短編 | 「朝霧」 (3,304字)
十月に入ってから朝晩の気温はぐっと下がっていた。紗希は薄手のワイシャツしか着てこなかったため、始発を待つ駅のホームでは両手で体を抱え込むようにしてベンチに座っていた。到着した電車の中に乗ると、車内は外よりもずっと暖かく、座席に腰掛けた紗希を睡魔が襲う。紗希は閉じそうな目を指でぐっと開いて睡魔と格闘した。
こんな予定じゃなかったんだけどな。こんなに寒いなら、あいつの服を借りてくればよかった。そんなことを思いながら紗希は電車に揺られた。
∞
今朝目を覚ましたのは、親友の葵の紹介で知り合った智哉の部屋のベッドの上だった。これまで葵を含めた複数人で飲んだことしかなかった単なる飲み仲間の智哉と、何がどうなってこうなったのか。起きてしばらくは、紗希は頭痛と吐き気でまったく頭が回らなかった。紗希が起きて十分ほど経った頃、床に敷いた長座布団の上で智哉が目を覚ました。
「ああ、紗希ちゃん。おはよう」
「おはよう……って、これはどういうこと? もしかして、もしかしてなのか?」
「うわー、覚えてないの? マジか。僕、昨日はけっこう真面目に話をしてたのになあ」
「えー、ああ。何かうっすら思い出してきたわ」
紗希はズキズキ痛む脳みそをフル回転させて記憶を再生させる努力をした。少しずつ、記憶が甦る。昨日は確か葵と智哉と、あと、アッ、あいつ、祐樹だ。四人で飲んだな。一次会は覚えてる。全国チェーンの某居酒屋で安い日本酒を飲みまくった。二次会は個室の居酒屋。この辺から記憶が継ぎ接ぎだ。そして終電が逃して無理やり智哉んちに来た。ああ、なんか、葵が泣いてたような記憶もある。
「ちょっとゴメン智哉。昨日の二次会でさあ、葵、泣いてなかったっけ?」
「泣いてたよ。覚えてないの?」
紗希は目を閉じて記憶を手繰り寄せる。
「薄っすら覚えてるけど。もしかしてあたしが泣かしたりした?」
「いや、紗希ちゃんは関係ない。二次会、ほとんど寝てたし。」
「ちょいちょい。じゃあ何で葵は泣いたのよ。祐樹が泣かしたとか?」
「うーん、まあそんなところかな。葵ちゃん、祐樹のこと好きだったから」
「えっ、智哉、あんたなんでそれ知ってんのよ? あの子、あたしにしか話してないはずだよ」
驚いた顔の紗希を見た智哉は嬉しそうに目じりを下げる。
「紗希ちゃん。相当鈍感じゃない限り、そんなの見てれば分かるよ。つまり、紗希ちゃんが一番鈍感だってことだね。ふふふふふ」
「コラ、笑うんじゃない。鈍感な自覚はあるんだからな。話を戻そう。じゃあ、葵は祐樹に振られたってこと?」
「まあ、結果的にはそうなるね。最近、祐樹に彼女ができたから。その話になって、葵ちゃんが泣いた。それだけ」
「はあぁ。そうかあ。そんな時、あたしは寝ていたというのか。情けないわ。自分が」
「いや、店から出た後、紗希ちゃん、葵ちゃんのこと励ましてたよ。熱くね」
「えっ、ほんと? さすがあたし。酔っても友情は忘れない。じゃあ、それはもういいわ。今のこの状況を説明して。ちょっと思い出せない」
智哉は座布団の上で居住まいを正す。
「そうだよねえ。訴えられても困るし」
「いや、あたしもクセ悪いからな。訴えはしない。同意はした。んじゃないか? たぶん」
「そうだよ。じゃなきゃ、非力な僕が部屋に連れ込むなんて無理だー。っていうか何もしてないよ、僕」
「えっ、女連れ込んどいて何にもしてないの? そんな男、この世に存在するのか? つーか、こんないい女に手を出さないって兄さんどうかしてますぜ」
「いや、僕だって気持ちはあるよ。でも紗希ちゃん、うちに来てすぐに僕の布団で寝ちゃうんだもの。寝顔がとても気持ち良さそうだったし。起こすのも悪いかなって」
「きみはアホか聖人のどちらかだな。ある意味変態だ。寝顔見て満足するとかって、そんな性癖ってあんのかな? 知らんけど」
「別にいいじゃない。お互いぐっすり眠れたんだし」
「うう、なんか腑に落ちないけど、いいかまあ。再確認だけど、マジでヤッてないんですか?」
「ヤッてません。神に誓って」
「そうか。それはそれで良いんだけど、またちょっと凹んだ。じゃあ、もう帰るわ」
紗希は部屋に脱ぎ捨てていたジーンズとワイシャツを拾って身に着ける。
「紗希ちゃん、始発もまだだから、朝飯でも食べていきなよ」
