漁船に乗らなくてよかった―船員生活の思い出と―16歳の「仕事選び」が成功した話
高給料だけで仕事を選ぼうとしていないか
「給料が低いし今の仕事を辞めようか、どうしようか。」
そんな風に一人で思い悩み、ストレスを抱えている人は、今の時代、決して少なくないと思います。
仕事を選ぶとき、私たちはどうしてもさまざまな「条件」に目を奪われがちです。毎月支払われる給料の額、職場の人間関係、会社の規模や将来性、あるいは世間体……。特に給料。
スマートフォンの画面をスクロールすれば、求人情報が溢れ、どれが正解なのか分からなくなってしまう。特に「高収入」「未経験歓迎」「タイパ重視」といった甘い言葉は、迷える心にすっと入り込んできます。
しかし、断言できます。仕事というものは、決して給料や条件だけで選ぶものではありません。条件だけで選んだ道は、どこかで必ず無理が生じます。
その大切な真理を私に教えてくれたのは、まだ社会の仕組みも何も知らなかった、16歳の冬のことでした。
時は昭和36年。日本全体が高度経済成長のエネルギーに沸き立ち、誰もが「豊かさ」に向かって猛烈に走り出していた時代です。
当時16歳だった私は、ある一つの大きな決断を迫られていました。
結果として私は、当時としては破格の条件だったある仕事を断り、あえて別の道を選びました。
あの選択があったからこそ、やがて会社を経営し、多くのいい経験をして、楽しく人生を過ごせたのだと、65年経った今そう信じています。
破格の条件と、私の胸にあった「夢とロマン」
昭和36年当時、日本の産業の中でもひときわ凄まじい勢いで発展していたのが「遠洋漁業」でした。
日本は世界一の漁業国と言われるほどの勢いがあり、海には無限の可能性が広がっていると信じられていた時代です。
当然、そこで働く船員たちの需要は高く、私のもとにも「大型マグロ漁船に乗らないか」という話が舞い込んできました。
当時の遠洋マグロ漁船の仕事というのは、現代からは想像もつかないほど過酷で、同時に夢のあるものでした。
日本を出港して、ハワイ沖や、インド洋に、遠くアフリカ沖にまで航海に出て漁をするのです。
一度海へ出れば、半年以上、一年、また行先によっては一年以上も日本の土を踏むことはできません。
乗組員はわずか24~5人。広大な海の上にポツンと浮かぶ鉄の塊の中で、何十キロもの長さの延縄(はえなわ)を凍える海へと投げ入れ、巨大なマグロを何百匹、何千匹と水揚げしていくのです。
海がどれほど荒れ狂おうが、容赦ない高波が甲板を洗おうが、作業が止まることはありません。
当然、今のように携帯電話などない時代です。
家族や友人の声を聞くことすらできず、万が一船上で大きな病気や怪我をしても、すぐに病院へ駆けつけることなど不可能な環境でした。
しかし、そのリスクと引き換えに、用意されていたリターンは破格でした。
給料は、当時の一般的なサラリーマンや他の職種の、なんと3〜5倍以上!
