな部分も多い。
こうしてつらつらと文字を並べて、「じゃあどうやって接すればいいのか」と思う人もいるだろう。
ただその場に合わせて生きている自分を、そのまま受け入れてほしい。受け入れるのが嫌なら会話しなくていい。人として向き合えばいい、それだけである。
ノンバイナリーとして生きること
自分がノンバイナリーであるという認識をしてから、とても息がしやすくなった。
今まで自分が感じていた違和感や強い拒絶は、自分がおかしいのではなくて、自分に取り付けるラベルが誤っていたのだと知ることができた。そして繰り返しになってしまうが、その自分が取り付けたラベルを敢えて意識してほしいわけでもない。
ただそれでも社会的には女性として振る舞うことが多いので、ぱっと見は女性に見えるだろう。それでいいと思う。
生きているうちに、社会的にノンバイナリーとして受け入れられる日はきっとこない。戸籍や住民票の中点に丸がつくこともない。
今自分を理解してくれる相手と、生まれ変わったその先で、二元論など投げ捨てて生きられたらそれでいいのだ。
