そう、マンガワンの話だけどね。司法の裁きを受け刑責を果たした者にさらに社会的制裁をくわえることは正義なの? ってやつ
世間を騒がせているマンガワンの一件。この事件に関してはぼくは深掘るつもりはないんだけど、今回の一件をきっかけにして、ほら、たまに議論になる「社会的制裁」の問題について話したい。
やはり今回もそういう意見・懸念をちらほら見かけるのだが、つまり「司法の裁きを受け刑責を果たした者、すなわち罪を償ったものに、さらに社会的制裁をくわえること」は正義だろうか、という話。そしてそれが必要悪ならば(必要悪とぼくは結論づけているのだけど)なぜ必要なのかという話。
ざっくりと事件の概要ね。2020年に児童ポルノ法により起訴され有罪判決を受けた作家が、ペンネームを変え2022年よりマンガワンにて連載を始めており、しかも出版社側もそれを知りながら黙っていたという事件。連載は中止に追い込まれた。
これはぼくがこの記事を書こうと思ったきっかけに過ぎないので、例となる事件はなんでもいいんだ。むしろ今回の事件はフェミニズム問題色が強く、社会的制裁の話をしたいというテーマがぼやけてしまうかもしれないとさえ思っている。
他に社会的制裁の例としては、いじめ動画が出て誰かが執拗に糾弾されるやつもそうだし、たまに話題になるバイトテロの首謀者の個人情報が特定されてしまうのもそうかもしれないし、政治家の普段の行動や発言の動画が炎上して辞職に追い込まれたりってやつも全部社会的制裁だよね。主にSNSで盛り上がり、誰かの行動が問題視され、法律に基づかない形で排斥される一連の現象。いわゆるキャンセルカルチャー。
そもそも現代日本において人を裁くことを許されているのは司法のみだ。これはたぶん正しい。だとすると、社会的制裁は良くないという話になるだろうね。マンガワンの件の作家は司法の裁きを受け、罰金という刑責を果たしている。それでいいはずじゃないか。むしろ更生の機会を奪うことこそ悪ではないのか?
この考え方はとても自由主義的に思えるね。「法を守っていれば他人の自由を侵さない限りは何をやっても自由」だろ。世間から説教されるいわれはない。守らなければならない不文律などない。マナーもない。そんな曖昧な同調圧力は差別のもとだ。
そうではない考えの人もいる。規範拘束の強い社会を望む価値観かな。空気支配的社会。同性で恋愛している人に説教したくなる人だっている。電車内で緊急でも無さそうな電話をしている人が気に入らず注意する人もいれば、夜に女性が出歩いていることに憤るお父さんもいるし、犬を食べる人を許せないひともいる。そしてえっちな漫画を描いている人間を親の仇のように憎んでいる人もいる。すまんな。
これだけ見ると前者、極端に自由主義的な考え方がまともにみえるかな? いや、極端なリベラリズム(自由主義)がマシに見えるというより、空気に縛られる社会的専制(世間様がルールだという考え)がクソ……失礼、ひどいものに見える。
社会的専制の何がひどいか。なによりも規範が恣意的で刑の軽重に比例性が無い。漫画界で活躍している人と、カバディ界で活躍している人とでは同じ犯罪を犯しても社会的制裁の強度には天と地ほどの差がうまれるだろう。前科者がカバディ選手に復帰してもSNSで話題にすらならないだろう。この恣意性はその人の所属するフィールドに依存するばかりではない。その事件におもしろい証拠映像が伴うかどうか、その犯人の容姿、性別、事件内容の拡散時のスピード、アニメにゲームが大好きかどうかなどでも制裁の強度が変わってくる。
じゃあやっぱり極端なリベラリズム(自由主義)の方がいいのではないかという話になるが、これもひどいんだよね。
極端なリベラリズムが機能すると思っている人は、まず「普遍的な正義」が存在すると思い込んでいる。これは近代の哲学のテーマだったはずなんだ。文化に依存しない、時代に依存しない普遍的な正義。「理性を持った人間ならば当然わかるでしょ」という倫理が存在すると思っている。人の容姿をバカにしていいわけないでしょ。そんなこと考えればわかるでしょ。未成年のえっちな漫画なんか描いて言いわけないでしょ。そんなこと考えればわかるでしょ。
ところがそんな都合のいい道徳、普遍的な正義などというものは存在が確認されていない。理性だけでは「正義」は普遍化できない。これが現代哲学の出した答えのはずなんだ。あるいは、二度の世界大戦によりその幻想が打ち砕かれ、そしてポストモダニズムという思想が出てきた。わたしたちは結局、常識というものが何なのかをいちいち確認していかなければならないんだ。なぜなら常識や社会正義は時代や文化によって変わるから。
50年前ならば誰かが犬を蹴り飛ばしたってニュースにはならなかった。今はそれがニュースになる。このニュースを通じて、わたしたちは常識とは何かをすり合わせいく。共同体意識を培っていく。その必要がある。
何故その必要があるのかを考えるために、極端なリベラリズム社会ではどうなるかを見よう。
極端なリベラリズムでは「そこまではやらないだろう」「常識で判断できる」が機能しなくなる。これはN国党がいろいろと具体例を示してくれたよね。無許可で有名人の名前をつかって新党を立ち上げたりなんて誰もしないだろう。選挙ポスターの枠を売りに出すなんてだれもやらないだろう。しかし極端なリベラリズムでは常識で判断できることまで法律に書かなければならなくなる。
