【雲間月怪異譚】 第2話
【雲間月怪異譚】第2話 鬼の棲家編
※注意※
本作『雲間月怪異譚』には、
怪異・都市伝説・因習・和風ホラー表現が含まれます。
薄暗い話や、
“じわりと嫌な感じ”のする話が苦手な方は、
どうか無理をなさらず回れ右でお願いします。
それでも覗いてくださる方は――
どうぞ、雲間の怪異譚へ。
=====================
「これは——
母がまだ若かった頃の話です」
料亭の庭では、
雨の気配を含んだ風が竹を揺らしていた。
陽子さんは、
湯呑みに視線を落としたまま、
静かに語り始める。
⸻
時期は、
今と同じ夏に近い頃だったと思います。
まだ、
久留美流が大きく名を広め始めた頃。
同時に——
家そのものが、
閉じていった時代でもありました。
両親や親戚達は、
久留美流の名を守る事に執着し始め、
外の血を嫌い、
内側だけで全てを固めようとしていた。
そんな中で母は、
次期家元としての立場を強めるため。
そして、
久留美流そのものの後ろ盾を得るために。
ある名家へ、
政略結婚する事になったそうです。
「……」
陽子さんは、
そこで一度言葉を止めた。
だが、
その横顔には感情が見えない。
まるで、
何度も繰り返し語ってきた物語のようだった。
⸻
今でも忘れられない——
母は、
そう言っていたそうです。
広い座敷。
白無垢姿のまま、
ただ静かに座っていたと。
祝いの席とは思えないほど、
その部屋は冷えていたらしい。
外では、
夕闇と引き換えに黒雲が広がり始めていた。
やがて雷鳴が響き、
激しい雨が庭を叩く。
水煙の向こうへ、
景色が少しずつ消えていく。
それでも、
母は待っていた。
夫となる人を。
けれど——
時間だけが過ぎていく。
親戚達は、
一人、また一人と席を外し。
祝い膳も、
いつの間にか片付けられていった。
その頃にはもう、
座敷の向こうから両親の怒号が聞こえていたそうです。
そして。
片付けをしていた仲居達の、
ひそひそとした声で知った。
夫になるはずだった男は、
婚姻届だけを置いて。
愛人の元へ消えたのだと。
「事実婚を選んだんですって」
誰かが、
そう言ったそうです。
まるで、
花嫁本人だけを蚊帳の外へ置くように。
母は——
久留美流の象徴だった、
赤い鬼百合を抱えたまま。
涙が枯れるまで、
その場から動けなかった。
⸻
そこまで語ると、
陽子さんは静かに微笑んだ。
「……酷い話でしょう?」
だが。
その笑みは、
どこか妙に冷たかった。
「その日を境に、
母は変わったそうです」
庭の竹が、
ざわりと揺れる。
「母は、
あの日以来——
鬼百合しか生けなくなったそうです」
「……え?」
「最初は、
芸術性だと言われていました。
ですが次第に、
母の花展へ来た女性達が、
体調を崩すようになったのです」
「体調って……」
「泣き崩れたり、
突然倒れたり。
中には、
夫の浮気を疑って発狂した方もいたそうです」
冗談には聞こえなかった。
「久留美流では、
鬼百合には“女の情念を喰う花”という言い伝えがあります」
⸻
「その話が、
僕に話す内容と重なるんですか?」
正直、
僕が期待していたのは、
昼ドラみたいな愛憎劇ではない。
怪談とか、
ホラーとか。
そっちだ。
「ええ。
ここからが本題です」
陽子さんは、
食後のお茶で喉を湿らせた。
「先生は、
久留美流が何故“鬼百合”を象徴としているか、
ご存知ですか?」
「いえ。
華道の知識は全然で」
今回のイベントだって、
現地に来て初めてタイアップを知ったくらいだ。
陽子さんは、
そんな僕を見透かしたように微笑む。
「久留美流の起源は、
この土地の尼寺なんです」
「尼寺?」
「ええ。
この辺りは京都と同じく盆地で、
古くから街道の要所でした」
障子の向こうでは、
風に揺れた竹が擦れ合っている。
「ですが、
それは江戸以降の話です。
それ以前は、
戦国大名達に翻弄される不安定な土地でした」
「なるほど」
「そんな時代に、
この地の城には二人の姫がいたそうです」
陽子さんは、
静かに語る。
「本妻の娘——『朱華姫』」
「側室の娘——『瑠璃姫』」
「二人は、
都にも名が届くほど美しかったと言われています」
「うわぁ……
その時点で嫌な予感しかしないですね」
「先生は、
本当に遠慮がありませんね」
少しだけ、
陽子さんが笑った。
「都の太公様が、
側室として姫を望まれたのです」
「どちらを?」
「それが、
指定されなかったそうです」
僕は眉をひそめる。
「それ、
揉めるやつでは?」
「ええ。
城では、
本妻の娘である朱華姫を城に残し、
側室の娘である瑠璃姫を都へ送る話でまとまりかけていました」
「まあ、
普通に考えればそうなりますよね」
「ですが——
朱華姫が、
“田舎は嫌だ。都へ行きたい”
