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歴史推理小説 龍神 第十七章 五稜郭

割引あり


夜の海は黒く凪いでいた。夏を越え、季節は急速に秋の気配を帯び、蝦夷地の風は冷たく鋭い。だが、その冷気すらも焦熱のように感じる者たちがいた。品川沖を密かに離れた艦影――旧幕府艦隊。八隻の船団は沈黙の中、蝦夷地を目指して北へと帆を張った。
総裁・榎本武揚。その眼差しは鋼鉄の如く硬く、未来を見据えていた。
「諸君。我らは敗軍の残党にあらず。これは再生の旅路である」
艦内で榎本は将兵に告げた。隣に立つのは陸軍奉行・大鳥圭介。適塾や江川塾で学び、勝海舟の信頼を得て佐幕と開国の狭間を漂った男である。海軍奉行・荒井郁之助は士官として軍艦「開陽丸」の指揮をとり、隊列の先頭を切っていた。
そして、その中にいた男。陸軍奉行並、土方歳三。
彼の瞳には、もはや幕府はなく、近藤勇の幻も、流れる血の悔いもない。あったのは、ただ――
「この戦いで、俺は俺の最後を刻む」
斜陽に照らされた頬には、もはや悔いの影など残っていなかった。
 
船団は一路、東北の港を経由して北を目指す。仙台、松前、そして箱館。途中、会津、奥羽越列藩同盟の敗北により各地は新政府軍の支配下にあり、旧幕府軍は寄港するたびに援軍を集める必要に迫られた。
だが、それでも彼らは進む。
永井尚志、彰義隊残党、遊撃隊、そしてわずかに残ったフランス軍顧問団。ルイ=ジュール・ブリュネ大尉らはラストサムライ「武士の誇り」に心を打たれ、去るべき祖国を捨ててまでこの戦いに加わっていた。
「もはやこれは、日本の未来を決する戦ではない。しかし、魂の戦だ」
ブリュネは日記にそう記す。
蝦夷に集う男たちの顔は、誰もが「死地を求める者の面構え」であった。
 
明治元年、九月。ついに艦隊は箱館の北、鷲ノ木沖に上陸する。荒天を突いての強行上陸であったが、土方は叫んだ。
「これより、北の大地は我らが守る!新国家を樹立する。」
白刃を掲げて進軍する土方軍、大鳥率いる本隊は別動隊と連携し、城下へと圧力を加える。新政府軍は各地での敗戦続きで士気は低く、また蝦夷地の統治も手薄だった。駐屯部隊は瞬く間に敗走し、五稜郭を放棄、青森へと退避する。
まさに戦術の妙。旧幕府軍は上陸からわずか五日で箱館を制圧し、五稜郭を完全掌握した。
榎本は函館山を見渡す星型要塞の天守に立ち、つぶやいた。
「ここを、蝦夷共和国の礎とする」
艦隊を港に入港させ、物資を整え、幕臣の仲間を次々と呼び寄せる。だが、それは安寧の未来ではなかった。あくまでこれは、嵐の前の静寂である。
 
この地を「蝦夷共和国」とする構想は榎本の悲願だった。徳川家の失政を知りながら、なお旧幕臣たちを飢えさせまいとする誇りが、彼を突き動かした。
だが、その理想に賛同した者は限られていた。むしろ、幕末の戦火に疲弊し、逃げ込むように来た者たちが多かった。
その中で、土方歳三だけは違っていた。
「俺たちが守るのは、この星の城(ほしのしろ)だけじゃねぇ。武士の、心だ」
山の冷気が骨まで染みる季節。函館の街に火が灯り、五稜郭の濠には水面が凍りつき始めていた。砲座を組み、銃座を築き、士官学校を開設し、組織を整えた。まるでこれがひとつの新たな国の創建であるかのように。
 
だが、時間はなかった。
新政府軍は、敗退を恥とせず、着々と兵を整えつつあった。長州藩出身、松下村塾の俊英・山田顕義。薩摩の黒田清隆。彼ら新世代の知将たちは、旧来の兵法にとらわれず、銃と砲と西洋式軍隊を武器に大軍を集めつつあった。
大村益次郎の遺志は、今やこの若き将たちに引き継がれていた。
「五稜郭は落とせる」
そう確信する彼らの背後には、勝ち馬に乗ろうとする列藩の姿があった。世はすでに、徳川でも薩長でもなく、「新しい政府」に向かっていた。
 
そんなことは、土方歳三も、榎本武揚も、承知していた。
それでも――
「この五稜郭の星の一角が、最後に燃え尽きるまで。俺は戦う」
土方の目は静かだった。
ある夜、彼はかつての新選組隊士・中島登に語った。
「京都で流した血も、江戸で失った仲間も、みんなこの手に残ってる。俺は…この星に刻むんだよ。死に場所を探してここまで来たんじゃねぇ。生き様を遺すために、ここまで来たんだ」
 
砲声は、まだ鳴らない。
だが、海はすでに赤く染まりつつある。
それは朝焼けか、あるいは来たるべき戦火の兆しか。
空を見上げた榎本の目に、かすかに光るものがあった。
「坂本龍馬よ…君が夢見た北の開拓。我らがやろう」
彼は軍艦「開陽丸」の艦首に立ち、雪を帯び始めた蝦夷の大地を見据えた。
その星型要塞――五稜郭。
ここは、ラストサムライたちの最後の灯火となる場所。
彼らはまだ知らなかった。
来たるべき激戦が、いかに苛烈で、壮絶で、そして美しい最期を迎えることになるかを。
だが、そのとき彼らは、確かに生きていた。
志の火を胸に――。
 

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