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掌篇小説 老人と少女

 有作が美枝子と出会ったのは、偶然のきっかけだった。
 80歳を越えた有作は、足腰がすっかり弱ってしまい、杖をつかなければ歩くことのできない老体になっていた。だから、普通の人より歩みがだいぶ遅くなる。
 このごろは、横断歩道を渡るとき、向かいの青信号が点滅し始めると、渡るのを諦めて、次の青に変わるまで待つようになっていた。というのも、以前横断歩道を渡っている最中に青信号が点滅し始めて急ごうとしたのだが、歩道の真ん中で赤信号に変わってしまい、止まっていた車からクラクションを鳴らされたことが何度もあったからだ。
 その日、有作は杖をついて、近くのスーパーへ食料の買い出しに向かっていた。車の通らない道を選んでをゆっくり歩いていると、突然後ろから暴走してきた1台の自転車が有作の体すれすれを走り抜けて行った。そのとたん有作は体のバランスを失い、転倒してしまった。杖で体を支えて起きあがろうとしたが、腕にも足にも力が入らず、起きあがることができない。しかたなく、しばらくその場にうずくまっていた。
「大丈夫ですか?」
 不意に、頭上で声がした。見上げると、1人の少女が立っていた。学校の制服を着ていたので、高校生のようだった。
「あ、大丈夫だよ」
 有作は再び起き上がろうとしたが、足がもつれてうまく立ち上がれない。すると、少女が手を差しのべて、有作の体を支えて抱き起こしてくれた。
「ありがとう。助かったよ」
 有作は言ったが、少女は心配そうに有作を見ている。
「血が出ていますよ。けがをしているのではないですか。病院に行きましょう」
 転んだ拍子に手をついて、どこかを切ったらしい。指の先から血が流れていた。それを見たとたん、腰に痛みを感じた。歩き出そうとするが、体が動かない。
「救急車を呼びましょうか」
 少女が言う。
「いや、そんな大げさにしなくても大丈夫だよ。少し休めば歩けるから」
 有作は立ったまま何度か深呼吸をし、杖を握りしめて歩を進めた。だが、体がぐらついてうまく足を運べない。
「私につかまってください」
 少女が体を寄せて、有作を支えてくれた。
「すまないね」
 有作は、少女につかまりながら歩き始めた。
「どこへ行かれるのですか」
「買い物に行こうと思ったが、やめたよ。家に帰る」
「お家はどちらですか」
「この先なんだけど……」
「お送りします」
「いや、そこまでしてくれなくてもいいよ。
1人で歩けるから」
「でも、ふらふらしているじゃないですか。
危ないですよ」
 少女は有作の腰に手をまわした。
「ありがとう。助かるよ」

 少女に体を支えられて、有作はアパートまでたどり着いた。玄関の扉の前で、少女は有作の体から手を離した。
「じゃあ、私はここで」
「え? 帰るの?」
「はい。お家の人がいるから、もう安心でしょ」
「いや、誰もいないよ。私はひとり暮らしだ」
「え?」
 今度は少女が驚いた表情を見せた。有作はポケットから鍵を取り出し、玄関の扉を開けた。
「入っておくれ。このまま帰してしまったら、私の気持ちがすまない」
「そんなこと……」
 少女は当惑したように立ちつくしている。
「遠慮しないで、さあどうぞ」
 有作は少女を促した。
「そうですか。ではちょっとだけ……」
 少女は有作の顔を見つめると、靴を脱いで部屋にあがった。有作は杖を玄関に置き、壁に手をつきながら、奥へ進んでゆく。外を歩くよりも、慣れた足の運びだった。
 有作の部屋は2DKである。玄関を入った手前に1部屋、その奥にもう1部屋。手前の部屋を覗いた少女が声をあげた。
「うわあ、なにこれ。DVDがこんなにたくさん」
 壁に押しつけた本棚いっぱいに、DVDのコレクションが並んでいる。有作の唯一の趣味なのだ。もちろん、それを見るためのプレイヤーも備えてあった。