「若いうちにひたすら体を張って、大金を稼ぎ出すなら遠洋漁船に限る」
それが、当時の常識であり、多くの若者が一攫千金を夢見て乗り込んでいく時代だったのです。
16歳の私にとっても、その金額は目を剥くような大金でした。普通なら、生活のために、あるいは手っ取り早く大金を手に入れるために、その話に飛びついていてもおかしくはありません。
ところが、私はその話を断りました。
なぜか。私の胸の中には、お金の計算よりもずっと大きく膨らんでいた「夢とロマン」があったからです。
私は、ただお金を稼ぐために海へ出たかったわけではありませんでした。いつか広い世界へ飛び出したい、外国航路の巨大な船に乗って地球の裏側まで行ってみたい――そんな強い憧れを抱いていたのです。
だからこそ、私は遠洋漁船ではなく、夢の第一歩としての「前哨戦」となる道を選びました。
それが、北海道航路を往復する貨物船「第六真盛丸」への乗船でした。
昭和36年12月23日、大阪港からの旅立ち
乗船命令が届き、私が大阪港へと向かったのは、忘れもしない12月23日のことでした。
クリスマスを目前に控えた街の賑わいとは裏腹に、港には遮るもののない冷たい風が吹き荒れていました。
第六真盛丸は、3000トンの貨物船でした。川崎汽船の系列である加藤汽船という会社が運航する船で、当時はすでに珍しくなりつつあった、石炭を焚いて走る古いタイプの船でした。
それでも「Kライン」と書かれた煙突と赤い大きな船体は誇らしいと思いました。最大手の川崎汽船に就職できたような気持ちです。
当時の大阪港は活気に満ち溢れており、大きな貨物船は岸壁に直接横付けされるのではなく、少し離れた沖合に停泊していました。
そこへ向かうため、私は「サンパン」と呼ばれる、小さな木造の渡し船に荷物を乗せて乗り込みました。
波に揺られる小さなサンパンの中から、だんだんと近づいてくる第六真盛丸の巨大な赤い船体を見上げたときのことは、今でも鮮明に覚えています。見上げるほどに高く、重厚な鉄の壁。
「これから私は、あの巨大な船の中で暮らすのか……」
冷たい風に吹かれながらも、私の胸はまだ見ぬ世界への大きな期待と興奮で膨らんでいました。
これこそが私の求めていたロマンであり、いつか外国航路へ繋ぐためのスタートラインだったのです。
実は当時、正式な船乗りになるためのハードルは結構高いものでした。おいそれとなれる職業ではなく、何よりも法的な年齢制限があり、18歳以上でなければ船員として登録されなかったのです。
しかし、当時まだ16歳だった私は、どうしても海へ出たい一心で、「司厨員(しちゅういん)見習い」、つまり調理場の手伝いという名目の資格をうまく手に入れ、年齢の壁を潜り抜けて乗船を果たしたのでした。
船内という小さな社会と、「サロン室」という別世界
実際に船に乗り込んでみると、嬉しい誤算がありました。私が命じられたのは、狭くて熱気がこもる調理場での作業ではなく、「メスロンボーイ」と呼ばれる仕事だったのです。
メスロンボーイ(Messroom boy)とは、船の中の食堂給仕係のことで、2等航海士や2等機関士、通信士といった、いわゆる下士官たちの身の回りの世話をする役割です。
(もちろんサロンボーイと言って船長や上級士官のお世話係が私の上司としていました。)
「これはラッキーだ」と心の中で快哉を叫びました。あの暑苦しい厨房に閉じ込められるよりも、船内をずっと自由に動き回ることができる。
何よりも士官たちの側で仕事ができることは、自分にとって大きな勉強になりそうで、楽しそうだと思えたからです。
しかし、自由があるとはいえ、16歳の若造に対する生活環境は決して生易しいものではありませんでした。
私にあてがわれたベッドは、船の心臓部であるエンジンルームの真横にある、狭い部屋の二段ベッドの上段でした。
天井までの高さはわずか1メートルほどしかありません。朝寝ぼけて起き上がるたびに、ガツンと何度も天井に頭をぶつけ、痛みに涙を浮かべました。
