【雲間月怪異譚】 第40話

【雲間月怪異譚】第40話 覆水盆に返らず


※注意※
本作『雲間月怪異譚』には、
怪異・都市伝説・因習・和風ホラー表現が含まれます。

薄暗い話や、
“じわりと嫌な感じ”のする話が苦手な方は、
どうか無理をなさらず回れ右でお願いします。

それでも覗いてくださる方は――
どうぞ、雲間の怪異譚へ。

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仕事帰りの電車の中で、運良く座れた。

仕事疲れから、シートの揺れと程よい車内温度に誘われ、私はうとうとしていた。

その時だった。

「バシャッ!」

水がぶちまけられる音で目を覚ます。

少し先で、女子高生が座っていたサラリーマンにペットボトルの水を浴びせていた。

怒りで肩を震わせる女子高生と、何が起きたのかわからないという顔のサラリーマン。

「ふざけんなよ!」

車内は一瞬で静まり返る。

誰も止めようとしない。

痴漢なのか、盗撮なのか、それとも知り合い同士の揉め事なのか。

事情がまったく見えなかったからだ。

水はサラリーマンだけでなく、両隣の乗客にも飛び散っていた。

皆、黙ってハンカチやティッシュで服を拭いている。

「謝れよ! ジジイ!」

「私は、君にそんなことをされる覚えはない。」

サラリーマンは落ち着いて答えた。

感情的なのは女子高生だけだった。

彼女は歯を食いしばり、もう一度ペットボトルの蓋を開ける。

今度は周囲の乗客が止めに入った。

「いい加減にしなさい! あなた、前の駅から乗ってきて真っ直ぐこの人の前に立ったでしょう? 彼は始発から座っていたのよ。私が見ていたんだから。」

水を浴びた隣の女性が怒鳴る。

女子高生は涙を流しながら叫んだ。

「知り合いなんかじゃない!

私は、この人の妻なの!」

車内の空気が凍った。

「……は?」

今度はサラリーマンが素っ頓狂な声をあげる。

「悪い冗談はやめてくれ。

私の妻は今、病院に入院している。

今日も見舞いの帰りなんだ。」

女子高生は首を横に振る。

「違う! 違う!

私は妻なの!

さゆりなの!」

その名前を聞いた瞬間だけ、サラリーマンの表情が変わった。

「……確かに妻は、さゆりという。

だが三十一歳だ。

君はどう見ても高校生じゃないか。」

女子高生は狂ったように首を振り続けた。

「違う……違う……。

あなたは私を忘れた……。

忘れた……。」

次の駅で駅員が駆けつけ、女子高生とサラリーマンは事情を聞くため降ろされていった。

車内に静けさが戻る。

「何だったんでしょうね。」

誰かが呟く。

「さあ……。」

私はそう答えながら、ホームへ降りていく二人を見ていた。

女子高生が首を振るたび、その顔がぶれて見えた。

一瞬だけ。

病室で長く寝込んでいるような、やつれた女性の顔が重なる。

唇だけが動く。

『どうして、私を置いていくの……』

次の瞬間には、女子高生の顔に戻っていた。

彼の奥さんは、彼が病室から帰る背中を見るたびに、寂しさを我慢していたのだろう。
愛しているが故に、悔しくて、自分を置いていく彼が許せなくて、気持ちが溢れたのかもしれない。

昔から言う。

覆水盆に返らず。

一度こぼれた水は、決して元には戻らない。

人の想いも、きっと同じなのだろう。


彼女に重なる女性の顔が何なのかは、わからない。

死期が迫る人間の怨念か生き霊か。

怪異というには、通りすがりの違和感程度の話でしたね。

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