と言い出したのです」
「あー……」
思わず声が漏れる。
「戦国版SNS映え女子だ」
「先生、
たまに例えが軽すぎます」
呆れたように言いながらも、
陽子さんは少し笑っていた。
「ですが実際、
都へ行けば命の危険も減ります。
地方の城主より、
太公様の側の方が安定していると思ったのでしょう」
「それで、
どうなったんです?」
「本妻は、
娘の我儘を通そうとしました」
陽子さんの声音が、
僅かに低くなる。
「表向きには、
瑠璃姫が都へ向かった事になっています」
「表向き?」
「ですが——
本当にあの輿へ乗ったのが、
瑠璃姫だったのかは分からないのです」
「……え?」
「本妻は、
自分の娘と側室の娘を入れ替え、
朱華姫を都へ送ろうとしたと言われています」
「いやいや、
それ滅茶苦茶ですね……」
「ええ。
ですが、
その事実は城下には伏せられました」
静かな声。
「城主は最後まで、
“瑠璃姫が都へ向かった”
と触れを出したそうです」
僕は、
少し背筋が寒くなる。
「じゃあ、
本当に死んだのは——」
「分からないんです」
陽子さんは、
はっきりと言った。
「その後、
山道を進んでいた輿が山賊に襲われたそうです」
「……」
「姫は逃げ、
山奥の沼地へ追い詰められました」
雨の気配が、
少し濃くなる。
「そして——
辱めを受けるくらいならと、
自害したと言われています」
しばらく、
沈黙が落ちた。
「悲劇ですね」
僕がそう言うと、
陽子さんはゆっくり首を振った。
「いいえ。
話はここからなんです」
その瞬間。
障子の向こうで、
風が唸った。
「姫が死んだ沼地には、
それまで存在しなかった赤い百合が咲くようになったそうです」
「鬼百合……」
「ええ。
血を吸ったような赤色だったと言われています」
「でも、
瑠璃って名前なら、
青い姫のイメージですよね?」
「その通りです」
陽子さんは頷いた。
「朱華姫は紅。
瑠璃姫は青。
そう語られていました」
「つまり——」
「誰が死んだのか、
誰にも分からなくなったんです」
ぞわり、とした。
「しかも、
本妻もその後、
気が触れたと言われています」
「え?」
「毎夜、
沼地へ向かうようになり——
ある朝、
変死体で見つかったそうです」
料亭の空気が、
急に重くなった気がした。
陽子さんは、
静かに湯呑みを置く。
ことり、
と小さな音が響く。
「だからでしょうか」
その声音が、
僅かに低くなる。
「この土地には、
おかしな話が残っているんです」
僕は、
無意識に背筋を伸ばした。
来た。
やっと、
怪談の匂いがしてきた。
「鬼百合が咲く夜、
沼の近くを通った者は——」
陽子さんは、
真っ直ぐこちらを見る。
「“花嫁姿の女”を見るそうです」
障子の向こうで、
風が鳴った。
「白無垢姿で、
百合を抱えた女が、
沼の水面に立っているんです」
……いい。
急に、
空気が怪談になった。
「しかも、
その女には顔がない」
「うわ、
王道に怖いやつだ」
思わず本音が漏れる。
陽子さんは、
くすりと笑った。
だが、
目は笑っていない。
「その女を見た男は、
数日以内に必ず“女絡みの破滅”を迎えると言われています」
「女絡み?」
「婚約破棄。
愛人問題。
一家離散。
失踪。
あるいは——」
そこで、
陽子さんは言葉を止めた。
「……自殺」
ぞわり、と鳥肌が立つ。
「待ってください。
それって、
今でも続いてるんですか?」
「はい」
即答だった。
「昭和には、
駆け落ちした男性が沼で亡くなっています」
「え」
「十年前には、
不倫関係にあった市議会議員が失踪しました」
「いや、
普通に事件では?」
「見つかったそうですよ」
陽子さんは、
静かに微笑む。
「沼の中で」
嫌な沈黙が落ちた。
「しかも——
遺体の周囲には、
季節外れの鬼百合が咲いていたそうです」
……あぁ。
なるほど。
これは、
単なる地方伝承じゃない。
“今も続いている話”だ。
「でも……
それと久留美流は、
どう繋がるんです?」
その瞬間。
陽子さんの笑みが、
ほんの少しだけ消えた。
「久留美流は——」
静かな声。
「その鬼百合を、
代々“管理してきた尼寺”だったんです」
……は?
「鬼百合が増えすぎた年には、
街で女の発狂が相次いだと言われています」
「発狂?」
「突然髪を切り落としたり。
夫を刺したり。
沼へ向かって歩き続けたり」
もう、
冗談めかした空気はなかった。
「だから久留美流では、
鬼百合を“鎮める花”として扱っているんです」
「鎮める……?」
「花は、
飾るだけのものではありませんから」
その時だった。
——カタリ。
床の間で、
何かが音を立てた。
視線を向ける。
そこには——
一輪だけ。
赤黒い鬼百合が、
飾られていた。
……さっきまで、
あそこに花なんてあったか?
