藤堂高虎と大河ドラマの高虎
弘治2(1556)年~寛永7(1630)年
近江国犬上郡藤堂村(滋賀県犬上郡甲良町)の土豪藤堂虎高の二男で、幼名は与吉、通称は与右衛門です。母は多賀良氏の娘の”とら”(妙青夫人)です。
◇弘治2(1556)年◇
生まれました。
◇1568年◇
兄と叔父が信長軍に従って、伊勢の北畠氏との戦いで討ち死にしています。兄が死んだので、高虎が藤堂家の実質的な継承者となったようです。ただ、高虎は、姉川の戦いまでに浅井長政に仕え始めます。
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#豊臣兄弟 第15回「姉川合戦」(1570年(元亀元年)):15歳
姉川の戦いで初陣を飾ります。このときは、中学2年生ぐらいの年齢なんですね。そりゃ、だだもこねるわ。
参考文献
諏訪勝則『図説 藤堂高虎』(戎光祥出版)(https://amzn.to/48GXCr2 )
『戦国時代人物事典』(学研)(https://amzn.to/4sJJxjU)
『戦国人名辞典』(新人物往来社)( https://amzn.to/4tUBSRa)
『戦国武将合戦事典』(吉川弘文館)(
#豊臣兄弟 第17回「小谷落城」(1573年(元亀四年/天正元年)):18歳
浅井が1話の半分も長々と尺をかけて滅びたので、阿閉政家や磯野員昌のもとを転々として、18歳のとき、織田信澄に仕えます。
第18回「羽柴兄弟!」(1575年(天正三年):22歳
浅井が1話の半分も長々と尺をかけて滅びたので、阿閉政家や磯野員昌のもとを転々として、18歳のとき、織田(津田)信澄に仕えたこともあります。
ドラマでは、このタイミングで羽柴秀長(長秀)に出仕しますが、『図説 藤堂高虎』によると、このころは織田信澄のもとで、丹波攻めに加わっていたようです。辞書によると、実際の出仕は天正4(1576)年のようです。
豊臣兄弟 19回「過去からの刺客」のころ:22歳
◇天正5(1577)年◇
辞書によると、実際の出仕は天正4(1576)年のようです。300石の禄だといいます。
このころの動向は分かっていません。秀吉の戦いに従軍したり、秀長のもとでがんばっていたと考えるべきでしょう。
豊臣兄弟 20回「本物の平蜘蛛」のころ:22歳
◇天正5(1577)年◇
ドラマでは、考えるよりも先に動くということを実践していました。あいかわらず、デカい。
豊臣兄弟 21回「風雲!竹田城」のころ:22歳
◇天正5(1577)年◇
ドラマでは、竹田城の普請を担当していました。
豊臣兄弟 22回「播磨大誤算」のころ:23歳
このころの動向は不明瞭なところも多いのですが、基本的には秀長のもとでがんばっていたと考えられています。
◇天正6(1578)年◇
別所長治が反乱したときの三木城攻めに加わっていたようです。そして、野口城の攻略にも取り掛かったようです。秀長が播磨でも別所と戦ったりしているので、高虎もいたのかもしれません。
豊臣兄弟 24回「軍師官兵衛!」のころ:25歳
基本的には秀長のもとでがんばっていたと考えられています。
◇天正7(1579)年◇
三木城攻めのとき、松井与左衛門を討ち取ったといいます。
◇天正8(1580)年◇
正月、播磨にいたようです。
三木城攻めのとき、賀古六郎右衛門を討ち取って、名馬「賀古黒」を得たといいます。
その後の高虎
以下の戦いに従軍します。
但馬国一揆討滅戦。
伊勢峯山・亀山城攻略。
軍功によって、三千石を領します。
・天正11(1583)年、賤ヶ岳の戦いの功により、二千石加増されます。その後、秀吉から五千石加増されます。
・小牧・長久手の戦い
・天正13(1585)年、領地が一万石となります。
・天正15(1587)年、九州遠征では、島津攻めの功により、一万石加増されます。このころに、秀吉に推挙されて正五位下・佐渡守となります。
こうして、高虎は大納言秀長の筆頭老臣となり、紀州粉河城二万石の城主となります。
この年に、徳川家康の伏見屋敷の築造を担当して、それをきっかけとして家康に気に入られます。
秀長が没した後には、秀長の養子秀保に仕えます。
・文禄元(1592)年、文禄の役では、秀保の代わりに朝鮮に渡り、水軍を率います。軍功をあげます。
・文禄4(1595)年、秀保が横死してしまいます。高虎は高野山に入って、世を捨てようとします。しかし、秀吉に召し出されて、直臣となります。
・文禄4(1595)年、伊予宇和島城主となり七万石を領します。
・慶長2(1597)年、慶長の役でも朝鮮に渡ります。7月、唐島で敵船を捕獲したらい、巨済島の海戦で朝鮮水軍を全滅させましたが、李舜臣の復帰により苦戦します。8月、南原城を抜きます。9月、水原で負傷します。
帰国後、一万石を加増されて、領地は八万石となります。
早くから家康に通じていたので、秀吉の死後は家康に近づきます。
・慶長4(1599)年、弟の正高を、江戸の家康のもとに人質に出します。
・慶長5(1600)年、上杉景勝征伐や岐阜城攻略に加わります。
9月15日の関ヶ原の戦でも、東軍に属します。東軍左縦隊として小早川秀秋や大谷吉継の軍を破ります。
関ヶ原の戦功により、伊予今治二十万石の大名となります。
・慶長11(1606)年、備中国で二万石加増され、和泉守にもなります。
・慶長13(1608)年、伊勢津城主二十二万九千九百石に転封されます。所領は伊賀一国と伊勢国八郡です。
・慶長20(1615)年/元和元年、大坂夏の陣に参陣します。家康軍の先鋒として、八尾で長宗我部盛親と戦います。真田信繁(幸村)に攻め込まれた家康を救出します。閏6月に、従四位下に昇ります。伊勢国四郡五万石を加増されます。
徳川家康が没した後は、秀忠に仕えます。
・元和3(1617)年、伊勢田丸五万石を加増され、三十二万三千九百五十石を領します。
・元和5(1619)年、徳川頼宣の和歌山転封に伴い、田丸領五万石が山城・大和五万石と交換されます。
日光東照宮の造営や、徳川秀忠の娘の東福門院の入内などにも力を尽くします。
・寛永3(1626)年、少将となります。
晩年に失明します。
・寛永7(1630)年10月5日に没します。 江戸東叡山の寒松院(東京都台東区上野動物園内)に葬られます。法号は寒松院殿道賢高山権大僧都で、享年75です。
高虎は文学や茶の湯、能楽などを嗜み、子の方高に「太祖遺訓十九条」を伝えました。
