Jホラーは、境界が曖昧な国で生まれた
8月は、Jホラーを中心に書いていく。
その前に一度立ち止まって、日本の恐怖の文法を整理しておきたい。同じ「民俗学で読む」という行為でも、日本とヨーロッパでは前提がまったく異なる。
1. 欧米ホラーとJホラー、恐怖の文法の違い
現代ホラー映画では、多くの場合「外側」からやってくる。
ザ・リチュアルの森、ミッドサマーの村、イット・フォローズの呪い——いずれも「こちら側」の世界に「あちら側」の何かが侵入してくる構造だ。境界は明確で、怪異はその境界を越えてくる。
しかしJホラーは違う。
怪異は「外側」からやってこない。もともと「こちら側」にいる。あるいは、こちら側とあちら側の境界が最初から曖昧で、気づいたときにはすでに混在している。
この違いは、日本の死生観の根底にある構造から来ている。
2. 日本は異界との境界が曖昧だ
お盆という行事がある。
先祖の霊が年に一度この世に戻ってくる期間として、日本中で行われる。迎え火を焚いて霊を招き、送り火で送り出す。精霊棚(施餓鬼棚)を作り、供物を置く。
重要なのは、これが「異常事態」として扱われていない点だ。
死者がこの世に戻ってくることは、日本の文化において当然のこととして組み込まれている。年に一度、異界との接続が開く。それは恐ろしいことではなく、むしろ迎えるべきことだ。
遠野では、お盆に施餓鬼棚を作る習慣が残っている。柳田國男が記録した遠野郷は、特にこの異界との境界が曖昧な土地として知られている。山の神、河童、座敷わらし——遠野の伝承には、異界の存在が日常の中に当然のように存在している。
これは遠野に限った話ではない。日本全体が、異界との境界を曖昧なものとして文化に組み込んできた。
3. 怨霊という概念
欧米の幽霊と、日本の怨霊は根本的に違う。
欧米の幽霊は多くの場合、未練があってこの世に留まっている存在だ。成仏できずに彷徨っている。怖いが、基本的に受動的だ。
日本で「怨霊」という形で体系化された存在は、違う。積極的に生者を攻撃する。
菅原道真、平将門、崇徳天皇——歴史上、無念のうちに死んだ者が怨霊となり、疫病や災害をもたらすという記録が繰り返し登場する。御霊信仰とはその怨霊を鎮めるための信仰だ。祇園祭の起源も、御霊を鎮めるための祭礼だった。
おしょらいさん(お精霊さん)という言葉がある。京都で使われる、先祖の霊への呼称だ。親しみを込めた呼び方であることが示すように、日本では死者の霊は恐ろしい存在であると同時に、敬い祀るべき存在でもある。
怨霊と供養はセットだ。怨霊が生まれるのは、正しく祀られなかった時だ。
4. Jホラーが怖い理由
ここまで整理すると、Jホラーの恐怖の構造が見えてくる。
Jホラーが怖いのは「異界が侵入してきた」からではない。「もともと繋がっていたものが、正しく扱われなかったために、制御できなくなった」からだ。
リングの貞子は、正しく祀られなかった怨霊だ。呪怨の伽椰子は、強烈な感情のまま死んだ存在が穢れとして場所に残っている。どちらも「外側からの侵入」ではなく「内側からの滲み出し」だ。
欧米ホラーが「境界を越えてくるもの」への恐怖なら、Jホラーは「境界がもともとなかったことへの恐怖」だと言えるかもしれない。
おわりに
8月は、この文脈でJホラーを読んでいく。
怨霊、穢れ、祟り、御霊信仰——日本の民俗学のノートを開きながら、Jホラーの恐怖の正体を解剖する。欧米ホラーとは異なる恐怖の文法が、どんな景色を見せるか。
怖いのは、怨霊ではない。
最初から境界など存在しなかったという事実なのかもしれない。
見出し画像:Photo by C Cai on Unsplash