さらに最悪なのは音です。耳を塞ぎたくなるような、腹の底まで響く激しいエンジン音が、昼夜を問わず、24時間ガンガンと部屋中に響き渡っているのです。
最初のうちは、その騒音のせいで眠ることすら困難でした。
日々の仕事も、朝早くから始まりました。まだ外が真っ暗な午前4時。冷気が突き刺さる甲板へと出ていき、倉庫から冷え切った漬物を取り出してくるのが毎日の最初の仕事でした。(なぜ漬物だしかは不明、キット司厨員の証明かな)
それから士官室の掃除が始まります。洗面所の水を新しいものに取り替え、水差しに冷たい水を入れ、ベッドのシーツをピシッと整え、部屋の隅々まで雑巾をかける。
体力を激しく消耗するような重労働ではありませんでしたが、細かな気配りと手際の良さが求められる仕事でした。
私がそんな仕事をこなしている間、船の最底辺にあるエンジンルームでは、機関員たちが燃え盛るボイラーの前で過酷な労働に身を投じていました。
彼らが相手にしているのは、鉄道の蒸気機関車の10倍はあろうかという巨大なボイラーです。
真っ赤に燃え盛る火床に向けて、凄まじい熱気の中で大汗をかきながら、ひたすら石炭をショベルで焚べる。
それはまさに、人間の体力の限界に挑むような壮絶な現場でした。
彼らに比べれば、自分のメスロンボーイという仕事はどれほど恵まれているだろうかと、子供ながらに感謝したものです。
そして、この仕事が私にもたらしてくれた最大の恩恵は、朝食後と昼食後にそれぞれ2時間近く与えられた「自由時間」でした。
私はその自由時間を利用して、自分が掃除を担当している士官専用の「サロン室」へと毎日のように通いました。
その部屋は、ぐるりと立派な高級ソファーに取り巻かれた、大きくて本当に立派な空間でした。
そこには、インテリである士官たちが読むための、当時の最先端の雑誌や書籍、専門書がずらりと置かれていたのです。
16歳の無学な私にとって、それは宝の山でした。私は誰に遠慮することもなく、毎日毎日、自分の好きな本を好きなだけ読み続けました。
まだ世の中の仕組みも知らない16歳のまっさらな頭の中に、それまで暮らしていた狭い日常とは全く別世界の知識や、日本中、世界中の情報が、怒涛のように流れ込んできたのです。
このサロン室での貴重な学びの時間のおかげで、私の視野と意識は爆発的に広がっていきました。
「世界はこんなにも広いのか」「こんな考え方があるのか」と、知的好奇心が満たされていくあの時間は、私にとって何物にも代えがたい財産となりました。
もし私が遠洋漁船を選んでいたら、日々の容赦ない肉体労働と荒波に追われ、このような豊かな知識の海に溺れる時間は絶対に得られなかったはずです。
太平洋の洗礼と、環境への適応
しかし、船の生活がすべて美しい思い出ばかりだったわけではありません。当然、手痛い洗礼も受けました。
大阪港を出港した第六真盛丸は、隣の神戸港へと寄り、そこから和歌山の手前までは、驚くほど静かで穏やかな海を滑るように進んでいきました。
「船旅とはこれほど快適なものか」とタカを括っていたのですが、和歌山を過ぎた瞬間、海の表情が一変したのです。
船は瀬戸内海のような守られた海を離れ、直接、大広間のような太平洋へと踊り出ました。遮るもののない大洋のうねりを受け、3000トンの船体が激しく揺れ、大きく傾き始めました。
それは、私の人生で初めて経験する、逃げ場のない「船の揺れ」です。
ド、ド、ドゥ~、カラカラカラ~、ローリングという縦揺れです。波に向かって真っすぐに突き進むのでそんな音がするようでした。
三半規管が狂い、視界がぐるぐると回り始めたかと思うと、強烈な吐き気が込み上げてきました。私はたまらず甲板へと飛び出し、手すりにしがみついて、荒れる海に向かって何度も、何度も胃の中のものを吐き出しました。
胃の中が完全に空っぽになっても吐き気は収まらず、最後には胃液しか出ない状態で、頭がクラクラとして立っていることすらできません。
その様子を見て、船の先輩たちは面白そうにゲラゲラと笑っていました。彼らにしてみれば、新人の通過儀礼として数え切れないほど見てきた日常の光景だったのでしょう。
