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春浅きモスクワを往く―1992年、崩壊の後

プロローグ

1989年、「ベルリンの壁」が崩壊し、世界は歴史的な転換点を迎えました。当時、東欧からハンガリーを経由して西側に逃げ込む人々のニュースが連日のように報道されていたのを覚えています。
若い方には信じられないかもしれませんが、当時、ベルリンの壁はあまりにも強固でした。
それは社会体制の違いからくるものでしたが、それは西側の私たちから見れば絶対に壊れるはずのない、そう、「月が空から落ちる」ような、絶対にありえないことでした。
ソ連の有名ピアニスト、ブーニン氏が西側への亡命を図り成功したのは、その前年のこと、彼ほど世界各国を渡る一流ピアニストでも亡命せざるを得ない…それ程東側世界は逃げ場のない息苦しく強固なもの、として私には刷り込まれていたのです。

そのベルリンの壁が、西ドイツ側のほんのうっかりミスで、なし崩し的に崩壊してしまいました。
その後ルーマニア革命も起こり、東側諸国は雪崩を打って体制が崩壊していくのです。
それでもまさか、そのわずか2年後の1991年、あの大国「ソビエト」が崩壊するとは、若い私には到底想像もできないことでした。 


出発-新東京国際空港へ

その翌年の3月…私はモスクワに向かうため成田空港に向かっていました。出発にふさわしくない雨の朝…憂鬱になりそうな気持を振り払いタクシーに乗りました。
ホテルから空港に向かう人々は、すべて空港前の検問所で停止し警官からパスポートのチェックを受けます。
当時はまだ成田闘争の影響もあり、空港に入るには自家用車、バスやタクシーでさえ厳重なチェックを受ける必要がありました。
この検問所は2015年に廃止されたそうですが、意外に最近だったんですね。

画像:筆者作成(生成AI)

空港に着くとスーツケースを押す人たちが行きかう中、待ち合わせ場所に向かいます。
今回はツアーの一人参加です。
待ち合わせ場所はちょうど出入り口の近くで、自動ドアが開くたびに寒さが吹き込んで訳もなく私を不安にさせます。
私にとっては2回目の海外、行く先はモスクワ…なぜ?と当時の自分に突っ込みたい気分ですが、私はどこか人より違うことをしてみたいという思いが強く、この時も好奇心には抗いがたかったのです。

モスクワまでのフライトは約10時間程度だというのですが、長いです!
狭いエコノミー、10時間も座りっぱなしで大丈夫だろうか、と心配になりながらも、若い私にはなぜか誇らしい気持もあるのでした。
自分で貯めたお金で、自分で「行く」と決めた海外旅行。
テレビでは「激しいインフレ」、「物不足」、そして「行列」といったネガティブな報道しかされない中、モスクワの「今」はどんなだろうか?
海外旅行への不安と期待が交錯する中、ふと窓に目をやると世界各国の飛行機が見えます。
子供のころから地球儀を見るのが大好きだった私にとって、空港は文字通り自分の心の玄関であり、色鮮やかなそれらは私に一瞬の夢を見させるようでした。

「イベリア航空モスクワ経由マドリード行」は日航との共同運航で、機内に入ってみると、不思議なことに片側のブロックだけがガラガラでした。
どうやら私が座った側にだけ人が密集していたようで、反対側のブロックは驚くほど閑散としています。
スチュワーデスさん(当時の言葉を使います)は、離陸したら席を変わっていいですよと私たちや他の乗客にも伝えていました。
飛行機の小さな窓から覗く地上の景色は降り続く雨の中、銀色にも似た薄墨に溶けていくようです。
やがてエンジンは大男の唸り声のような音を立て、背中がシートに押し付けられた瞬間、フワッと軽くなるのを感じました。
そのとき、日本もまた私から離れていくのを、窓の外からじっと眺めていたのでした。

画像:筆者作成(生成AI)

