見出し画像

【書評】 『東京、音楽、ロックンロール 完全版』

今年活動休止したバンド、フジファブリックの創設メンバー、リーダー、ボーカル、フロントマンであり、平成21年(2009)に29歳で急逝した志村正彦。

彼が残したウェブ日記『志村日記』『志村日記2』の全文と、最初の書籍化にあたり本人の回想がインタビュー形式で追記され、そして増補のうえ再販されたこの「完全版」にはロキノン(『ロッキング・オン・ジャパン』誌)の20,000字インタビューが収録されている。

山梨県には妻の実家があるのでなんとなく想像出来る部分があるのだが、隣県にもかかわらず、東京との距離感はとても大きい。
これは埼玉、千葉、神奈川に暮らす人のマインドとは大きく異なる気がする。

地元の進学校に通っていた志村は、友達に誘われ富士急ハイランドで奥田民生のライブを見たことで音楽に目覚め、バンド活動にのめりこむ。
バンド名を決めなくちゃとなった時に、結成時のメンバーだった同級生の家業の繊維会社「富士ファブリック」をそのまま名乗ることになる(上京後に「フジファブリック」に改名)。

志村日記は公式ウェブサイト上の日記なのだが、文体がロキノンぽいというか、志村がロキノンに影響されてこうなったのか、はたまた同じようなセンスのひとがロキノンに集まってくるということなのか。

上京して最初のライブは、むかしの友達が5人来てくれただけだったフジファブリック。メジャーデビューを果たしてロックスターへの道を駆け上がってゆく照れと戸惑いを志村は実直に綴る。

取材って受けたらお金もらえるものかと、思ってて。一回いくらくらいもらえるんだろうと思ってたらそんなことはなくて。こっちが広告を出して、お金払って雑誌に出てるってことを初めて知って、ショックを受けた時期でした

日記から見えるのは、デビュー当時から一貫して、音楽のことだけを考え邁進している姿。

平成19年(2007)発表の名曲『若者のすべて』は多くのアーティストにカバーされ、昨年も女性歌手によるカバーが映画の主題歌になっている。

もういろんなことがありすぎて訳が分からん。でもそれはだいぶ前から。そしてそれはこれからも続いていくことでしょう。続けていきたい。でも、僕は思った。成長した。東京に来てから、この数年間で成長した。
ん~、これ以上書くと変なこと書きそうだからやめとく。曲を聴いてくれ、曲を。
あんまクサイことはいいたくないんだが、もうすぐ出るシングル『若者のすべて』は、今の僕が言えることのすべてです

平成21年(2009)12月24日、志村が自宅で亡くなっているのが発見された。
死因は不明とされ、自殺説も流布されたけれど、本人の日記からそのような兆候は伺えず、想像に想像を重ねるしかないけれど、不慮の病死であっただろうと思うほかない。

実際、日記の記述の端々に、本人が意図しない、あの日に向かう不吉な予兆が書かれている:

実は最近まで謎の体調不良にみまわれ(高熱とともに唇が2倍くらいに腫れたりしました)、どうしようかと思ったのですが、なんとか治してなんとか声も出ました

実は大阪野音の日の朝、僕は近年稀に見る猛烈な腹痛に襲われまして、ゲロまみれで意識朦朧とした中、マネージャーに連れられ病院に行きました。

持病もありつつも、我慢して活動してました。難聴疑惑も、たぶん自律神経がおかしくなっちゃってたんでしょうね。ちょっと左右の耳の聞こえ方がおかしくなった

レコーディングの歌入れが全部終わった帰りに倒れちゃって。(中略)気分が優れなくなって、ちょっとトイレに行こうと思って。トイレに行ったら平気なんですけど、また電車に乗ろうと思ったら、また怖くて気持ち悪くなってトイレに行って。それを一駅ずつ繰り返して、ようやく新宿まで行ったんですけど、新宿でまた倒れて、そこからタクシーで家に帰ったっていう。その頃から電車恐怖症になったんです

仙台。このツアー、一番の盛り上がり。実はこの日の朝、具合が悪くなり、病院に行った。そしたら、39.6℃の熱が出てた。さすがに、これはヤバいと思った。ふらふら

持病が悪化。ラジオ収録にも行けず。すみません。病院に行きました。
もうね、全快。早く行っときゃ良かったよ。ビョーインってすげー

朝から病院をハシゴし、たらい回しにされる(中略)。一見、不健康そうですが、今僕はとっても健康です

この頃すごい痩せてました。ご飯も食べなかったですからね。どんなダイエット法よりも絶対痩せる方法を見つけたんですよ。飯食わないで走るっていう。僕の場合は歌ってたわけですけど。でもそれで倒れましたけど
(笑)。唯一の栄養分は、スポーツドリンクでした

医者からも、「いろんなこと考えないで、仕事も休まないと、何年後かに死んじゃうよ」って言われてて。「死ぬのは良いけど、作品出せないのはちょっと嫌だな」って思って

相当疲れてたんです。(中略)自問自答してると、疲れちゃうんですよ。自分の嫌なところもたくさん見えるし。毎日自分と見つめ合ってる感じで。気軽に恋愛とかできればいいんですけど、僕そんな簡単に人と付き合えないですし。彼女と一緒にどっか行ってストレス発散みたいなことできればいいんですけど、僕は全くそういうのに適してない人間なので、捌け口がない

カノジョはいない、東京の自宅にひとを呼ぶのも稀、と公言していた志村にとって、おそらく唯一の逃げ場は地元の山梨だったのだろう。

この前、高校の同級生達とカラオケ行きました。(中略)そしてフジファブリック歌わされた。自分の曲力ラオケで歌うの初めてかも。カラオケ自体数年行ってなかったし。採点されたよ、89点とかだった。おいおいおい俺の曲なのに、と思った

その地元の同級生たちの尽力で、富士吉田市の夕方5時のチャイムや富士急行の駅の接近警告音がフジファブリックの曲になるなど、その足跡を語り継ぐ取り組みが続いている。

旅立つその年に初めてデンマークでのレコーディングを経験し、世界に目が向くようになったとされる志村正彦が、あの日本語ロックの才能をどのように拡げられたのだろうかと、ifを論じても詮無いと分かっていながら、考えてしまう。

合 掌


補遺:
「富士ファブリック」結成時のメンバーの一人が弁護士に転身しており、志村との思い出を語る記事が先月『弁護士ドットコムニュース』に掲載された

いいなと思ったら応援しよう!