【創作ミステリー】スノードームの祈り③白峯あかり:音の行方
創作ミステリーの続きです。水曜と土曜夜9時に更新すると言っておきながら、前回は土壇場で修正箇所が見つかって結局遅刻しました😇
ざっくりとした構成のまま進んでるので都度過去回を修正したりするかもです…というかすでにしてる🫠
前回→②南雲靖久:金曜日の使者
次回→④南雲靖久:夜明けと共に
白峯あかり:音の行方
春は訪れた。
私は、受験に勝った。
祖父母と先生が喜んだ。
——母は、お金がかかると嘆いていた。
音大時代のことは、正直あまり思い出したくない。進学してからの私は、いつも抜け殻のようだったから。
知らない土地で初めて一人で暮らす生活は苦労の連続で、何もかもが馴染まなかった。
東京は人がいっぱいで、みんな足早で、私はついて行くことも出来ず人混みに埋もれるばかりだった。
学校生活も同じ。苦労して入学したものの、私より凄い人なんてたくさんいて、誰もが自信に満ち溢れていて。私なんかとは、比べるのもおこがましいほどだった。
幼い頃から英才教育を受けていただとか、親が音楽家だとか。環境や才能に恵まれ、その上で努力を重ねる優れた人たちばかりだった。
私、何でここにいるんだろう。
肩を並べて学ぶ毎日に、そんな気持ちがずっとまとわりついていた。周囲の演奏は音楽という名の自己主張で、力強さ、華やかさ、輝かしさに溢れ、まるで人生を謳歌しているようだった。
それに比べて私のピアノは、静かで、地味で、暗くて。重く冷たい気持ちばかりが滲み出ているように思えた。
受験の時、試験官のある先生がくれた、「あなたの音は心に響くわね」という評価が嬉しかった。私のピアノが聴いてくれる人に届くのかと喜んだのも——束の間だった。
音楽の世界では、届くだけでは“価値”にならない。
私は、音楽の世界の厳しさを知った。
数少ないスポットライトの下の席を、夢見る者たちは奪い合う。多くの天才鬼才秀才が、それぞれ自分の武器を掲げ、しのぎを削り追い落としあい、自らの成功を勝ち取ろうとしている。
——そんな戦争のような世界に、私の歩く道などなかった。
気づけば、私は自分の音がコンプレックスになっていた。私がこの人たちより優れているものなんて何ひとつない。それを思い知らされるだけの日々は、私をただただすり減らしていった。
指がいうことを聞かない。
鍵盤が鉛のように重い。
——人の音に、飲みこまれる。
ピアノを奏でるのが、苦しくなった。
学んだ技術を活かそうとしても、想いを込めようと心掛けても、すべての音はまるで金切り声みたいに耳障りだった。
キンキン、キンキンと。耳鳴りに似たそれは、弾けば弾くほど酷くなっていった。
私は——ピアニストになる夢を諦めた。
「もしかして」と自分に淡い期待を抱いたりもしたけれど、卒業までの4年間に受けたいくつかのコンクールは、どれも散々な結果だった。
けれどそんな結果は、私にとっても、祖父母にとっても、夢を諦めるための良い言い訳になった。
学費や生活費を出し続けてくれていた祖父母には、定期的に音大生活の報告の電話をしていた。それはお金を出してもらっているという義務からで、ひとりでもちゃんとやっていると、きちんと学んでいると安心させるためのものだった。
——本当は、学校の話なんてしたくなかった。自分がどれだけ惨めかなんて、話したくなかった。
だから、ずっと嘘をついていた。毎日ピアノが弾けて楽しいよって。大学に来て本当に良かったって。
でも——4年になる頃には、もう嘘はつけなかった。
私はピアニストにはなれない。
それを、伝えなければいけなかった。
「私、才能なかったみたい」
春が終わって、夏が来る頃。学内演奏会で相変わらず酷い評価だった私は、素直に祖父母に謝罪した。
「ごめんなさい。……せっかく、私のためにここまでしてくれたのに」
ふたりは、言葉に詰まっているようだった。苦しそうな沈黙の後、「あかりが頑張ったならそれでいいんだよ」と、祖父が優しく認めてくれたのだけが救いだった。
大学を卒業して、私は北海道に帰った。
母はもう好きにひとりで生きているらしく、私が挫折して帰省しようと、「あぁ、そう」としか言わなかった。
すでに私のことなど、何ひとつ関心がなかったのだろう。思えば大学4年間の間、お金を多少補助してくれるだけで、連絡が来たことは一度もなかった。私自身もまた、母に連絡しようなんて思いもしなかった。
私は職を探し、図書館で働き出した。祖父母は帰っておいでと言ってくれたが、成し遂げられなかった私がどんな顔をしていればいいのかわからず、やんわりと断った。
「もう大人だから」とひとり暮らしを選び、札幌で新しい生活を始めた。図書館の契約社員になったけれど、司書の資格がない私に出来るのは、貸出窓口の受付や本の整理など比較的簡単な仕事ばかりだった。
それでも、仕事を覚えるまでは大変だった。けれど、覚えてしまえば難しいことはない。次第に私の生活は安定し、同じような毎日の繰り返しになった。