 シートベルト解除ボタンが点灯し、それぞれが席に散らばっていきます。
途中トイレで席を立つと、中央4席は疲れ切ったビジネスマンが既に横になって爆睡中でした。
「24時間戦えますか」の時代です。
今では考えられない光景ですが、当時は実際にあったことで、時代の狭間はいろいろ緩い面も多かったのです。
私は早々に配られたドリンクサービスでワインをいただきながら、長距離飛行の楽しみの一つ、機内食にワクワクしていました。
しかし楽しみにしていた割には、肝心の機内食の内容を思い出せません。
ポンコツな私ですが、34年前の話ですのでそこはお許しを。
私は体が小さいので3席あれば余裕で身体を伸ばせます。
食べ終わった後は横になって眠ることにしました。
結局、軽食含め3回ほど機内食が出され、動かない上に洋食メインの食事なので(しかも寝てても起こされた!)ブロイラーってこういう気分かな?と思いつつ、お酒をちびちび、つまむ程度にいただきます。


歴史的転換点へ-渦中のモスクワ 

長いフライトも終わり、漸くモスクワのシェレメーチェヴォ空港に到着しました。
現地時間で大体16時頃、さすがにとても疲れていました。
入国手続き、スーツケースを回収して出口に向かうと、通路にはプラカードのようなものを持った人たちが身を乗り出して、到着する人を探しては大声を張り上げています。

画像:筆者作成(生成AI)

その光景に、初めて体験する私は一瞬怯みました。
見知らぬ国でいろんな人の顔、顔、顔……通路に伸びる様々な腕…。
それでも前に進んでいくと、はっきりとわかる日本語で「インツーリストですか、インツーリストですか」という声が聞こえました。
その声の主は50代くらいのシルバーヘアの女性で、とてもエレガント。
ツアー名が書かれた紙を持って、私たちを見つけてくれたのです。
彼女はインツーリストのガイドさんでした。

ここで少し説明しますと、インツーリストとは、1929年にスターリンによって設立されたソ連の国営旅行公社のことです。
私が訪ねた時はソ連崩壊直後なのでまだその組織やシステムは残っており、ホテルや観光バス、ガイドさんまでこの旅行会社を通さなければいけませんでした。
ガイドさんは多言語を操らないとできない職業ですから、当時の「エリート階級の人」ということになるのでしょうか。
以下、彼女をガイドさんと呼びます。

観光バスに乗って眺めるモスクワ市街地。
もうほとんど暮れかける空に、街灯が溶けた雪を照らしています。
いつか絵本で見たような憧れの景色が今、目の前に広がっているのが信じられません。
着いたホテルはコスモスホテル。
こちらもインツーリストが経営する外国人向けのとても大きなホテルですが、ロビーでは強い薬品の匂いがしています。
消毒やワックスの匂いだったようですが、東側の国は西側とは違う何か独特のものを使っていたようで、最後まで慣れることはありませんでした。

ホテルのロビーにあったスロットマシン
外貨獲得の手段の一つでもある
ギャンブルマシンが並ぶ。写真:筆者撮影

生きるパワー-美しきおばちゃんたち

部屋に落ち着き、荷物の整理をしてからホテル内のレストランに向かいます。
広いフロアには各国の旅行者たちが所狭しとテーブルに着き、モクモクと上がるのはタバコの煙と料理の匂い。
なんとも表現のしようがないそれは、混沌とした今のロシアを表しているようにも思えました。
出てきたのはビーフストロガノフですが、まずくはないんです。
当時、お子様舌だった私の口に合わなかっただけなんです、多分…。
サーブしてくれるのは大変ふくよかで丸々としたブロンドヘアの美人のおばちゃんです。
やがて、彼女が突然缶詰を持って話しかけてきました。
ポケットの中からは次々といろんな缶詰を出してきます。
私たちには大きな蟹缶を出して「40ドルでどう?」と聞いてきました。
当時のレートで計算してみると大体5000円くらい。
添乗員さんがみんなに聞いて、とりあえず買ってみることにしました。
おばちゃんはニコニコして缶詰を開けて取り分けてくれます。
味は、まぁ、普通の味でした(記憶にないから多分ね…)。

