【短編小説】①走り抜くこと〜誰よりも先に駆け抜ける〜
第1話 春、留年と靴ひも
三月の空気は乾いていて、
廊下に残るチョークの粉までよく見えた。
掲示板の進級予定者一覧、
その端に赤い印。
名前の横で、
春が少しだけ遠のいた気がする。
梨央は腕を組んだまま、
呼び出しの理由を思い返す。
謹慎は明けた。
ただ、欠課と成績は
冷たい数字のまま。
「奉仕活動で調整」
——教頭の声は事務的で、
救いというより手続きに近い。
割り当ては
陸上部のタイム取り。
走ることなんて、
退屈の代表格だったのに。
でも結局、
走ることになるとは・・。
校舎に
柔らかい日差しが照らし、
こんなに早い時間でも、
人がそれなりに動き出す。
顧問の早瀬はストップウォッチを首から下げ、
トラック脇の白線の外に立つ。
言葉が少ない。

隣にはカメラを提げた男子がいた。
クラスの端で、
困っていない顔を
上手にするやつ。
まさにそう言われる存在の奴。
部員A「新聞部の……?」
部員B「うん。今日だけ助っ人」
早瀬の笛が響く。
梨央の赤いシューズが砂を払う。
擦れる音が規則的に重なり、
トラックの表面だけが細かく震える。
梨央は数字を拾った。
100、200、400。
口に出すたび、
走る人の呼吸が近くなる。
ただ走っているだけなのに
胸が忙しい。
なめてるわけではないけど。

影が足元にへばりついている。
熱はまだ弱いのに、心臓だけが先に走り出す。
一本目が終わり、
靴ひもがほどけた。
走者はコースを外れて
膝に手を置く。
梨央は自分のタイムを
気にもせず、
その場でしゃがみ込む。
結び目は焦りで硬く、
指に抵抗を残した。
横でシャッターが響く。
梨央「撮るな」
悠真「顔は撮ってない。手元だけ」

淡々とした声が続く。
悠真「結び直す時間も、練習風景。それも撮影対象。」
午後のメニューはジョグに変わった。
「お前も外側、回ってみるか」
顧問の早瀬は
相変わらず言い方が簡素だ。
梨央は外周を選んだ。
梨央の足が
砂の柔らかさが重く絡み、
同時に肺がすぐ抗議する。
まだ若いのに少し情けない。
それでも足音が
背中を押してきて、
おかしくなった。
——悔しいけど長くは続かない。
止まって腰に手を当てると
視界の色が濃くなる。
またシャッターが梨央の近くで鳴る。
梨央「だから撮るなって」
悠真「顔は撮ってない」
梨央「何、撮ってるの?」
悠真「止まった線」
悠真は
ファインダーから目を離し、
ぽつりと言った。
「逃げるためじゃなく、
ただ走るために
走ってみたら。
止まって見えた景色が、
きっと動く」

乾いた喉の奥に、
水を一滴落とされたみたいに沁みた。
そんな言葉に梨央は感じた。
もう一度だけ踏み出してみる。
梨央の呼吸が、
ゆるやかにまとまり始める。
空はすっかり薄暗くなり、
星も幾つか存在感を増していく。
もう、そんな時間だ。
帰り道、梨央は広げたノートに「#1km」と書きつける。
まだ届かない目標距離の仮のタグ。
背後から静かな気配がする。
悠真「これ、今日の分」
悠真が差し出したのはプリントアウト仕立ての写真。
ローカットのスニーカー、
靴ひも、結び直す指先。
梨央「顔、写ってないじゃん」
悠真「走った証が撮りたかったんだ。他のに写ってる。」
梨央「・・・変なの。」

悠真「(走るのが)好きでも嫌いでも、どっちでもいいよ。
結び直す時間も、ちゃんと練習のうちだから」
不器用で真摯な悠真の褒め方に、なぜか言葉が止まる。
押し出す力は決して強くないが、
悠真なりの彼女に対しての優しさだろう。
——明日、もう一度。
背を向けるためじゃなく、
前へ進むために走る。
と言う気持ちが梨央の中で
強くなっていった。
【連載中】短編小説『天空の鏡』
【完結】短編小説『ブラッドオレンジに染まる・・』
【完結】短編小説『沈む七色の海〜町に希望が灯る』
