【創作ミステリー】スノードームの祈り① 白峯あかり:プレリュード
創作ミステリーの続きです。プロローグからの続きで、白峯あかりの視点となります。
これから完結まで、毎週水曜日と土曜日に更新していく予定です。最後までお付き合いいただけたら嬉しいです。
前回→プロローグ
次回→②南雲靖久:金曜日の使者
白峯あかり:プレリュード
あの頃の私は、何も知らなかった。
小学生になったばかりの頃、国語の授業で作文を書かされたことがある。
テーマは、「わたしのおとうさんとおかあさん」。どの学校でも一度は書かされるだろう、メジャーなテーマだと思う。
当時のクラスのみんなが、どんな発表をしていたのかは覚えていない。けれど自分が書いた内容だけは、今でもハッキリ覚えている。
『わたしのおとうさんとおかあさんは、なかがわるいです』
その一文から始まる作文を読み上げた時、先生の顔とクラスの空気が淀んだのを感じた。
私はただありのまま、素直に書いただけなのに。当時の私は、どうしてみんなが気まずそうにしているのかがわからなかった。
両親の不仲というのが一般的ではなく、世間的には恥ずべきことであり、大っぴらに語るべきことではないと知ったのは、それからすぐのことだった。
「何でこんなことを書いたの」と、母がひどく私を叱ったから。私は、「ごめんなさい」と謝るしかなかった。
父と母は、私が物心ついた時から不仲だった。いつからそうなってしまったのか、なぜそうなってしまったのかはわからない。
理由はひとつではなかったのだと思う。でもその理由のひとつに、ふたりの仕事が忙しかったからというのは、確実にあったのだと思う。
ひとりっ子の私は、いつも家にひとりだった。夕方を過ぎて父や母が帰ってきたかと思うと、父からは母の、母からは父の愚痴をよく聞かされた。私の話を聞いてもらえることはなかった。
二人が離婚すると言い出したのは、私が中学生になる頃。この頃にはもう父が家に帰ってくることはほとんどなく、私は自然と母について行くことになった。
離婚すると告げられた時、「ああ、そうなんだ」としか思わなかった。むしろ、よく今日まで持ったなとすら思ったくらいだ。
私と母は引っ越し、祖父と祖母の家で暮らした。母は相変わらず仕事で忙しかったが、祖父母が居たため、ひとりで留守番をすることは無くなった。
けれど、ほとんど喋らない私の扱いに困ったのだろう。祖父母の「可哀想な孫」という腫れ物扱いは、同じ家に住んでなお、距離のあるものだった。
住む場所が変わったせいで、新しく入った中学に小学校からの友人や知り合いはいなかった。クラスが分かれても、小学校から持ち上がった人間関係は目に見える。私は部外者だった。
ひとりに慣れきっていた私は、けれどある日、ピアノに出会った。担任だった音楽の先生が、ある放課後、特別に弾き方を教えてくれたのだ。
「ピアノ、触ってみる?」
誘われて、恐る恐るピアノの前に座る先生の隣に座った。先生は私に微笑みかけると、すぐに演奏を始めた。
目の前で踊る指の力強さと、流れるように奏でられる鍵盤の音。
私はいつの間にか、夢中で見入っていた。
元々音楽は好きだった。歌うことは得意じゃなかったけど、鍵盤ハーモニカやリコーダーなどの楽器を鳴らすのは好きだった。
——初めて弾いた時の感覚は、今でも覚えている。
指先が叩く鍵盤の重さ。
放課後の静まり返った音楽室に響いた音。
隣に座る、先生の笑顔。
ピアノの音は、綺麗で優しかった。ずっと聴いていたくて、私は辿々しい指で弾き続けた。初心者用にと「きらきら星」の楽譜を貰って、その日から音楽室が空いている放課後は通い詰めた。
先生はしばらく付き合ってくれていたけど、そのうち、付き合ってはくれなくなった。「また今度ね」と言った笑顔がやんわりと困っていたのは、たぶん、無理をして付き合ってくれていたからだと思う。学校の先生だって、暇じゃないから。
私は、ひとりになっても弾き続けた。繰り返し繰り返し練習して、楽譜を読む練習もして、音楽の教科書にある曲をたくさん弾けるようになった。
ピアノの音は、私の言葉になった。喋り下手な私の代わりに、旋律は抱えた気持ちを表してくれる。
楽しい曲を弾くと楽しくなった。悲しい曲を弾くと悲しくなった。
奏でれば、ピアノはどんな気持ちも分かち合ってくれる。叩かれ震える弦は、私の心そのものだった。
ピアノは、私の一番の理解者であり、表現者であり——友達だった。
そんな私を喜んだのは、祖父と祖母だった。
ピアノにのめり込みだした私に、ある日突然、ふたりはアップライトピアノを買い与えてくれた。私はその好意に驚いて、申し訳ないなと思ったけれど……でも、すごく嬉しかった。
「おじいちゃん、あかりの喜ぶ顔が見れて嬉しいよ」
祖父と祖母は、気前のいい人たちだった。いくらかかろうと、ピアノに関わるものは惜しげもなく私に与えてくれた。
それは同情だったのか、罪滅ぼしだったのか。でも、どんな理由であれ、私のことを考えてくれていたことに違いはない。
毎日家で弾く私の熱心さから、ついに祖父母はピアノ教室まで通わせてくれるようになった。通っていたのは、音大でピアノを専攻していたという経歴を持つ先生の個人レッスン教室だ。
先生は赤い縁のメガネが似合う、おっとりとした優しい人だった。メガネのレンズの向こうの瞳はいつも温かで、私にピアノを教えてくれた担任の先生にどこか似ていた気がする。
「間違えてもいいの。失敗してもいいの。楽しく弾くことが一番大事なのよ」