さて、ここから始まるのです、おばちゃんのオンステージが!
気をよくしたおばちゃんの次の一手は、なんとキャビアです。
若い私はキャビアなんて食べたこともありません。
おおおお~!となり、これもせっかくモスクワに来たのだからと買ってみました。
でも食べてみると、うーん、ちょっと生臭い感じ?思ったより美味しく感じません。
でも元々イクラなどの魚卵が好きではないので私だけか…と思っていたら、なんと他の方も微妙な顔をしていらしたので、私の味覚は合っていたのかもしれません。
さて、おばちゃんの攻撃は激しくなり3回目はなんと琥珀のネックレス!
さすがに要らないです(値段もどんどん上がっているし)。
しかし、なぜこんなことが起きるのでしょうか。

ソ連が崩壊したその頃、ルーブルは激しいインフレで紙くず同然になっていました。
事実、出発の際に、手持ちの現金はドルが使えるからルーブルに変えなくていいと言われていました。
つまり、おばちゃんたちはドル(外貨)が欲しいのです。
ドルがあれば、ぶっちゃけロシアで生活するおばちゃんは何でも、というと語弊がありますが「物を買う」ことが、他の人より容易くできるということなんです。
じゃ、その缶詰やネックレスの仕入れは?
添乗員さん曰く「倉庫からね、ちょっとね、もらってくる…」
ええええええええええ!
つまり
 盗んだバイクで走りだす♬
じゃなくて、
 盗んだ缶詰、ドルGET!♬
ということ?
ちょっとふざけ過ぎました。

でも、すげ~!逞しい!
ロシアのおばちゃんすごい!と私は感心してしまいます。
おばちゃんの波状攻撃に、日本人の私としては何度も断ると悪いかな、気を悪くされたらどうしよう、と気になるのですがおばちゃんたちはめげません。
「蟹缶もう一個どう?キャビアもまだまだあるよ」
と次から次へとエプロンの中から取り出してくるのです。
ドラえもんのポケットかよ!と心で突っ込みつつ、いや、ロシアのおばちゃん迫力あるな~と圧倒されるばかりでした。

部屋に戻ると鍵が開きません。差せば回るんだけどドアがうんともすんとも言わないのです。
困っているとエレベーターホールに座っていたおばちゃんがやってきて、すっとドアを開けてくれるのでした。
どういうコツがあって開くのか…おばちゃんはきっと魔法が使えます。

 何はともあれ、長いフライトで疲れていた私はシャワーを浴びると(お湯があんまり出ない問題、海外あるある)もう泥のように眠りに落ちていったのです。


赤の広場からクレムリンへ-小さな出会い

翌朝のモスクワは快晴でした。
高層階に泊まっていたため窓からの景色はとても素晴らしかったです。
(ヘッダー画像)

聖ワシ―リー教会前の広場 
写真:筆者撮影

聖ワシーリー教会の前でバスを降り赤の広場へと向かいました。
1992年ですから、当時の私にはブレジネフやアンドロポフなど歴代書記長の葬儀のニュースを生々しく覚えています。
また歴史好きとしては近代史もそれなりに読んでいたので、この場に自分が立っているということがたまらなく不思議でした。
ロシア語での「赤」は「美しい」という意味を持ちます。
直訳すれば「美しい広場」となりますが、弾圧の象徴となってしまったことはまさに歴史の皮肉でした。
そしてその象徴であったソビエト崩壊を経て、今は静かに私を含む多くの人々を受け入れているのです。

バスへ向かおうとすると12歳くらいの一人の男の子が私を追いかけてきます。
政情不安定なお国柄、私はひったくられると思って必死に逃げ、バスまで来たところで追いつかれてしまいました。
困っていると彼は私の手を取り小さなメダルのようなものを手渡してきました。
そしてロシア語で何か言ってから去って行ったのです。
その小さなメダル(バッチだったかもしれません)には、聖ワシーリー教会のネギ坊主の可愛らしい教会が描かれていました。
エナメル塗装も均一ではないそれは、他愛もないお土産物の一つだったのかもしれません。
でもそれを売りつけるのではなく私の手に握らせて立ち去った少年…白い息を上げながら追いかけてくるその姿を思い出すと何かひどく申し訳ない気持ちになるのでした。
あれから34年経ち、ふとした瞬間に彼を思いだすことがあります。
出会いともいえない通りすがっただけの彼…現在も元気に暮らしていたらいいな…そんなふうに思うのです。

