見出し画像

【短編小説】①天空の鏡― 飛び込む勇気、そして空に変わる瞬間


第1話 空を泳ぐ君を

――翔のノートより

あの瞬間、
世界は声を失った。
太陽の厳しい帯は、
珍しく穏やかで、

撫でるように水面をあやし、
夏を、ほんの一瞬だけ
眠りにつかせた。

風は凪《な》ぎ、
蝉の音だけが、
微《かす》か遠くで鳴る。

時間の長い足も、
短い足も、
ただその場で
立ち止まっていた。

―――――

校舎の裏手、
高台にひらけたプールは、
海を遥かに
見下ろす舞台のようだった。

白い飛び込み台の上に、
水瀬 舞≪みなせ まい≫
が立っている。

その姿は、
光と空の境目に滲み、
ひとつの輪郭として
さえ危うかった。

村瀬 紗良《むらせ さら》は、黙ったまま
カメラを構えている。

ファインダーに映るのは、
呼吸のように
揺れる光だけで、

色も音も、余分なものは
すべて削ぎ落とされていた。

観覧席の端で、
宮内 翔《みやうち しょう》はただ見上げていた。


胸の奥で、鼓動が夏を刻む。

(……頼む。今日は、空と喧嘩しないでくれ)

願いは声にならず、
喉の奥で丸く沈む。

舞は、息を吸った。

それだけで、
世界がひとつ緩んだ。

足裏が空気の厚みを量り、
肩の力が
静かにほどけてゆく。

踏みしめるのではなく、
空へ触れるための
「ゆるみ」をつくる。

背骨が一本、細い糸になる。
視界の青が、
少しだけ近づく。

そして、跳ぶ。

時間がやさしく間違えた。
宙に描かれた弧は、
光の筆が空を
なぞるようだった。

舞の身体が一瞬、
空と重なり、
風が息を潜める。

影が消え、色が消え、
音までもが沈む。

そして――
水面が、
花のようにひらいた。

空も木々も、草も虫も、
その一瞬に息を合わせた。
それは跳躍ではなく、
奉納の舞。

誰のためでもない、
空への祈り。

紗良のシャッターが、
そっと世界を閉じ込めた。
水の粒がレンズに触れ、

陽光の欠片が跳ね返る。
その中にあったのは
ただ、空を泳ぐ少女の輪郭。

翔は息を呑んだ。
胸の奥に、熱が満ちる。
言葉は何ひとつ、
出てこない。

ただ、掌のノートが震えていた。

(……これは、跳躍じゃない。祈りだ)

―――――

プールの水面は、
静かに波を返した。

花びらのような光が、
ひとつ、またひとつ、漂う。

誰も、拍手をしなかった。
誰も、息をしていなかった。

ただ、世界が。
祈りのあとの沈黙を保っていた。

―――――

やがて、舞が水から上がる。
堰《せ》き止められていた時間が、いっせいに流れ出すように、

歓声が遠くから近くへ、
波のように寄せてきた。

舞は振り返り、空を仰ぐ。
濡れた髪が陽光にきらめき、

その瞳には、
まだ水と空の境が
揺れていた。

翔は立ち上がり、
掌を胸に当てる。
理由もないのに、涙が滲んだ。

空は、どこまでも青かった。
その奥に、

誰にも見えない
「もう一つの舞台」が、
確かにあった。

――ここまでが、神域。
ここから、人間の温度。

―――――

タオルを肩にかけると、
舞の足首が小さく震えた。

「……見なかったことにして」
「見てない。
俺は空を見てた」

翔は笑わない。
ただ、タオルの端を差し出す角度だけを、少し整える。

それだけで、
舞は息を抜いた。

紗良はカメラを拭きながら、ささやくように言う。

「おかえり。地上へ」
「ただいま。
地上、眩しいね」

三人の間に、
静かな空気が沈んだ。

観覧席のどこかで、「すげぇ……」
という声が遅れて落ちた。

舞は耳の裏を押さえ、
照れ隠しのように
髪を結び直す。

翔は、
誰にも聞こえない声で
呟いた。

「……今のを言葉にしたら、きっと嘘になるな」

紗良が小さく笑った。
「じゃあ、写真もきっと嘘になる」

翔は、少しだけ
肩をすくめる。
「だろうな。
だから、書いて残す」

その言葉に、紗良はカメラを胸に抱えた。
舞は、まだ空を見ていた。

―――――

空と水のあいだ。
その境目には、
誰の心も映らない。

だから、人はそこへ飛ぼうとするのかもしれない。

2話へ つづく

短編小説『天空の鏡―』連載中

【完結済】短編小説『沈む七色の海〜町に希望が灯る』

【完結済】短編小説『海まで歩いて五分』全9話

【完結済】短編小説『はざま』全9話

詩の朗読は▶リズム 〜詩の小箱〜

 マガジンTOP

#青春小説 #短編小説 #友情と恋 #飛び込み競技 #空を泳ぐ #祈り #青春小説が好き #note小説

いいなと思ったら応援しよう!