◆漆黒の紳士の涙 ②奇跡と後悔
サミュエルは、その日、何度も店に現れた。
昼過ぎ。まだ日差しの強い時間に一度。
夕方、影が長く伸び始めた頃にもう一度。
来店のたびに、彼は決まって同じ場所に立ち、
少しだけ首をかしげて私を見る。
「まだ難しいかな?」
その言葉に、私は毎回同じ答えを返すしかなかった。
「もう少しお時間ください」
彼は小さく頷き、「OK」とだけ言って店を出る。
携帯は持っていない。連絡手段は、
女友達の家の固定電話だけだった。
だから彼は、自分の足で状況を確かめに来るしかなかった。
そのたびに私は端末に向かい、
空席照会を叩く。
画面は、何度見ても同じ表示を返す。
——満席。
時間だけが、じりじりと削られていった。
18時を過ぎた頃、
店内のざわめきが少し落ち着いた。
カウンターの向こうでコピー機が吐き出す音がやけに大きく響く。
そのときだった。
「空席が出た!」
遥菜の声が、店内をまっすぐに貫いた。
一瞬で空気が変わる。
主任の館林も反射的に画面をのぞき込んだ。
“OK”の表示。喉が乾く。
「プリントアウトします!」
私はほとんど駆けるようにして端末を操作し、
アイテナリーを出力した。
まだ温かい紙を手に取る。
深呼吸。指先で一つひとつ確認する。
名前——よし。
便名——よし。
日程——その瞬間、胃の奥がすっと冷えた。
——違う。
視界の焦点が合わなくなる。
紙の上の数字だけが、
妙にくっきり浮かび上がる。
本来は、明日の24時発。
日付が変わってすぐの便。
けれど印字されているのは——明後日24時。
つまり、出発は2日後。
「……え」
声にならない空気だけが漏れた。
頭の中で何かが走る。
だが、どこをどう辿っても結論は同じだった。
(もう無理だ)
便は埋まっている。
もはやキャンセル待ちも現実的ではない。
私は紙を握ったまま、主任のもとへ戻った。
事情を説明した瞬間、館林の目が変わる。
「何を確認していたんだ。一番やってはいけないミスだぞ」
低く抑えた声。だが、確実に怒っていた。
彼は、普段ほとんど感情を見せない。
どんなトラブルでも、一定の温度で処理する。
その館林が、はっきりと私に怒りを向けている。
「……すみません」
口から出た言葉が、
あまりにも軽くて、自分で嫌になる。
「とにかく連絡を。来店してもらえ」
私は電話を取った。
呼び出し音。規則的な電子音が、
やけに長く感じる。
やがて留守番電話に切り替わる。
短い時間に、すべてを詰め込む。
席は確保できたこと。
ただし日程が2日ずれてしまったこと。
至急来店してほしいこと。
英語で、早口で、ほとんど息継ぎもせずに押し込んだ。
受話器を置いた瞬間、胃がきしむように痛んだ。
その間にも、館林は航空会社に直接交渉を続けていた。
だが、結果は変わらない。
やがて所長にも状況が共有され、
私は経緯を説明することになった。
そのとき、扉が開く音がした。
顔を上げる。
白い歯をのぞかせて、あの男が立っている。
サミュエルだ。
一気に呼吸が浅くなる。
私は無理やり口角を上げた。
ひきつっているのがわかる。
彼はいつものように席に座り、
穏やかに言った。
「どうだい? 僕のチケットは取れたかい?」
留守電は、まだ聞いていないらしい。
「はい……席は、確保できました。ただ——」
紙を差し出す手が、わずかに震える。
説明を始める。視線を上げることができない。
怒鳴られるかもしれない。
責められて当然だ。
頭の中で「I’m sorry」を何度も繰り返す。
「そうか。ありがとう。取れたんだね」
予想とまったく違う言葉だった。
思わず顔を上げる。
彼は少しだけ困ったように笑っていた。
「本当にありがとう。でも……困ったな」
ほんのわずかな間。
「もう今日の夜と明日の夜・・・日本にいないといけないのか」
少し悲しそうな顔をした
「空港で一日過ごせるかな。
どこか、寝れる場所を知ってる?
できれば、お金がかからないところがいいかな。
チケット代払うと残らないんだ」
軽く肩をすくめながら、彼は微笑む。
困ったように。
胸の奥を、
鈍い刃で削られるような感覚が走った。
空港周辺でどこかないか、
探してみるとつたえた。
そして明日、残りの支払いとチケットを渡す約束をする。彼は何度も「ありがとう」と言って、店を出ていった。
その背中を、私はただ見送るしかなかった。
基本的な確認。
新人の頃から何度も叩き込まれてきたこと。
それを、私は外した。
所長の前で頭を下げる。
「明日、引き渡しが終わったら報告書を」
淡々とした指示。
そのとき、隣で館林が頭を下げた。
「私も確認すべきでした。申し訳ありません」
胸が強く締めつけられる。
違う。
悪いのは、私だ。
隣の席に戻った館林に、謝罪と礼を伝えようとする。
けれど——横顔を見た瞬間、言葉は凍りついた。
氷のように静かな表情。
何も言わず、彼はそのまま帰っていった。
弁解の余地なんてない。
これはただのミスだ。
その事実だけが、重く沈む。
時間だけが過ぎていく。
何も解決しないまま。
胸の奥に残ったそれは、簡単には消えなかった。
🍡つづく🛫💼
いいなと思ったら応援しよう!
「ちょっと応援してもいいかも」と思ってくださった方へ🍡いただいたチップは、あんこの執筆燃料として大切に使わせていただきます。