赤の広場の隣にあるグム百貨店
早朝だったため中に入ることはできませんでした。
写真:筆者撮影

次のクレムリンへはバスで移動。
クレムリンは単なる観光地ではなく政治の中枢であるため、観光客は特定の門から城壁をくぐって中に入ります。
レンガ造りの厚い大きなアーチ状の楼門を抜けると、金色のネギ坊主を冠した教会などの建物群が見えます。
朝靄の晴れた後の青空は美しく、はっきりとしたコントラストに圧倒されました。
クレムリンは広く一つの街を形成していますので教会もいくつかあります。それらの鐘が鳴ったら、どんな美しい音色が響くのかなと想像しているとリストの「ラ・カンパネラ」が心に聴こえてくるのが不思議です。
武器庫でエカテリーナのドレスや王冠など様々なものを見学し、美しいものを堪能でき満足でした。

クレムリン内のウスペンスキー大聖堂
写真:筆者撮影

便座がない!-もはや理解を超えた生きるパワー

バスに乗る前にちょっとトイレに行くことにします。
ここでちょっと衝撃の体験をしまして…。

え? ない?
トイレに入ると便座がない…便座がないと座れなくない?
幸い一個だけ残っていたトイレで用を足し、ガイドさんにどうしてですかと聞いてみました。
答えは…「みんな、持って帰るんです」
は? 便座って持って帰る? 帰れる? 昨日の缶詰やネックレスとは訳が違うけど。(あれらは小さいから隠そうと思えば隠せる)
もし便座を隠して持って行くならセーターの中?
いやいや、不潔だし無理ありすぎ!(笑)
でも実際、混乱期のモスクワでは「公のもの=自分のもの」という解釈があったらしく(それも凄いけど)別に隠さなくてもみんな、堂々と持ち帰っていたみたいです。
凄いですね…
〈閑話休題〉


ボルシチとキャビア初体験-ロシア料理は美味しい 

ランチは別のホテルで。
メニューはボルシチとその他オードブル各種…なんとキャビアがあります!
ボルシチは文句なしの美味しさでした。
そしてキャビア。今日は茹で卵を半分に切ったものにキャビアが乗っています。(ヤイツァ・ファルシロヴァンニエ(詰め物をした卵)というらしい)
こちらのキャビアは昨日のものとは全く別物のような美味しさでした。

画像:筆者作成(生成AI)

ボルシチは現在、ウクライナ発祥の料理としてユネスコ無形文化遺産に登録されています。
食のアイデンティティへ敬意を込め、ここに記しておきます。


ボリショイ・バレエ-そして夜のモスクワへ

モスクワ川に沿って進むバスの中から街の様子を眺めていました。
チョコレート色の建物がまるでおとぎ話の挿絵のように見えるのは、「クラースヌィ・オクチャブリ(赤い十月)チョコレート工場」でしょうか。
私にとって見るものすべてが珍しく窓の外から目が離せません。
モスクワ川に沿う大通り沿いの店には、確かにあちこちで行列が見られました。
長い行列、短い行列、待つ人たちの表情がそんなに暗く感じないのはガイドさん曰く「日常ですから」。