「私は以前映画会社で働いていたことがあるんだよ。撮影現場で裏方の仕事をしていた。会社を辞めてから、自分が関わった作品のDVDを集めているうちに、いつのまにかこんなに増えてしまった」
「これ全部、おじいさんが関わったのですか」
「いや、そういうわけじゃない。ひとり暮らしになってから、昔見た懐かしい映画もコレクションするようになった。今では1日の時間つぶしにこれを見るのが楽しみでね」
 少女は興味深そうに棚を眺めている。
「七人の侍、キューポラのある街、飢餓海峡、昭和残侠伝、ALWAYS三丁目の夕日、フラガール……私の知らない映画ばっかりだ。あ、これは知ってる。千と千尋の神隠し、この間テレビでやってた。セーラー服と機関銃……なんですかこれ、変なタイトル」
 急に少女の声がはずんだ。
「薬師丸ひろ子って、知っているかい?」
「知ってます。ときどきテレビドラマに出ている女優さんでしょ」
「彼女が17歳のときに主演した映画だよ」
「17歳? 私もいま17ですよ。そのときもう映画に出ていたのですか。セーラー服というと、女子高生ですよね。女子高生と機関銃にどんな関係があるのですか」
 有作は映画のあらすじを話した。
「へえー、おもしろそう。見せてもらっていいですか」
「ああ、いいよ」
 少女はプレイヤーにDVDを入れた。画面が動き始めると、食い入るように見つめている。有作はうれしくなった。
 1時間近く過ぎたとき、少女が言った。
「あ、もうこんな時間。帰らなくちゃ。残念だけど」
「そうか。じゃあ、続きはまた見においで」
「え、いいんですか」
「もちろんだよ。いつでもいらっしゃい。そうそう、まだ君の名前を訊いていなかった。なんていうの?」
「ミエコです。オノダミエコ」
「ミエコはどんな字を書く?」
「美しいに、木の枝、そして、子ですけど」
 それを聞いたとき、有作はさらに少女に親しみを覚えた。なぜなら、10年前に死んだ妻と同じ名前、同じ文字だったからだ。
 少女が帰ったあと、有作は棚の上の妻の遺影に語りかけた。
「美枝子、おまえが帰ってきてくれたようだったよ。きっと、高校生の頃はおまえもあんなふうに明るくやさしかったのだろうなあ」

 美枝子が有作を訪ねてきたのは、三日後の夕方だった。
「この間の続きを見にきました」
 突然だったので、有作は慌てた。遅い昼寝をして目覚めたばかりだったからだ。ベッドは乱れたままだし、食卓の上も昼の食事の汚れた食器が片付いていない。だらしない年寄りと思われたかもしれないな、と有作は思った。
「あ、私がやりますよ」
 動こうとした有作を制して、美枝子は食卓の片付けをはじめた。皿洗いまでしてくれる。
そんな美枝子を、有作は驚いて見つめるばかりだった。
「ありがとう。すまないね。おかげで助かったよ」
 片付けが終わると、美枝子はDVDプレイヤーを取り出して、『セーラー服と機関銃』をテレビ画面に映し始めた。有作は何も言わず、美枝子の後ろに並んで腰を下ろした。映像が始まると、美枝子は有作が傍にいることを忘れたかのように画面に集中し、終わるまで一言も口をきかなかった。
「おもしろかったかい」
 有作が声をかけると、
「ええ。こんな映画があったなんて、知りませんでした」
 美枝子は興奮したように答えた。
「映画が好きなの?」
「好きというか、部活で演劇部に入っているので」
「ほう、それはいいね」
 DVDが終わってから、有作は薬師丸ひろ子のエピソードや映画の撮影現場の様子などを美枝子に話して聞かせた。美枝子はそれを興味深く聞いてくれた。