紗希の返事を待たずに智哉はパッと立ち上がり、台所へ向かい冷蔵庫から野菜を取り出して、流し台に干してあったまな板と包丁で手際よく野菜を切る。切った野菜を鍋に入れグツグツと煮ると、最後に出汁入り味噌と絹豆腐を入れて味噌汁が出来上がる。二人分のお椀に分けてお盆に乗せ、6畳間のテーブルに箸と一緒に置いた。
「どうぞ。お召し上がりください」
「はい。謹んでいただきます」
優しい味付けの味噌汁は、紗希の酔った体にスウッっと染み込んだ。
「あぁ、美味しい。智哉、料理上手ね」
「そんな大げさな。味噌汁くらい誰でも作れるよ。おかわりあるからね」
「はい、じゃあおかわり」
「早いね。今持ってくる」
紗希は2回おかわりをした。電車の始発時間が近くなっている。紗希は手を合わせて「ごちそうさま」を言い、財布とケータイをジーンズのポケットに入れて帰り支度を済ませる。
「泊めてもらった上に朝ご飯までいただきまして。本当にありがとうございました」
「いえいえ、お粗末様でした。紗希ちゃん、また遊びに来てね。僕、待ってるから。もちろん、紗希ちゃんが良ければだけど」
「それはちょっと考える。いや、真面目に。そんないい加減な女じゃないから、あたし。全然説得力ないけど」
「知ってる。僕、ちゃんと見てるから、紗希ちゃんのこと」
「そう……んじゃ、また連絡する。じゃあね」
「うん。じゃあね」
紗希はアパートの扉を閉めて階段を下り、駅に向かって歩く。
――そうか、智哉はあたしのことを見ていてくれていたんだ。
紗希は鈍感な自分に心底呆れた。
歩いているうちは寒さを感じなかったが、駅のホームにあるベンチに座った紗希は急に寒さを感じる。始発電車がホームに到着し、出発よりも少し早く電車に乗り込む。「ああ、暖かい」と紗希は呟いた。出発した電車に揺られながら睡魔と格闘し、紗希は無事に自宅の最寄り駅で下りる。見渡す限り田んぼしかない駅周辺は、朝霧で真っ白になっていた。
自宅へ向けてトボトボ歩き出す。駅から五分ほど歩いたところで携帯の着信音が鳴る。葵からのメッセージだ。
昨日は先に帰っちゃってゴメン。智哉くんとは上手くいった?
いやいや、上手くいくどころか、醜態をさらしたよ。
智哉くんって、ほんとに優しいよね。昨日は紗希と一緒にずっと私を慰めてくれたし
あ、あいつそんなこと言ってなかった。そうなんだ。
紗希には合ってると思うよ、智哉くん
そうかな。そうなのかな。
今度は紗希と智哉くんと私、三人で飲もうよ
それは問題ない。全くね。
そんなやり取りをしているうちに、紗希は自宅への曲がり角を通り過ぎていたことに気が付いた。「何やってんだ」とひとりごちて来た道を戻りながら、紗希は智哉にメッセージを打つ。
今日はありがとう。味噌汁、美味しかった。
送ってすぐに「どういたしまして。いつでも作るよ」との返事。
その言葉の温かさは智哉の心の温かさだと思えた。紗希は自宅へ向かうのをやめ、駅へ向かって歩き出す。駅の階段を上りながら、智哉に返信する。
智哉、今、家にいるよね
「いるよ。今日はずっと」と智哉。
良かった。今からそっちに行くから待っててよ
そう、待ってるって言ったの智哉だから。
駅のホームに着くと、霧の中からライトを点けた電車が向かってくるのが見えた。電車を待ちながら、紗希は智哉の味噌汁みたいな特別な何かを自分は持っているのかと自問する。でも、そんなことはどうでもいい。とにかく今度は自分が智哉を温めたい。その想いだけは確かだった。
紗希はホームに到着した電車に勢いよく乗り込んだ。
ゆっくりと走り出した電車の窓から外を見る。さっきまで景色を真っ白に染めていた霧は、朝の光を受けてほんのり桃色に変わっていた。
線路の先、霧の切れ間からは真っ青な空が見えていた。
おしまい
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今回はフォローさせていただいているだいふくだるまさんの企画『秋を奏でる芸術祭』に参加するための記事です。
今回は秋の初め頃にお試し運用していた別アカウントで書いた短編を整えて掲載しました。別アカウントの閉鎖に伴い、これからはこちらでも少しずつこうした創作を投稿していこうと思います。
だいふくだるまさん、yuca.さん、素敵な企画をありがとうございました。

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