極端なリベラリズムではまず道義的責任が消える。企業は純粋に利益を追求し、分別のついていない若者から金を巻き上げるような大人たちが許容される。
たとえそうだとしても市場は自由であるべきで、長い目で見ればそれでこそ(利己的で恣意的な人間の設計ではなく)神の見えざる手が働き、それが社会を良くするんだと考えられていた時期もある。見えざる手は18世紀の経済学者アダム・スミスの言葉だが、本来の意図や学者の解釈はともかく「神の見えざる手」が金融関係者に都合よく使われてきた歴史がある。市場はどんどん自由度を増していき、2008年にリーマンショックによって見えざる手の存在が疑われるようになった。人間は神様も驚くほど利己的で強欲だった。
道義的責任が消えた社会では実際には細かい法律をどんどん設定していく羽目になる。「そんな愚かなことをするな」というお父さんの説教のような法律が際限なく増えていくことになる。たとえば「ホストなんて仕事で君に優しくしてくれているだけだぞ。勘違いして入れ込むな」なんていう法律ができるかもしれない。実際にホストクラブ等での色恋営業は法律により禁止された。
曖昧にしてきたことをルール化しようとすると合意がとれない議題が増えてくる。実際には社会にとって好ましいはずの議題が党派のシンボルになってしまい、ぜったいに曲げられなくなってしまう。そういうことがありうる。
つまり曖昧な部分をなくしすぎると分断が生まれるということが言いたい。
欧米のリベラリズムは法制度や裁判所に依存し過ぎたために失敗したという指摘は少なくない。「権利のインフレ」や「政治の司法化」という概念で説明される。世間の常識や道徳が信用できなくなると、「私の権利を明文化してくれ」という要求が高まる。そして本来政治で決めるべきことが裁判所で決められるようになる。
最高裁判決を金科玉条にして対立派閥を黙らせるという行為は本当によくない。とにかく分断を作ること、分断を煽ることは何よりも悪い。ぼくと考えの違う人がいてもいいが、考えの違う相手を「アイツはスパイだ」とか「嫌なら日本から出ていけ」とか「〇〇の支持者は偏差値が低い」だなどと悪魔化するのは一番よくない。
もっとも大切なことは民主主義を守ることで、民主主義の肝は選挙の結果を受け入れることにある。民主主義の肝は多数決の原理ではない。みんなが決めたことならばわたしもそれを受け入れようという、負けを受け入れる文化。民主主義はそこに依存している。
こういう言い方に抵抗感を抱く人がいることは知っているが、民主主義にはうっすらとナショナリズムが必要なのだ。これは民族的ナショナリズムに限らないよ。「民主主義を広める事こそが我が国の使命だ」というナショナル・アイデンティティかもしれないし、「同じ言語を話しているやつはだいたい友達」かもしれない。なんでもいいけど、仲間意識が消えたら民主主義なんてできないんだよ。民主主義がそんなに万能ならばイスラエルとパレスチナも民主主義をやればいい。
公共圏の信頼の醸成、ともに民主主義的な手続きで国を進めていくことを受け入れているみんなとの仲間意識、そしてその仲間が最低限共有しておくべき価値観をどのようにすり合わせするか。それが社会的制裁であったり、教育だったり、時には国際的スポーツイベントだったりする。公共圏の信頼がなくなると、事実が共有されない。メディアが信頼されない。専門家が敵視される。結果、合意形成が極端に難しくなるという問題が起きる。
これはなにもぼくのアイデアではなくって、たぶんコミュニタリアニズムの思想なんだけど、つまりぼくは自由と社会的規則のバランスが大事だと考えている。そう、勘違いしてもらいたくないのだが、ぼくは極端なリベラリズムも極端な社会的専制もどちらも避けるべきだと考えている。
社会的規則は必要悪だが、先に見てきたようにそれはひどく恣意的で、何の公平性もなく、エロ漫画を描く人間には特に厳しいという、社会的制裁の限界を我々は意識しておく必要がある。これは人を裁くための制度や機能ではなく、結果的に価値観をすり合わせることになるただの現象であり、「人を評価する自由」という自由主義の副産物でしかない。
現代のSNS社会は社会的専制に寄りすぎているきらいがある。単純に拡散のスピードが速すぎる。これはおそらくここ10年ほどしばらく議論され、予測されていたことであるが、ここに来て多くの識者がSNS規制の必要性を説いている。
出所不明な情報を真実と思い込む。客観性を欠いたまま口のうまい方が正しいと判断する。顔のいい方を正しいと判断する。これは良くないことだ。やはり人を裁くことが許されているのは司法だけだ。私たちは人を自由に評価することができるが、あなたの評価はあなたの評価に過ぎない。これは裁きではない。あなたは全く興味を持っていないけど誰かにとっては許しがたい事件というものだってある。アニメが好きだから京アニ事件が許せないが、その事件に興味がない人もいる。「もうアソコの製品は買わない」というボイコットはありえるだろうが「犯罪者の味方をするの? おまえも敵だ!」なんて、対立を煽るべきではない。社会的制裁はせいぜい「あなたの感想」であるべきなんだ。
