【雲間月怪異譚】 第55話
【雲間月怪異譚】第55話 赤蓋
※注意※
本作『雲間月怪異譚』には、
怪異・都市伝説・因習・和風ホラー表現が含まれます。
薄暗い話や、
“じわりと嫌な感じ”のする話が苦手な方は、
どうか無理をなさらず回れ右でお願いします。
それでも覗いてくださる方は――
どうぞ、雲間の怪異譚へ。
=====================
タワーマンション最上階――六十五階。
窓の向こうに広がる街並みは、まるで精巧に作られたジオラマだった。
車は豆粒ほどの大きさしかなく、人々は動いているのかさえ判別できない。
生きた世界を見下ろしているはずなのに、不思議と現実味がない。
「……現実味がないだろう?」
窓際に立つさとりが、振り返らずに言った。
「妖怪が現実味なんて口にするのも変だけどね。」
保は苦笑する。
「ここだって虚像みたいなものじゃないか。」
さとりは小さく笑った。
「じゃあ聞こう。」
ゆっくりと保を振り返る。
「君は、エレベーターで女を見ただろう?」
その一言だけで、背筋が冷たくなった。
忘れようとしても忘れられない。
赤いワンピース。
真っ赤な唇。
裂けるように吊り上がった笑み。
女は一言も喋らなかった。
それなのに――。
「君を呼んでいる。」
そう頭の中に直接囁かれたような気がした。
だから僕は、雲外鏡爺のところへ向かった。
「……あの女を知っているの?」
保は尋ねた。
「さあ。」
さとりは肩をすくめる。
「突然現れてね。僕も迷惑している。」
その言葉には、珍しく本気の苛立ちが混じっていた。
「つまり依頼は……。」
「うん。」
さとりは保の言葉を遮る。
「君が引き取ってくれ。」
「ずいぶんな言い方だね。」
「どうせ君について行くだろう?」
「それは分からない。」
保は首を振った。
「帰って爺ちゃんに聞いてみるよ。」
「よろしく。」
まるで宅配便でも送り返すような軽い口調だった。
「じゃあ、帰って。」
ひらひらと手を振る。
保は苦笑しながらエレベーターへ向かった。
静かに扉が閉まる。
一階へ到着し、降りる直前。
保は、もう一度だけ振り返った。
誰もいない。
赤いワンピースの女も。
何も、いなかった。
⸻
保が自宅へ戻ると、玄関の前でスマートフォンを取り出した。
『今、玄関。
天然粗塩でお清めよろしく。』
送信して数秒。
ガラリ――。
引き戸が開く。
クロウは、すでに塩の袋を抱えて立っていた。
「今日は念入りにね。」
保は苦笑する。
クロウは無言で頷き、天然粗塩を保の肩、足元、背中へと惜しげもなく振り撒いた。
ぱらぱらと白い粒が夜風に舞う。
「……どう?」
保は恐る恐る聞く。
クロウはじっと保を見つめる。
そして首を傾げた。
「今日は何も憑いてない。」
「本当に?」
「うん。」
クロウほど霊感の強い人間なら見逃すはずがない。
それでも見えない。
なら、あの女は――。
今、どこにいる。
⸻
その頃。
タワーマンション六十五階。
静まり返ったワンフロア。
そこには、さとりしか住んでいない。
誰にも邪魔されず。
誰の思考も聞こえず。
孤独を愛した妖怪の住処。
それでも彼は満足しなかった。
さらに静寂を求め、
部屋の奥に、自ら無響室を造った。
世界から音を消すためだけの部屋。
風呂を上がる。
水滴を拭くこともなく、
裸のまま白い扉を開ける。
重い扉が閉まる。
世界から音が消えた。
鼓動すら遠い。
耳鳴りすら存在しない。
白一色の部屋。
白い壁。
白い床。
白い天井。
真っ白なリクライニングチェアに身体を預ける。
静寂。
ただ、それだけが満ちている。
これこそが、自分だけの世界。
そう思っていた。
ゆっくり目を閉じる。
……
……
どれほど時間が経ったのだろう。
ふと、目を開く。
目の前に、
女の顔があった。
「――っ。」
天井から、首だけを垂らしている。
黒髪が逆さに揺れ、
白い顔だけが、
さとりを見つめていた。
瞬き一つしない。
その瞬間だった。
どろり、と。
女の思考が、
さとりの頭の中へ流れ込んできた。
やめろ。
やめろ。
入ってくるな。
読めない。
いや。
読まされている。
「……や、め……ろ……」
無響室は、
その声さえ飲み込んだ。
誰にも届かない。
助けを呼んでも、
悲鳴を上げても、
六十五階には誰もいない。
女は、ケタケタと笑っていた。
口は動いていない。
それなのに、
笑い声だけが、
頭蓋骨の内側で鳴り響く。
ケタケタケタケタ……
逃げられない。
耳を塞いでも意味がない。
その笑いは、
脳の奥から聞こえてくる。
女はゆっくりと両手を伸ばした。
雪のように白い指先。
その細い手が、
さとりの首へ、
そっと添えられる。
優しく撫でるように。
そして次の瞬間――。
ぶちり。
人間では決して成し得ない怪力。
首は胴体から引き抜かれた。
真っ白な壁へ、
鮮血が扇のように噴き上がる。
白。
赤。
白。
赤。
静寂だけが支配するはずだった無響室は、
鮮やかな赤で塗り潰されていく。
音など存在しないはずなのに。
ケタケタケタケタ……
ケタケタケタケタ……
赤いワンピースの女だけが、
楽しそうに笑い続けていた。
まるで、その部屋に最初からいた住人であるかのように。
真っ白だった無響室は、鮮血に染まっていく。
六十五階。
空に一番近いその部屋は、
巨大な塔の頂に被せられた、真紅の蓋のようだった。