初任給が出た日には、祖父と祖母に高めのお寿司をご馳走した。「今まで本当にありがとう」と伝えたら、ふたりは涙を流した。
「いいんだよ。おじいちゃんとおばあちゃんは、あかりが元気に明るく暮らしてくれればそれでいいんだ」
「あかりのピアノは、おばあちゃんにとっては世界で一番よ。それは変わらないからね」
励ましてくれるふたりの顔を見て、歳を取ったなと、ふと思った。離れて暮らしていた4年の間、確実に時間は流れていたのだと、ふたりの顔に刻まれた新しいシワの数を見て感じた。
こんなことひとつで、恩返しになんてならないけれど。これから先の人生で、少しずつでもふたりに恩を返していけたらと思った。ふたりが元気なうちに、返せるものは返しておきたいと思った。
——私は、ピアノを弾かなくなった。
広さもない、防音設備もない一人暮らしのアパートにピアノなんて置けるはずはなく、私は弾き初めて以降、初めてピアノがそばにない生活を始めた。
……ピアノがない生活なんて、考えられなかったはずなのに。心のどこかで、視界から消えたピアノに安心している私がいた。
——私はもう、自分の音を聞きたくなかった。
ピアノが楽しいという気持ちは、遠いどこかに消えてしまったようだった。唯一の友達だと思っていたピアノは、この頃はもう、私を傷つける他人でしかなかった。
鳴らせば、音は尖った針のように私を刺した。
大学時代のピアノは、ずっと私に告げていた。
あかりのピアノに、『価値』なんてないんだよと。
あかりの気持ちは、どこにも届かないんだよと。
ずっと胸を占めていたピアノの場所は、ぽっかりと抜け落ちたあと、何が代わりになるわけでもなくただ空洞であり続けた。
社会人として過ごす日々の中、風通しの良いその空洞には、ふとした瞬間に虚しさという冷たい風が吹き抜けることがあった。けれど私は、そんな小さな揺れを、見ないふりして過ごすことを選んだ。
このまま、ピアノに触れることなく生きていくんだろう。
それでいいと思っていた。
——なのに。
「白峯さん、大学でピアノやってたんだよね?今度こどものための演奏会やるんだけど、そこでピアノを弾いてくれないかな?」
そう言って館長が渡してきた楽譜は——「きらきら星」だった。
『ピアノ、触ってみる?』
ふと鮮やかに、ピアノを教えてくれた担任の先生の顔が浮かんだ。同時に——初めてピアノに触れた時の気持ちが、強く叩かれた弦のように打ち震えた。
断れもせず、楽譜を受け取った。単純で、簡単な音符の並び。五線譜に並ぶのは二部音符と四分音符だけで、その素直さになぜか涙が溢れそうになった。
——こんな気持ち、忘れていたはずなのに。
また弾きたいと思ってしまった。
もう一度、楽しかったあの頃に戻りたいと思ってしまった。
……気がつけば、私は引き受けていた。
一度きりのイベント。地域主催の小規模な催しは、小さな子供や親御さん数組程度の観客数で、曲だって子供向けの簡単なものばかり。
気負う必要はないよと館長に言われ、自分にもそう言い聞かせた。
なのに——私はその日から、居ても立っても居られなくなった。
ピアノに触れたい。
でも、自分の部屋にもうピアノはない。祖父母の実家にはまだアップライトピアノがあるけれど、ふたりの前でピアノをまた弾いて、変な期待を持たせることはしたくなかった。
「白峯さん。ピアノの練習する場所探してるなら知り合いを紹介しようか。大学時代の友人に、楽器屋やってるヤツがいるんだ」
悩んでいると、ある日館長が、知り合いの人が営む小さな楽器屋を紹介してくれた。街から少し外れた場所にあるそのお店は、ショーウィンドウのそばに試奏用のアップライトピアノが置かれていて、空いてる時なら練習に使ってくれていいと快諾してくれたのだ。
私は館長とお店の方の厚意に甘えて、弾かせてもらうことにした。
休みの日に教えてもらったお店に行くと、館長の大学時代の同級生だという店長さんが笑顔で迎えてくれた。
「見ての通り、ウチは客が少ないからさ。気兼ねせずに弾いてくれていいよ」
そう勧められ、私は緊張しながらもピアノの前に座った。すぐ横はガラス張りになっていて、通りが見える。人が行き来していて、チラチラと通り過ぎる視線が少し怖くもあった。
だけど——鍵盤に指を置いた瞬間、全てが遠ざかった気がした。
ポーン、と。
叩いた鍵盤が、懐かしく笑う。
私の呼びかけに、応えるように。
再会を喜び合うように、私は夢中でピアノを弾いた。
楽しくて、嬉しくて。
いつの間にか私は、笑顔になっていた。
——ああ、やっぱり、私はピアノが好きなんだ。
——そう思った瞬間、ガラスの向こうに立つ、ひとりの男の人と目が合った。
瞬きも忘れて、私を見つめる人。なぜかすごく驚いたような顔をしているのが不思議だったけれど、その視線にあったのは純粋な驚きで、決して嫌なものじゃなかった。
いつもならピアノに集中して目に入らないはずなのに、どうしてだろう。その人の姿だけは、目に入った。
それが、彼と出逢った瞬間。
私を変える人。私が初めて好きになる人。
そして私が——殺すことになる人、だった。
