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結婚って、名字を揃えることですか?——名前の余白

📖第一章 違和感の発火点

「あなたは、どうするつもりなの?」

理奈は、優美の言葉をすぐには理解できなかった。

カフェの窓際で、紅茶の湯気がゆっくりと揺れている。
その向こう側には、いつも通りの午後の街が広がっていた。

理奈はカップに視線を落としたまま、小さく息を吐く。

「……どうするって?」


優美は、感情を大きく動かすことなく言葉を続ける。

「名字の話よ」

その一言で、理奈の胸の奥がわずかに反応する。

名字。

それはずっと“当たり前に決まるもの”として扱われてきたはずのものだった。


隣に座る亜耶が、少しだけ空気を和らげるように笑う。

「まあでもさ、今どきはどっちでもいいんじゃない?って感じもあるしね」

その軽さに救われる気もする。
けれど同時に、どこか置き去りにされるような感覚もあった。


理奈は小さく笑ってから、言葉を選ぶ。

「別にさ、制度を否定したいわけじゃないの」

一拍置く。

「でも……自分の名字が変わることって、そんなに簡単な話かなって」


優美の視線が静かに理奈を捉える。

「簡単じゃないと思う人もいるし、そうでもない人もいるわよ」

その言い方には、正しさも否定もなかった。

ただ事実としての違いが置かれているだけだった。


理奈は、その“違い”に少しだけ引っかかる。

(そうでもない人もいる)

その言葉が、なぜか胸の奥でひっかかったまま離れない。


亜耶がカップを回しながら言う。

「私はあんまり気にしなかったな。家の名字にこだわりとかもなかったし」

軽く言ったその言葉に、理奈は一瞬だけ言葉を失う。


(気にしない)

その選択が存在すること自体は知っていたはずなのに、
それが“実際の人の言葉”として目の前にあると、急に現実味を持つ。


理奈は、自分の指先を見つめる。

(私は、なんでこんなに引っかかってるんだろう)

うまく言葉にできない感情だけが、胸の奥に沈んでいく。


優美が静かに言う。

「理奈は、ちゃんと考えてるのね」

その言葉は褒め言葉にも聞こえるし、距離を測る言葉にも聞こえる。


理奈は曖昧に笑った。

「考えてるっていうか……気になっちゃうだけ」


その瞬間、カフェの外を人が通り過ぎる。

誰かの名前を呼ぶ声。
誰かの生活の一部。

そのどれもが、当たり前に“名前を持っている”世界の風景だった。


理奈はふと気づく。

自分だけが、その“当たり前”にすっと馴染めていない気がする。


(どうして私は、こんなに気にしてるんだろう)

その問いにはまだ答えがない。

でも、確かにひとつだけ分かることがあった。


これは単なる制度の話じゃない。

“自分が自分のままでいられるかどうか”に、どこかで触れている。


理奈はカップを持ち上げる。

紅茶は少しだけ冷めていた。


窓の外では、午後の光が少しずつ傾き始めている。

その変化に気づく人もいれば、気づかない人もいる。


理奈は思う。

(私はきっと、“気づいてしまう側”なんだ)


その小さな自覚が、この物語の最初の揺れだった。

そしてその揺れは、まだ誰にも説明できないまま、静かに理奈の中で広がり始めていた。

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