あの日のまま、あなたと生きる
🌙 第1章「朝が来るだけの部屋」
カーテンの隙間から差し込む光は、いつもと同じ角度で床に落ちていた。
それだけのことなのに、環奈にはその光が、妙に遠く感じられた。
時計の針は動いている。
外では誰かが生きている。
それでも、この部屋だけは、どこか時間から取り残されているようだった。
環奈はベッドの端に座ったまま、スマートフォンを見つめていた。
画面は沈黙している。通知はない。
誰からも、何も来ない。
――いや、違う。
来ないのではない。
“来るはずだったもの”が、もう二度と来ないだけだ。
指先が、自然と引き出しに伸びる。
そこにあることを、環奈は知っている。
小さな白い箱。
少しだけ角が擦れた、ありふれた箱。
開けなくても中身は分かる。
それでも時々、確かめてしまうのは――
そこにまだ「現実」が残っている気がするからだ。
蓋を開ける。
光を受けて、小さな輪が静かにきらめいた。
冷たい金属のはずなのに、なぜかそれは、いつも少しだけ温かく見える。
環奈はそれに触れた。
指先でそっとなぞる。
「……生きてほしい、か」
声に出すと、部屋の空気がわずかに揺れた。
あの日のことは、今でもはっきりしている。
白い病室。
機械の音。
止まっていく時間の気配。
彼は笑っていた。
息をすることさえ苦しそうなのに、いつもと同じように。
「環奈、俺と一緒に生きてほしい」
たったそれだけの言葉だった。
それなのに、世界のすべてを含んでいるような声だった。
環奈はうなずいた。
――うん、と。
その瞬間、何かが確かに結ばれた気がした。
それが“最後の約束”になるなんて、思いもしなかった。
窓の外で、犬が一度だけ吠えた。
その音に、胸の奥がわずかに痛む。
環奈は指輪を箱に戻し、蓋を閉じた。
立ち上がる。
足は自然に動く。
冷蔵庫を開けても、特別なものはない。
カーテンを開ける必要も感じない。
外の世界は、もう十分知っている。
そして、もう十分すぎるほど、遠い。
それでも朝は来る。
それだけは、どうしようもなく確かなことだった。
環奈はキッチンに立ち、ただ水を飲んだ。
味はしない。
それでも喉は動く。
生きているということだけが、静かにそこに残っていた。
🌧 第2章「揺れる日常」
玄関のチャイムは、ほとんど音として認識されなかった。
環奈は、最初それを「気のせい」だと思った。
テレビもつけていない。音楽も流していない。
それでも、もう一度――
ピンポーン。
今度は少しだけ、現実味があった。
立ち上がるまでに、数秒かかった。
誰が来る理由も思い当たらないまま、環奈はドアへ向かう。
ドアスコープを覗く。
そこにいたのは、知らない人間ではなかった。
「……おー、生きてるじゃん」
軽い声。
鍵を開ける前から、すでに“入ってくることが前提”の声音だった。
環奈がドアを開けると、そこには天音が立っていた。
肩にトートバッグ。
髪は少し乱れているのに、妙に整った顔で笑っている。
「久しぶり」
「……うん」
環奈の声は、それだけだった。
天音は特に気にした様子もなく、靴を脱ぎながら言う。
「冷蔵庫、見ていい?」
返事を待たない。
昔からそういう人だった。
気づけば、天音はキッチンに立っていた。
冷蔵庫を開け、軽く息を吐く。
「うわ、何もないじゃん」
「……別に、困ってない」
「困ってない人の冷蔵庫じゃないけどね」
天音は笑って、買ってきたらしい袋を置いた。
中から野菜や卵が出てくる。
環奈はそれを見ていたが、止める理由も見つからなかった。
包丁の音が、部屋に落ちていく。
トントン、と一定のリズム。
それがこの部屋にあることが、少しだけ奇妙だった。
環奈は椅子に座ったまま、天音の背中を見ている。
「いつもこうなの?」
「何が」
「こうやって、勝手に来るの」
天音は振り向かないまま答える。
「うん。たまにね」
「……迷惑じゃないの?」
そこでようやく、天音は手を止めて振り返った。
少しだけ首をかしげる。
「迷惑って言われたら来ないけど」
間があった。
「でも、今は言わないでしょ」
断定だった。
環奈は何も言えなかった。
天音はまた包丁を動かし始める。
「ていうかさ」
軽い声。
「ちゃんと食べてる?」
「……食べてる」
「それ、嘘でしょ」
即答だった。
環奈は視線を落とす。
否定する気力もなかった。
しばらくして、食卓に簡単な料理が並んだ。
湯気が立っている。
環奈は箸を持つまでに、少し時間がかかった。
天音は向かいに座り、勝手に食べ始める。
「うん、まぁ生きてる味はするね」
「なにそれ」
「褒めてる」
そのやり取りは、妙に軽かった。
軽すぎて、逆に現実感があった。
食べ終わる頃、天音がふと天井を見ながら言った。
「ねえ」
「……なに」
「ちゃんと、生きてる?」
その言葉は、軽い調子のままだった。
なのに、少しだけ重さがあった。
環奈は答えない。
答えられなかったのではない。
答える必要が、どこにも見つからなかった。
天音はそれ以上聞かない。
代わりに、立ち上がる。
「じゃ、また来るわ」
靴を履きながら、何でもないように続ける。
「次はもうちょいマシな顔してて」
ドアが閉まる直前、天音は一度だけ振り返った。
「環奈」
呼ばれて、環奈は顔を上げる。
天音は笑っていた。
けれど、その笑顔は少しだけ優しかった。
「生きてるだけでも、悪くないよ」
そして、ドアは閉まった。
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