ホテルのロビーに着くと、ある方が「モスクワって言えばボリショイ・バレエよね、何かいいのやってないかしら」とガイドさんに尋ねています。
私は「すみません、それなら私もぜひご一緒したいんですけどよろしいですか?」と声をかけます。
ガイドさんはすぐに調べてくれました。
「ジゼルをやっているけど既にチケットはソールドアウトです。
絶対とは言えないけど開場時間前に劇場に行けばダフ屋から買えるかもしれません。」
私は同行者と相談し、彼女とともに大きな賭けに出ることにしました。
ガイドさんは、本来は私たちをホテルへ送り届ければ業務終了のところを、なんと一緒に行ってくださることになったのです。
ホテルから乗ったタクシーは私から見るととてもポンコツに見え、大丈夫かなと心配になる代物でしたが意外にきちんと走りました。
18時前くらいに劇場の前に着くと、ガイドさんは
「私が探してきます、時間がかかっても絶対タクシーの外に出ないでください、絶対です。」
と伝え、タクシーの運転手さんにも何か言って外に出ていきました。
見つかるかな…、ダメだろうな…、そんな思いが行ったり来たり、とても長い待ち時間に思えましたが実際は20~30分くらいだったと思います。
タクシーの運転手さんも気を使って話しかけてくれますがロシア語はわからりません… でもわからないなりにも、その気遣いがとてもありがたく、ジェスチャーなどで答えるのでした。
それにしても、夜に浮かぶボリショイのなんと美しいことよ。

画像:筆者作成(生成AI)

戻ってきたガイドさんの表情からダメだったことはすぐにわかりました。
何度も謝る彼女を私たちは止めて、お礼の言葉をたくさん被せました。
そもそも世界最高峰ともいえるボリショイ・バレエ。
そして人気演目の「ジゼル」…。
たまたま立ち寄っただけの旅行者に買えるはずがないのです。
好きな人は公演に合せてチケットを用意するのですから、無理を言ったのは私たちの方でした。
それを伝えて「どうぞ謝らないで」と彼女の手を取ります。
帰りのタクシーから私は何度も振り返りボリショイ劇場に別れを告げました。
窓から見える景色は街灯の下、数百年の歴史を感じさせる街を美しく浮き上がらせており、 昼間の汚れた雪は闇に溶け白さだけが際立っています。
そしてその街並みとの美しい調和は、私に言葉にできない切なさを教えてくれるかのようでした。

ショパンのピアノ協奏曲第一番のピアノの旋律…グラスの水が溢れそうで溢れない、まるで刹那を表すかのようなあのピアノを、私は心の中でそっと思い出していました。
いつかもう一度来たい、必ず…
あの時から今までずっと思い続けてきましたが、もうその望みは叶えられないでしょう。
でもだからこそ、私の胸に焼き付いた景色はこれからも消せないのだと思います。

画像:筆者作成(生成AI)

貨幣の混乱-お土産物屋さんでの出来事

 翌日も快晴。
ノヴォデヴィチ修道院へ出掛けました。
そのあたりを散策し何軒か並んでいるお土産物屋さんに入ってみます。
北の国という場所柄、毛皮製品が豊富なので買って帰りたいところですが、安いといっても若い私が早々に払える値段でもなく、素敵だな~と思いながら身の丈に合うものを探し、小さなタイル画を何枚かと琥珀のイヤリングを買いました。
タイル画はロシア独特のミナレットやルコーヴィツァ(ネギ坊主)の教会が描かれたもので、 これは私のお気に入りとなり一人暮らしの部屋に飾って楽しんでいました。
琥珀のイヤリングは、今でもお洒落してお出掛けの際に付けています。
そしてここで面白かったのが、タイル画は30ドルくらいだったと思うのですが、50ドル出したらなんと!
お釣りがマルクで来たことです。
もう、お釣りが合ってるかどうかすらわからない…。
でもこういう体験も旅の醍醐味ですから、素直にマルクでいただきました。
(ソ連崩壊から3か月後なんて普通行かないしね…)

ノヴォデヴィチ修道院の外壁とミナレット
電柱が傾いていますが「写ルンです」での
撮影のため歪みが生じた可能性あり
写真:筆者撮影

歴史の陰に触れる

空港へ向かう前、昼食をとるためホテルへ向かいました。
その時、明らかにロシア人とは違う、浅黒い肌のスカーフを被った年老いた女性と、孫ほどの小さな女の子が私に近づいて何か話しかけて来ました。
手を差し出しているので何かが欲しいということはわかるのですが、その目は鋭く、表情には不穏なものを感じます。
私はバッグの中に飴があったことを思い出し探しているとガイドさんが慌ててやってきました。
そして今まで聞いたことのない激しい口調で彼女に何かを言い、まるで野良犬を追い払うように、身振りさえ強く追い立てていくのでした。
私はその迫力に圧倒され言葉も出ません。
「あれはジプシーです、絶対に関わってはいけません、絶対です」
彼女が私に諭すその強い口調は、日本では感じられない(私が知らないだけかもしれませんが)圧倒的な「差別」を感じるのでした。

