「エウレカ!」第3話:側溝とネコ_①
ヒカリが、もどってきている
その知らせを聞いたのは、お盆が始まる少し前のことだった。
その頃、僕はようやく手をつけはじめた就活に翻弄されて、いつになく忙しない夏を過ごしていた。文字通り、汗まみれになりながら歩き回ったが、その結果はどれも芳しくないものばかりだった。
当然、単位も落とすことができないため、講義も全て出席する。お金も必要だから、今まで通りアルバイトもこなした。
そんな風に忙しい毎日を送ったせいか、就活当初に比べると5kgほど、体重をおとすことになった。体の頑強さには多少自信があっただけに、その事実を知った時には、打ちのめされることになった。
「あんただいじょうぶ?」とあのマリですら、心配な表情を浮かべて僕を見た。
「君ってば、ほんと極端よね。怠惰をむさぼっていたと思ったら、急に動き始めて」
「メリハリがある性格なんです。」と僕
「面接の定型文みたいになっちゃって・・・。」
「早め早めに動いていくのがいいと思ったんだ。」
「だからって…体を壊したら元も子もないと思うけど。」
・・・正論。
元来、正論は好まない性格だったので、その時は大して気にもしなかったが、しばらくして、まりの心配は的中することになった。
ある日、講義の教室に向かう途中の廊下で、僕は卒倒した。
前後のことは、よく覚えていない。というか、大学に向かうために最寄駅で電車を降りたあたりから、記憶が曖昧だった。そんな状態でよくキャンパスまで辿り着けたものだと我ながら感心する。
気がついた時には、病院のベッドの上だった。
白い天井。白いシーツ。無機質な管が金属製のスタンドに下げられた透明なバッグと右腕を繋いでいた。よくドラマや映画で見るような状況だ、と思った。転倒ショックによるものか、それとも寝起きでボケていたのか、そうした光景を目に入れても、まだ自分が病院送りになったことを認識できずにいた。
「目が覚めたか。」
傍で声がした。そちらの顔を傾けると、父親の姿が目に入った。
「・・・親父?」僕はつぶやいた
「喋れるみたいだな・・・よかった。この指は何本だ?」そう言って人指と中指を立てて鼻っ先まで近づけてくる。
「・・・2と3分の1本」
「馬鹿野郎」
親父は呆れたように言った。
「心配したが、大丈夫そうだな。」
「・・・何が起こったの?」僕は聞いた。
「詳しくは知らん。大学から、お前が倒れて緊急搬送されたって電話が来たもんで、職場から急行して、ちょうど今たどり着いたところなんだ。」
そう言われて彼の首から下に目を移すと、なるほど、確かに仕事中という言葉は本当らしく、白く高い襟とその間に、きっちりディンプルを作ったネクタイの結び目が見えた。どこぞの企業の部長を務める父親は、その役割に相応しく、どんな季節も白い長袖シャツをタイドアップし、スラックスにピカピカに磨いた革靴を履くことを忘れなかった。
だが、今日目の前にいる彼には、何かとても大事なものが抜けていた。
「親父、ジャケットは?」
「・・・あ、そういえば無いな。」
「無いなって・・どうしたんだよ。」
「記憶がない。慌ててたんだろうな。」
「職場じゃない?」
「・・・いや、出る時には確かに着ていた。」
「何を使ってきたの?」
「電車もタクシーもバスも色々使ってきた。正直、どの時点でなくなったのか、見当もつかん。」ときっぱりいった。
途端に申し訳なさのようなものが噴き出る。
「ごめん。」僕がいうと
「フルオーダーのジャケットだったんだ。」わざとらしく、名残り惜しそうなそぶりをしていった。
「弁償する。」
「無理だな。」と父親。
「あのスーパーはいい職場だし、時給もいいが、今のお前の経済感覚じゃ、買うのはまだ果てしなく先の話だ」
「ひど・・・ってか、なんでスーパーで働いていること知ってるの」
「こないだフラッと寄ったんだよ。気づいていなかったのか。」
「知らない。声ぐらいかけてくれよ。無礼だな。」
「客の顔も見ていないやつに言われたくはない。」
「・・・腹たつなぁ・・・。」
そういうやりとりを続けていると、担当医と思しき男がベッドに近づいてきた。医者になりたてというような、若い男だった。白衣も洗い立てみたい真っ白い。
そんな彼だが、入りづらい雰囲気を感じたのか、少し遠慮がちに
「すみません。お話よろしいでしょうか?」といった。
「どうぞ」
答えた僕らの声は、完全に被っていた。
医者の診断では、脳機能などに特に異常は見受けられないことから、一過性の失神だろうということだった。前後の生活状況を聞かれたので、ありのままに答えると
「大馬鹿野郎」と親父に頭をこづかれた。
それを見た医者は苦笑して
「低血圧に低血糖、それに睡眠不足が重なったのかもしれませんね。」と言った。
「この先、最低一週間は十分に休養をとって様子を見るようにしてください。十分な睡眠と栄養。ちょうどお盆ですしね。お大事に」
ここ数時間の睡眠と点滴で体調は完全に復旧していたらしく、その説明が終わると、ほっぽりだされるように病室をでた。僕が寝ていたベッドは、看護師たちの手で忙しなく現場復帰がなされていた。昨今の流行病の影響で、病床は相変わらず逼迫しているようだった。
「いい加減な生活をするんじゃない。」
会計を済ませ、病院を出ると、親父にまた頭をこづかれた。
「・・・ごめん。」
「お前の一人暮らしを推した母さんの身にもなってみろ。」
「お袋は、知っているの?」
「当たり前だ。」
「連絡したの?」
「そうだ。」
「そっか・・・」
途端に身長が一気に縮んでしまったような気分になる。僕は、所詮まだまだこの人たちの『子ども』なのだ。
「こっちに戻ってこい」と親父が突然言った。
「・・・こっち?」
「こっちはこっち、お前の実家だ。」
「いつ?」
「いつでもいい。」
それだけ一方的にいうと、父親はツカツカと別の方向に歩き始める。どうやら、大通りに出て、タクシーを拾おうという魂胆らしい。
「あ、そうだ。」
ふとその歩みをとめ、振り返る。
「ヒカリちゃん、お盆で戻ってきているらしいぞ」
と言った。
「・・・ヒカリが。」
「ああ。ちょうどいいから会えばいいじゃないか。」
ニヤッと笑って
「連絡先、どうせ保持してるんだろ?」
それだけいうと、元の方向に向き直り、早足で歩いて行ってしまった。
病院前のロータリーに僕だけがポツンと取り残された。
なんとなく、携帯を取り出して連絡先のフォルダを探る
『ヒカリ』
そう銘打たれたタグは、確かに作成した当時のまま、残っていた。