しかし、こちらにとっては笑い事ではありません。「こんな苦しい思いをするなら、もう今すぐにでも降りたい!」と、本気で涙を流しながら思いました。
ところが、人間の身体というのは本当に不思議なものです。
生きた心地のしなかった丸1日、2日が過ぎ、3日目を迎えるころには、あれほど激しかった船酔いが、まるで嘘だったかのようにピタリと治まってしまったのです。
船がどれだけ揺れようが、胃袋はしっかりと食事を受け付け、足元は船体の傾きに合わせて自然とバランスを取るようになっていました。
人間という生き物は、どんなに過酷な環境であっても、生きていくために驚くべきスピードで適応していくものなのだと、身をもって学びました。
この激しい船酔いこそが、私がこの航海で経験した、唯一にして最大の肉体的な苦しみでした。
一つの社会としての「船」、そして北の大地へ
一般的に「船乗り」というと、映画やドラマの影響からか、大きな舵輪(だりん)を力強く握るキャプテンの姿や、甲板で太いロープを荒々しく引く水夫の姿ばかりを想像する人が多いのではないでしょうか。
しかし実際に中で暮らしてみると、船という場所は、それ自体が独立した一つの「完成された社会」であるということがよく分かります。
コンパスを見つめ、天候を読みながら船橋(ブリッジ)で的確に航海の指揮を執る人。
航海を手助けし、積み荷などを采配、管理する甲板員。
見えない船底で、油と汗にまみれながら巨大な機関を冷徹に運転し続ける人。
信号を叩き、外部の世界との唯一の繋がりを維持する無線士。
食材をやりくりし、乗組員の健康と活力となる三度の食事を作る人。
その人たちの身の回りを世話し、生活環境を支える私のような仕事。
これらの役割のどれか一つが欠けても、あるいは誰か一人が自分の仕事をサボっても、この3000トンの鉄の塊は一歩も前に進むことはできません。
だからこそ、今思えばわずか3000トン足らずの小さな貨物船に、20数人もの人間がそれぞれの役割を背負って乗り込んでいたのです。
ちなみに現代では、技術の進歩と自動化によって、これと同じ規模の船であれば、わずか数人のクルーだけで動かしていると聞きます。
昔のように汗と泥にまみれるばかりではなく、機関士なども綺麗な作業服を着て、ネクタイを締めてモニターを監視するような時代になったそうです。
時代の流れを感じずにはいられませんが、根底にある「全員の連携で船を動かす」という本質は変わっていないはずです。
船は清水港(静岡県)へと寄港し、船倉を満たしていた鉄鉱石の上に、今度は木材用の巨大な原木を大量に積み込みました。船体を沈まんばかりに重くした船は、さらに北を目指して進みます。
私たちの船は大海原の真ん中を通るのではなく、常に日本の陸地沿いをなぞるように航海していました。左手を眺めれば、遠くに日本の山々や街並みが見え隠れしているのです。
しかし、宮城県沖の金華山を過ぎるころ、それまで見慣れていた陸地の景色が劇的な変化を見せ始めました。
それまで遠くに見えていた青々とした緑の陸地が、突然、灰色がかった暗く冷たい景色へと姿を変えたのです。
それと同時に、鉛色の空から白い雪がハラハラと舞い始めました。海の色も、太平洋の深い青から、冷徹な黒へと変わっていくようでした。
大阪を出発してから、文字通り一週間もの時間をかけてゆっくりと北上し、ついに目的地の北海道・室蘭港へと到着しました。雪はシンシンと降っていました。
目の前に広がっていたのは、煙突が林立する製鉄所一大工業地帯です。そして、深い、深い雪に覆い尽くされた港町でした。
大海原のイメージから一転して現れた、重厚な北の大工業地帯の景色。16歳の少年にとって、その寒さも、雪の匂いも、工場の圧倒的なスケールも、そのすべてが目新しく、新鮮な感動に満ちていました。
65年が経った今、振り返って確信すること
あの冬の航路から、本当に長い年月が流れ去りました。
その後、私は船を降り、10年近く後には、自分で会社を立ち上げて経営者となます。数え切れないほどの人々と出会い、人生の勉強をし世界も見て回りました。