 その日から、美枝子は有作のところに時々顔を見せるようになった。それも、毎週水曜日の夕方と決まっていた。水曜日は授業が早めに終わるので時間があくから、ということだった。そのたびに美枝子は、有作に代わって買い物に行ってくれたり、部屋の掃除をしてくれたり、夕食を作ってくれたりした。有作は、美枝子と会えるのを心待ちするようになった。美枝子と話をしていると、孫娘と会っているようで、気分が若返り楽しかったからだ。
 だが、あるときから美枝子は急に姿を見せなくなった。1ヵ月が過ぎ、2ヵ月が過ぎた。美枝子がどこに住んでいるのか有作は知らなかったし、連絡先も聞いていなかったので、どうしようもなかった。やがて、こんなじいさんと話をしてもつまらなくなったのだろう、と思い諦めることにした。
 
 美枝子のことを有作がすっかり忘れかけたある日、突然美枝子が現れた。水曜日ではない夕方だった。
「また、来ちゃいました」
 美枝子は、照れたようにつぶやき、外に立ちつくした。その様子に、有作は以前のような明るさが美枝子から消えているように思えた。
「どうしたの?」
「今晩、ここに泊めてもらえませんか」
「え?」
「家に帰りたくないんです」
 有作は驚いた。
「何があった?」
「親とけんかしちゃって」
 美枝子が言う。うつむいて、立ちつくしたままだ。
「とにかく、中に入りなさい」
 有作が誘うと、美枝子はおとなしく中に入ってきた。美枝子が部屋に落ち着いたとき、有作は訊ねた。
「なんで親とけんかしたの?」
「学校を無断欠席していたことがばれちゃったんです」
 美枝子は、髪をかきあげながら苦笑いした。そのとき、有作は美枝子の左手首にリストカットの傷があるのを見つけた。前にはなかったものだ。
「その傷はどうした?」
 美枝子はあわてて左手を隠した。
「何があった?」
 有作は問いつめた。だが、美枝子は答えない。
 思春期の子がリストカットするのは、怒り、不安、恥といったつらい気持ちをやわらげるためだ、と有作は聞いたことがある。あんなにいい子だった子がなぜそんなことをしたのか、よっぽどのことがあったに違いない、と有作は思った。
 ふと、昔の出来事を思い出した。映画会社に勤め始めて間もなくのころである。19歳の新人女優が、手首を切って自殺を図ったことがあった。幸い発見が早かったので命は取りとめたが、大失恋をしたからだとか、先輩女優にいじめられたからだとか、あらぬ噂を立てられた。そのため、その子はやがて映画界から姿を消した。有作は、将来有望な女優だと思っていたので残念であった。
 その子の場合と今度の美枝子のリストカットとでは、事情は全く異なっているのだろうが……。
「なぜその傷を? わけを話してごらん。少しは気持ちが楽になるかもしれないよ」
 有作は口調を改めて、やさしく言った。すると美枝子が口を開いた。その話の中で、次のような事情がわかった。 
 美枝子と演劇部の部活を一緒にやっていた友だちが顧問の先生からひどく叱られて落ち込み、気晴らしにパーッと遊びに行こうと美枝子を誘った。美枝子は断ったが、他の友だち数人が行くことになったので、美枝子1人が抜けるわけにはいかなくなった。
 カラオケを楽しみ、ゲームセンターで遊び、ファミレスで食事をした。そのあと駅へ向かって歩いている途中で、大学生らしき男たちのグループに声をかけられた。美枝子は無視したが、友だち2人がそのままついて行ってしまった。取り残された美枝子は1人で帰ってきた。
 翌日、美枝子が学校へ行くと部活顧問の先生に呼び出され、夕べはどこへ行ったのかと問い質された。大学生について行った友だちがそのあと警察に補導され、その連絡が学校に来た。その生徒は美枝子も一緒にいた、と証言したという。事情を説明したが、美枝子も補導された生徒たちの仲間だと誤解されてしまった。それ以来、友だちとも気まずくなり、学校に行って顔を合わせるのが嫌になって、無断欠席を続けた。
「無断欠席をなぜ親に黙っていたの?」