知識としては知っています。
ジプシーと言えばサラサーテが彼らの優れた音楽文化に刺激され、作曲したといわれる「チゴイネルワイゼン」があります。
またブラームスの「ハンガリー舞曲」などもジプシー音楽からインスピレーションを得て作られました。
でも文化があることと現実に生きることの違いが当時の私には理解できていませんでした。
楽曲に代表されるようなロマンチシズムとともにジプシーを捉えていた私にとって、そこには地元の人と絶対相容れることのない集団が存在し、忌避されている人々がいる、ということに私は激しい衝撃を覚えました。
そして、それは自分が何か悪いことをしてしまったようにも感じられ、苦い記憶の断片として時折よみがえるのです。
それは歴史の表舞台には出てこない、ヨーロッパ全体を覆う深い陰のようなものなのかもしれません。

※現在は、差別につながるという理由で「ジプシー」は「ロマ」という言葉に置き換えられました。しかし当時の雰囲気を伝えるため、敢えてこの言葉を使っています。


1992年、モスクワ雑感-ソ連崩壊から 

このロシア旅行で私が強く感じたことは「報道のあてにならなさ」と歴史の深さ…「陰影」です。
当時の報道では生活必需品を買うための「並ぶこと」を焦点に、疲れ切った人たちの暗い表情を映し出す報道が多かったように思います。
でも私が見たモスクワは、長い間抑圧された人々の爆発的なエネルギー、そして生きることに貪欲で並ぶことさえ楽しんでいるかのようにパワフルな、人々の生きる姿でした。
報道された暗い表情の人たちも一面では事実だったのでしょう。
しかし事実は一つではなく正反対の表情もあった、ということが当時の私には新鮮な驚きでした。
西側の商品、情報に心躍る人々、往来。
彼らの躍るような表情、その生きるパワー、それらに当てられた私は、メディアの伝える情報はすべてではない、という当たり前のことを肌で感じることができました。
そしてまたロマも、一つの文化・民族としてでは語りきれない、連綿と続く歴史の中に確かに存在しているのです。
それはある種、負の側面を持ちながらも現代に繋がれています。
どの時代、どの国においても人間は「光」の中だけでは生きられない、その「陰」を当時は言語化できないまま、私はただ受け止めるだけでした。

シェレメーチェヴォ空港に向かうバスに揺られながら見るモスクワは「先進国」という仮面のはがれた、哀しき姿でした。
ですが、滔々と流れていくモスクワ川は、歴史の傍観者としてこの国の行く末を見据え、ずっと見守っていたのかもしれません。
青空と建物が見事に調和した、おそらくその変わらない景色は先進国の無機質なそれより味わい深く、私はただ言葉もなく惜別の思いで見惚れるばかりでした。
思い出のモスクワ、春浅きモスクワ…私の生涯忘れられない海外旅行のひとつとなりました。

(左)バスから見たモスクワの街角 写真:筆者撮影
(右)私の心に残る風景をAIで再現した モスクワ川と街並
画像:筆者作成(生成AI)

エピローグ

昔、明治生まれの祖母が何かというと「ロシアだけは信用するな」と耳にタコができるほど聞かされておりました。
そのたびに私は「おばあちゃん、ロシアじゃないよ、今はソ連だよ、ソビエトって言うんだよ」と答えていましたが、先日娘とロシアのニュースを見ていた時に「本当にこういうところだよな! ソ連って国はっ!」と言ってしまいました。
すかさず娘から
「ママ、今はソ連じゃなくてロシアだよ」
…知ってる、知ってるけど、つい出ちゃうときがあるんだなあ。
ああ、時は流れ、歴史は巡る。

私も年をとりました…

(写真:筆者、画像:筆者生成)



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