波乱万丈の人生を歩み、高齢となった今、改めてあの16歳の冬を振り返ると、私の中には一つの「確信」があります。
それは、「私はあのとき、遠洋漁船に乗らなくて本当に良かった」ということです。
誤解しないでいただきたいのですが、これは遠洋漁業という仕事を否定したり、軽蔑したりしている意味では決してありません。むしろ、その逆です。
私は心から彼らを尊敬しています。あの携帯電話もない時代に、家を離れて何ヶ月も、荒れ狂う大海原の真ん中で命をかけて働き、巨大なマグロを水揚げしてきた海の男たちがいたからこそ、戦後日本の豊かな食卓は支えられてきたのです。
彼らの労働は尊く、偉大です。
ただ、単純に「私という人間には、全く向いていなかった」というだけのことなのです。
日本沿岸を陸地を見ながら航海するだけの貨物船でさえ、わずかな揺れで激しい船酔いに苦しみ、「降りたい」と涙を流したような私です。
もしあのとき、給料の高さだけに目を眩ませて遠洋漁船に乗り込んでいたらどうなっていたか。
半年も一年も、太平洋や大西洋のど真ん中の、逃げ場のない荒々しい狂暴な海の上で、正気を保って暮らせたとは到底思えません。
きっと途中で心も身体も完全にへし折られ、海を嫌いになり、自分自身を見失っていたに違いないのです。
現代は、転職することが当たり前の時代になりました。一つの会社にしがみつく必要はなく、より良い条件を求めてステップアップしていくことが推奨される社会です。
求人サイトを開けば、やはり「高収入」「月収〇〇万円確約」といった魅力的な言葉が真っ先に目に飛び込んできます。
もちろん、生きていくためにお金は必要ですし、収入の多さは大切な要素です。
しかし、覚えておいてほしいのです。世の中にある「高い給料」には、必ずそれに見合うだけの「理由」が存在します。
それは、命の危険が伴うほどの過酷な仕事内容かもしれない。
あるいは、精神をすり減らすような重い責任の重圧かもしれない。
個人のプライベートな時間をすべて奪い去るような、長い拘束時間かもしれない。
もし、その過酷な条件を補って余りあるほどの「その仕事が好きだ」という情熱や、「この先に自分の夢があるんだ」というロマンがなければ、人間は長続きしません。
どれほど給料が良くても、心が拒絶してしまえば、いつか必ず破綻します。自分に向いているか、その仕事が好きかどうか。
最も本質的な基準を見落としてしまう人が多いのではないでしょうか。
……と言っても、偉そうなことばかりは言えません。実は私自身、その選んだ貨物船でずっとうまくやったわけではないのです。
最終的には、当時の職属の上司と大ゲンカをしてしまい、乗船してわずか1年半後には、船から追い出される羽目になってしまいました(笑)。
それでも、あの16歳の私が「あの5倍という給料の額」ではなく、自分の「好き」や「夢への憧れ」という直感に従って貨物船を選んだという事実そのものが、私の人生の確かな土台となりました。
上司とケンカして追い出されたその1年半の経験のなかに、サロン室での読書があり、船という社会の仕組みの学びがあり、室蘭の雪景色への感動があったのです。それらがすべて、その後の私の経営者としての血肉となりました。
当時の私は、こんな仕事選びの基準なんて、当然理屈では知る由もありませんでした。ただ、自分の心が動く方へ、自分に合った道を選んだだけです。
もし今、あなたが「今の仕事を辞めようか」「次は何を基準に仕事を選べばいいのだろうか」と五里霧中の中で迷っているなら、どうか条件の数字だけで答えを出さないでください。
「私は、この仕事が好きだろうか」
「この仕事は、本当に私の性分に合っているだろうか」
「この苦労の先に、私の見たい夢やロマンはつながっているだろうか」
その問いを、周囲の雑音をすべてシャットアウトして、一度だけ自分の胸の奥深くに投げかけてみてください。
破格の給料の遠洋漁船の話を断った、私の小さな選択は、『仕事の選択の基準』として決して間違っていなかったと信じています。