「心配をかけたくなかったからです。父も母も私が毎日ちゃんと学校へ行っていると思っていました。いつもどおりに家を出て、いつもどおりに帰っていたから。それが、今日学校から家に連絡がきてばれちゃった。理由を全部話すと、母がそんな不良の子と付き合うのはやめなさい、と言い出した。それで、私怒ったんです。友だちの悪口を言うな、と。そしたら母がしつこく私に説教するものだから、我慢できなくなって家を出てきたんです」
 美枝子の表情が暗くなった。淋しそうである。
「部活は演劇部だったね」
「はい」
 部活の友だちと気まずくなったせいで学校へ行きたくなくなった。つまらない理由だ。だが、美枝子にとってはそれは重大なことなのかもしれない。
「『櫻の園』という映画を知っているかい」
「いいえ、知りませんが」
 有作はDVDのコレクションの中から『櫻の園』を取り出して、プレイヤーに入れた。
「女子高の演劇部を舞台にした映画だよ。見てごらん」
 毎年創立記念日にチェーホフの『櫻の園』を上演することが伝統になっていた私立女子高校の演劇部。それが、開幕2時間前の早朝、部長の生徒が学校で禁止されているパーマをかけた髪で登校し、部員の1人が喫煙で補導され、上演中止の騒ぎになって、部員たちが動揺する――という映画である。
 最初、美枝子は全く関心を示さなかった。だが、映像が始まってしばらくすると、画面に強く引きつけられたように集中しはじめた。そんな美枝子の様子を、有作は痛ましく見守っていた。手首のリストカットの傷が気になる。
 『櫻の園』は、お互いの気持ちがすれ違っていた部員同士が、最後には理解し合い、無事にチェーホフ劇上演の幕が開く、というハッピーエンドで終わった。
「どうだった?」
 終わってからしばらく画面から目を離さない美枝子へ、有作が訊いた。
「とても良かったです。同じ演劇部として、他人事とは思えませんでした。でも、うまく話ができすぎていたようにも思います」
「まあ、映画だからねえ」
 『櫻の園』を見せて美枝子の気持ちを少しでもやわらげてあげようと考えたのだが、どうやらそうならなかったようだ。美枝子には、有作にははかりしれない悩みの世界があるのかもしれなかった。気がつくと、時刻はすでに夜の9時を回っている。
「帰りなさい、家へ。ご両親が心配しているだろう」
「え? 泊めてくれるのではないんですか」
「そんなわけにはいかないよ」
 有作は語気を強めて言った。
「親や友だちといつまでも気まずくしていたくない、と君だって思っているんじゃないのかな」
 美枝子は黙ったままだ。
「今晩ここに泊まったら、きみはますます家に帰りづらくなるよ。それは困るだろ?」
 美枝子は悲しそうな表情をした。そして、つぶやいた。
「わかりました。帰ります」
「それがいい。帰ってお母さんにあやまるんだ。いいね」
 美枝子はうなずき、立ち上がった。そして、有作のほうを見ようともせず、怒ったように出て行った。その後ろ姿を、有作は複雑な思いで見送った。
 部屋に戻ると、有作は棚の上の遺影の美枝子に語りかけた。
「美枝子。あれでよかったのかな。やはり泊めてあげたほうがよかったのかもしれないな」
 遺影の美枝子は、ただ黙って微笑んでいるだけだ。
 美枝子はちゃんと家に帰っただろうか。有作の中に不安が広がった。もしかすると、帰らずに夜の街をうろついているのかもしれない。そして、またリストカットを……。あの子は行くところがなくて私を頼ってきた。それなのに、追い返してしまった。後悔が残る有作であった。
 今度もし、もう来ないだろうが、もし今度訪ねてくることがあったなら、ここに泊めてあげよう。有作はそう思った。
                             〈了〉

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