何度も同じ場所で指がつかえる私に、そう優しく微笑んでくれて。落ち込みかけたり、嫌になりそうな時、いつも先生が私を救ってくれた。
それから私は、ピアノ教室に通うのが楽しみで仕方なくなった。祖父母はそんな私のピアノの上達をいつも喜んでくれた。
「あかりの将来は、世界に羽ばたくピアニストだな」なんて本気で言うから、私は「そんなの絶対無理だよ」って笑った。
……でも、ちょっとだけそうなれたらいいのにって……思ったりもしていた。
母はその頃、相変わらず仕事に傾倒していた。自分の親に子供を預け、自分がやりたいことをやりたいだけやっていた。
男の人が出来たと打ち明けてきたのは、私が高校に入ってすぐ、珍しく私を連れてご飯を食べに出かけた時だ。相手の人には奥さんがいて、でも夫婦関係はすでに冷め切っているらしい。私とその人の間にあるのは本当の愛なのだと、母は熱に浮かされた目で力説をしていた。
……そんなことは、どうでも良かった。
高校に入った後も、私はピアノ教室に通い続けていた。発表会に出て、人前で演奏もした。
人に見られるのはすごく緊張するのに、いざ弾き始めたら、私はいつもピアノのことしか見えなくなる。
集中力がすごいとよく褒められたけど、そんなに特別なことなんだろうか?みんな一緒だと思っているから、全然すごいことのようには今でも感じていない。
当時は、高校の吹奏楽部に入ることも考えた。けれどすぐに違うと感じて、体験入部一日で辞めた。
いろんな音があると、私は自分の音を奏でられなくなる。試しに合奏をした時、すぐに自分の音がわからなくなって、焦りから指が冷たく震えたのを覚えている。
私は、音楽で繋がる輪にすら入れなかった。どこまでいっても私はひとりなのだと、その頃ようやく思い知った気がする。
すっかりピアノが拠り所になっていた私に、ある日祖父母が、音大に行くことを提案してくれた。
「おじいちゃんもおばあちゃんも応援してるから。あかりは、好きなピアノの道に進んだらいいよ」
——老後のために貯めていたお金も、貰っている年金も、あかりの夢のために使いたい。
そうまで言ってくれた祖父母は、離婚後何ひとつ便りのない父親と、仕事と新しい男が命の母親よりも、よほど私のことを考えてくれていたのだと思う。
……嬉しかった。こんな私のために、そこまでしてくれようとすることが。
だから応えたかった。祖父と祖母が夢見る私になりたいと思った。
当時の私はピアノが好きすぎて四六時中弾いていたし、そのせいか、この頃が一番上達していた時期だった。先生によく褒められて、プロという道は自分に合っているのだろうと真剣に思い込んでいた。
……今思えば、私はあまりに世間を知らなさすぎた。狭い世界で得意になって、ひとりきりで舞い上がって。本気で夢が叶うと、何ひとつ疑うこともなく、そう信じていた。
ピアノ教室の先生に音大を目指すことにしたと告げると、先生は驚きながらもすごく嬉しそうに応援してくれた。
「白峯さんなら、きっと良いピアニストになれるわ」
そう言って、先生は東京の国立音大を勧めてくれた。自分はそこの出身だから、受験についてもサポートしてあげられると申し出てくれて、心強い味方を得た気分だった。
——けれど、現実は、じわじわと私を苦しくした。
私の高校はただの普通科で、ピアノを始めたのも中学からと出遅れていた。ピアノを弾く時間は多かったものの、技術も知識も不十分で、いざ受験となると、足りないものばかり思い知らされた。
先生は、熱意を持って必死に教えてくれた。絶対に受からせると、誰よりも意気込んでいた。
過去指定曲を使った実技練習。
自由曲の選び方。
初見視奏のコツ。
音楽系筆記試験のための理論や聴音。
通常筆記テストや面接、小論文まで。
あらゆる対策を教え込む先生は、もう以前の優しい先生ではなかった。赤いメガネの奥の瞳にもうあたたかさはなく、厳しく冷たい光ばかり輝いていた。
「何度同じところで間違えるの?こんなんじゃ、受験に勝てないわよ」
楽しく弾くのが一番だと言ってくれた昔の先生は、もういなかった。勝つか負けるか。ピアノはいつの間にか、競うものになっていた。受験とはそういうものなんだと言われ、そうかと納得しながらも、奏でる指は少しずつ重くなっていった気がした。
でも、挫折をした今ならわかる。きっとあの時先生は、自分の叶わなかった夢を、私に叶えて欲しかったのだろう。
祖父母と先生からの期待は、正直重いものだった。けれど後にも引けず、私は高校三年間の全てをピアノに費やした。
当然、ろくに友達なんて出来なかった。クラスでは居るのか居ないのかもわからないくらい影が薄くて、グループを作らなければいけない授業や行事は、いつも紛れたよそ者のようだった。
——それでも、頑張れば頑張るだけ、喜んでくれる人がいるから。
「あかりはすごいなぁ。こんな難しそうな曲も弾けるのか」
「おばあちゃん、あかりがコンサートする日まで死ねないわぁ。長生きしないとね」
——出来ることが増えれば、認めてくれる人がいるから。
「よくここまで出来るようになったわね、白峯さん。これならきっと受かるわ」
だから、頑張り続けた。腱鞘炎になろうと、寝不足でクマだらけになろうと、胃痛と吐き気に悩まされようとも。一日一日を、ひたすら受験のために費やし続けた。
大学でピアノを学んで、プロになって。
そう思い描きながらも——私は、それが誰の夢なのか、わからなくなっていった。
私は、何も知らなかった。
音楽の世界の広さを。厳しさを。
そして何より——自分のことを。
